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悩める社会人の大学院進学入門!?:業務経験の悩みがそのまま「研究」にならないことがあるのはなぜか?

中原淳立教大学 経営学部 教授

東大の僕の研究室には、社会人経験のある大学院生の方々が所属し、日々、研究に邁進しておられます。

社会人をへて大学院に進学なさってきた方と、これまで数多くの論文指導・コミュニケーションをしてきて痛感するのは、「学部生からそのまま修士に上がられた方」と、「社会での実務経験をへて大学院にあがられた方」では、

「大学院進学時に抱える課題」に違いがある

ということです。

もちろん、どちらがいいとか、悪いとかいうことでは全くありません。

学部生あがりであろうと、社会人経験があろうと、僕の前には、「指導をしなければならない大学院生がひとりいる」ただそれだけです。

ちなみに、学問分野によって傾向は異なると思いますので、以下の話は僕の研究分野に限ってのことだとご認識下さい。

社会人経験をへて大学院に進学なさってきた方が、もっともお悩みになるのは、下記の「2×2のマトリックス」で表現できます。

研究として成立するか、しないかマトリクス
研究として成立するか、しないかマトリクス

この表の縦軸は「自分の問題関心にどんぴしゃか / 自分の問題関心とは違うか」です。

横軸は「研究として成立するか / 研究として成立しないか」です。

ここで読者の方々の中には「研究をしたことのない方」もおられるでしょうから、ちょっとだけ付記しておきたいのは、「研究として成立する」という文言です。

「ひとつの問い」が「研究として成立するため」には、これだけで本一冊書けちゃうくらいの多数の要因がありますが、もっとも大切なことは、「先行研究があるかないか」です。

自分としてはどんなに「ワンダホーだと思われた仮説」であっても、「過去に他の誰かがやってしまったこと=先行研究が存在する研究」というのは、「ひとつの研究」として成立はしません。

なぜなら、その研究には、研究の絶対条件である「オリジナリティ」がないからです。

どんなに「トリヴィアルな問い」であっても、「誰もやっていないこと」「斬新であること」「ユニークであること」が、研究の最低条件です。

つまり、研究には、「爪の垢」程度でも、「ハナクソ」程度でもいいので

「誰もがやっていない、ほんの少しのオリジナリティが必要」

なのです。

どんなに本人としては「イケてるだろ」と思っていることでも、他人に対して「オリジナリティを主張できない研究」は、「研究としては成立」しません。

その上で、先ほどの「2×2のマトリックスの4象限」に戻りますと、1の場合、すなわち

「社会人大学院生の方が自分の問題関心にぴったりなことで、しかも、その問いが独自性があり、かつ、フィージブルである=研究として成立する」場合

には、何の問題もありません。

ノーストレス、めでたしめでたしです。

また4の場合は、お話になりません。

「自分の問題関心からズレていて、かつ、研究にもならないのであれば」、何のために大学院生になったかわかりません。

大問題は2とか3のパターンなのです。

2の場合は、

「自分の問題関心としてはぴったしかんかん、なんだけど、指導教員からは、うーん、それは研究にならないね」

と言われるドサイアクパターンです。

こうした指導教員の先生から指摘され、多くの社会人大学院生が、モンモンとした経験をお持ちなのではないでしょうか。

3のパターンとは、

「自分の問題関心とはズレているんだけど、研究として成立するから、やんなよ」

と言われるちゃうようなパターンです。

ま、こっちの方がドサイアクパターンかもしれません。

ちなみに、僕の場合は、大学院生の方々に自分の問題関心や研究テーマを与えることは、ほとんどありませんので、このケースはごく稀です。ただし、分野によっては、3のケースで問題が生じることもありえるだろうな、とは想像します。

この2と3のパターンの場合、社会人大学院生の方々は、非常に高いストレスをおぼえることが、非常に大きいような気がします。

なぜなら、図にもありますように、「自分の問題関心」の奥底には、「自分の社会での業務経験」が存在し、それに裏打ちされ、かつ、突き動かされるかたちで、大学院に進学しておられるからです。そこには、実に根深い自分のルーツやモティベーションがある場合がある。

「経験」というものは、多くの場合、第三者には「否定」できないものです。しかも、それはともすれば「絶対化」しやすい傾向があります。特に2の場合、最悪のパターンでは、「自分の経験に固執するがあまり、研究がすすめられない」ということが起こりえます。

おそらく、こうした場合、まず求められることは、自分の業務経験や自分の問題関心を「いったん脇におき」(まるっきり捨てる必要はありません)、そのうえで、先行研究や仮説づくりと向き合い、「自分の問題関心」とも合致し、「研究としても成立する」ような問題の切り取り方やアプローチの仕方を探す必要がある、のだと思います。

しかし、そこには「痛み」や「違和感」がともなうことがあります。

なぜなら、自分の業務経験や問題関心を、捨てる必要はないにせよ、いったん脇におき、それとはともすれば矛盾するような過去の先行研究とつきあわなくてはならないからです。

でもね、厳しいことを申し上げますが、

あなたは自ら「希望」して大学院にきたのですよね。

大学院には、痛みや違和感をときに抱きしめなければならない夜もあるのです。

今日は、社会人経験のある大学院生の方々が抱えることの多い課題について論じてきました。

今日のお話は、どちらかというと、大学院参入時の話となりますが、これ以外にも、様々な課題が見受けられます。

しかし、今日はネガティブな側面に注目してきましたが、それを乗り越えられたときには、とてつもないポジティブな側面も生まれる可能性があります。

「自分の業務経験」や「自分の問題関心」が明確である分、それをうまく相対化し、研究方法論を見つけ、研究として昇華できた場合には、まことに味わい深い研究が生まれる可能性があるのも、また事実なのです。

社会人の方々が、大学院でより多くの学びを得られることを願っています。

そして人生は続く

(本記事は、中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」に掲載されていた記事を、加筆・修正したものです)

立教大学 経営学部 教授

立教大学 経営学部 教授。経営学習研究所 代表理事、最高検察庁参与、NPO法人カタリバ理事など。博士(人間科学)。企業・組織における人材開発・組織開発を研究。単著に「職場学習論」「経営学習論」(東京大学出版会)、「駆け出しマネジャーの成長論」(中公新書ラクレ)「フィードバック入門」(PHP研究所)、「働く大人のための学びの教科書」(かんき出版)などがある。立教大学経営学部においては、リーダーシップ研究所・副所長、ビジネスリーダーシッププログラム(BLP)の主査(統括責任者)をつとめる。

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