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どんな専門家でも、確実に「オワコン化」させる「黒魔術的方法」とは何か?

中原淳立教大学 経営学部 教授
(写真:アフロ)

みなさんは「専門家をダメにする方法」 があるのをご存じですか?

えっ、そんなこと知らないって?

フツー、そうですよね。だって、誰得だもんね(笑)。

でも、「どんな専門家でも、たちまちダメにしちゃう方法」は確実にあるんです。

それを繰り返していると、どんな専門家でも、だんだんと「色褪」せて、声色に艶を失っていき、いわゆる「オワコン」化(終わったコンテンツ)していく、まことに恐ろしい「黒魔術」のような方法!?です。

しかも、「黒魔術」なのに、その方法は、とても「シンプル」なのです。恐ろしいほど、シンプル。しかも、効果はテキメン。

個人的に、僕がひとつ「確実な方法」だな、と思っていることは、これです。

それは、

「専門家に、"自分の専門外のこと"を、"あたかもその筋の専門家"のように語らせること」

です。

たったこれだけ、めちゃくちゃシンプル。しかし、それでいて、黒魔術(笑)。

それを繰り返していると、たぶん、専門家はだんだんと「声色に魅力」を失っていきます。不思議と、自ずと、そして、確実に(笑)。

いろいろな定義があるのでしょうけど、一般に、専門家とは、それぞれの専門分野に固有の「概念」と、「思考の方法論」(研究方法論)と、「思考パターン」をもっている人のことをいいます。

専門家は、それらの「道具」をフルに活用して、世の中の「現象」に深く切り込み、「一般の人」とは「異なるかたち」で、現象を理解します。専門家は、一般の人とは、見る視座、角度が異なるから「専門家」なのです。

別の言葉を使えば、専門家とは、「様々な(概念的)道具」を駆使して、「一般の人(非専門家)には見えないもの」を「見る」ことのできる人である・・・ここでは仮に、こう定義をしましょう。

しかし、世の中の人々- とくにメディア- は、「専門家が専門家たる由縁」と、「専門家が探究している狭くニッチ領域」を、「確実」に、しっかりと、理解しているわけではありません。

「ある領域の専門家」が、自分の探究領域を語る、その「勇姿」が「スマートでカリスマティック?」に見えれば見えるほど、その人に、他のこと、「その人の専門外に関すること」でも発言を求めたくなるのです。

つまり、「ある専門家が、こんなにもスマートであるならば、どんなことであっても、どんな現象であっても、語ることができるのではないか」と考えるようになるのです。

ある専門家が、ある領域においてスマートであればあるほど、「専門家に、自分の専門以外のことを語ること」を求められる傾向があるということですね。

「いつものように、ババーンといっちゃってください! えっ??僕の専門とは違う? まー、そう固いこといわずに、ババーンと、ほれ、ババーンと。先生は、自分の思ったことを、思ったとおりに、言えばいいんですよ。」

当初、そうしたリクエストに対して、専門家は「これは自分の専門とは少し違うな・・・」と訝しがることもあります。

ま、最初のうちは。

「なして、オラなんだべか?」

「なして、オラが、この問題を答えてんだべか?」

「そりゃ、無理あるっしょ!」

「他に、もっといい人が、いるんでないかい」

しかし、このように疑問をもっていたとしても、彼/彼女が「善意」に満ちていればいるほど、そうした「外部からのリクエスト」に、できるだけ応えようとします。

「ちょっと無理あるけど、何とか答えてあげよう」

そして「自分の道具」が決して本領を発揮しない領域であっても、「丸腰」「素手」で、戦いを挑むのです。願わくば、自分の「道具」がうまく機能することを夢見て・・・。

しかし、多くの場合、それほど事態は甘くありません。

考えている以上に、世の中の現象は「複雑怪奇」、「暗くて深い耳の穴」なのです(意味不明)。

「キレ味最強な、キンキンにとがった道具」を複数に組み合わせ、ようやく、それなりの現象理解が可能であるのにもかかわらず、いまや、彼 / 彼女は、それを持ち得ていない。

今の彼 / 彼女は、「武器」を持たないまま、「丸腰」で複雑な現象に切り込んでいるのです- そう「非専門家」と同じように。

もちろん、事態が幸いする場合には、たまたま、自分の手持ちの「道具」で、「現象を鮮やかに把握すること」ができる場合もあります。

しかし、多くの場合、そういう「幸運」は、長くは続きません。

武器をもたず丸腰で対象に切り込んでいるので、「どこか、ぼんやりとした、キレ味に欠ける語り」や「そこらの巷で繰り広げられる居酒屋談義」を、繰り返すことの方が、確率としては、高くなります。

そうした「ぼんやりとしたキレ味にかける語り」が多く積み重なり、人々に消費されていく。

少しずつ、人々の社会的期待を静かに裏切りながら。

その人の専門性に関する人々の信頼を少しずつ失いながら。

そして、そうしたプロセスの中で、自らの「道具」をひとつひとつ手放したり、「自らの領域」と「それ以外の領域」の境界を見失ってしまうのです。

最悪の場合、行き着く果ては、専門家が「ダメになる事態」です。

「あの人、最近、面白くなくなったね・・・」

「あの人の専門って、そもそも、何なんだっけ?」

専門家とは「何」か?

この形而上学的な問いに対する回答は様々でしょう。

先に述べたように、「専門家とは、独自の概念・方法論・思考形式を持ちうる人である」というのも、その問いに対する回答のひとつでしょう。

しかし、こうも、いうことができます。

専門家とは、「自分が探究できない領域」の存在を知っている人のことをいう

あるいは、

専門家とは、自らが「探究しない領域」を見極めている人のことをいう

繰り返しになりますが、世の中は「複雑怪奇」「魑魅魍魎」「阿鼻叫喚」に「四面楚歌?」です(笑)。

複雑な世の中を相手にして、ひとつの「専門的な概念装置」が浮かび上がらせることのできる領域は、限られています。

だからこそ、現象に対する知的探究は、多様で、かつ、学際的に、かつパラレルに存在することが大切なのかもしれません。

そして人生は続く

(この記事は、中原淳の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET(2012年10月25日)」の再掲記事です)

立教大学 経営学部 教授

立教大学 経営学部 教授。経営学習研究所 代表理事、最高検察庁参与、NPO法人カタリバ理事など。博士(人間科学)。企業・組織における人材開発・組織開発を研究。単著に「職場学習論」「経営学習論」(東京大学出版会)、「駆け出しマネジャーの成長論」(中公新書ラクレ)「フィードバック入門」(PHP研究所)、「働く大人のための学びの教科書」(かんき出版)などがある。立教大学経営学部においては、リーダーシップ研究所・副所長、ビジネスリーダーシッププログラム(BLP)の主査(統括責任者)をつとめる。

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