「コーチング」とか「アクティブラーニング」するなら「教えちゃ絶対にダメ」なんでしょ病!?

(写真:アフロ)

先だって、あるマネジャーさんとお話をしているときに、こんな話題になりました。

先生、コーチングって知ってますか?いや、会社から、研修を受けろっていうからね、研修を受けたんですけどね。あれ、どうなんですかね。教えちゃダメだっていうんですね。相手に気づかせるんだって。

でも、教えちゃダメっていわれてもね。知識もスキルも何にもない新人の内面を「まさぐって」も何にも出てきやしませんよ。教えたらダメっていわれても、教えなしゃーないでしょうが。

仕事、覚えられないですよ、そんなんじゃ。教えたらダメっていわれてもねー。先生、どうしたらいいですか?」

ICレコーダを持っていたわけではないので、一字一句同じではないですが、このマネジャーさんがおっしゃっていたことは、こうした趣旨のことでした。

「コーチング=内面をまさぐる」(笑)。

この言葉から、なんか「淫靡な感じ」が漂ってくるのは、「おれたち妄想族」のメンバーである僕だけでしょうか(笑)。

この方のおっしゃりたいこと、ご主旨はよくわかります。

そして、このことは、僕が日々思っていた問題意識に近かったので、その方とは意気投合して、その後、どうしたらよいかを一緒に考えさせて頂きました。

素敵な時間をありがとうございます。

僕の専門は「人材開発」。

研究柄、現場で管理職の方々から、ヒアリングをさせていただくことが多々あります。

そのとき、この方に限らず、一般の現場のマネジャーさんから「コーチング」という言葉がでるとき、たいていでてくるのは、こうしたお話です。そして、こういう瞬間が出る度に、僕は思うことがあります。

それは日本の経営教育においては、

コーチングを「説明」するときに、「ティーチング」を「仮想敵」において語られることが多いのですが、そのロジックには「弊害」が多いのではないか? 現場に「呪縛」を生み出しているのではないか?

ということです。

典型的なコーチング導入の「ロジック」はこうです。

まず、

ティーチングは「一方向的に教えること」である

とする。

それに対して

コーチングは「相手に気づかせること」である

とします。

そのうえで、

ティーチングは「時代遅れなもの」「だめなもの」とおき、コーチングを「よきもの」として「価値」づけるロジックが展開されます

つまり、ティーチングとコーチングを「対極」にして、「コーチング」の有効性を主張するということですね。

要するに展開されているのは「振り子的ロジック」です。

それをやる「気持ち」はよくわかります。

「わかりやすい」し、説明もしやすい。

「わかりやすい」から「売れる」(笑)

しかし、このような「論証のロジック」が本当に、これでよいことなのかは、僕は、かなり疑問があります。

というか、まったく問題があると思っています。

もちろん、それにかかわる多くの賢明な識者の方々は、こうしたロジックや演習のあとで、「ティーチング」の重要性も、同時に述べていらっしゃるのだと思います。

しかし、現場の方には、先ほどの「二極化された論証」がだけがどうしても「頭に残る」

つまり、

ティーチングは「教えること」であり「ダメ」なもの

コーチングは「気づかせること」であり「よい」もの

という二極化された論証だけが頭から離れなくなるのです。

そして、冒頭に紹介された、件の現場マネジャーさんがそうであるように、そのことが「呪縛」になって部下指導の際に、とまどってしまう、ということが起こりえるのだと思います。

僕は「コーチング」の有効性を認めたうえで、「ティーチングが適しているか」か、「コーチングが適しているか」なんてケースバイケースだと思います。

「ティーチング」が「ダメ」で、「コーチング」が「よい」とは僕は思いません。

そんなものは「ケースバイケース」です。

大切なことは「コーチングという新たな武器」をもつときに、「ティーチング」という「これまでの武器」を放棄することじゃない。

しかし、多くの現場では「コーチングという武器をもたせる」ときに「ティーチングという道具を放棄させる」ロジックを展開している。

僕はこれが、ずっと疑問でした。

むしろ僕の主張は「逆」です。

むしろ、「教えなければならないとき」には、自信をもって、しっかりきっちり「教えきっていただきたい」と僕は思います。

そのうえに「コーチング」はあるから。

「きっちり教えること」と「コーチング」はなにひとつ矛盾しないから。

実は、これによく似たロジックは、教育業界にも存在します。

それは「アクティブラーニング」という言葉にまつわるロジックです。

一般に、

アクティブラーニングも、その導入に際して、「一斉授業」を「仮想敵」にして、自らを価値付け、その有効性を主張してしまう場合が多い

要するに

「これまでの一斉授業」は「教えること」であり「ダメ」なものである

アクティブラーニングは「ともに学ぶこと・発信すること」であり「よいもの」とする

ということです。

しかし、懸命な読者の方ならおわかりのように、

「ともに学ぶこと・発信すること」を効果的になすために、「堅牢な知識をすでにもっていること」が必要です。

要するに

「よいアクティブラーニング」を生み出すためには、「よい一斉授業」がなされなくてはなりません

「よいアクティブラーニング」の基礎になるのは、しっかりとした知識のインプットです。

それなのに、アクティブラーニングの導入の際には、「アクティブラーニング」という武器をもたせるときに、これまで慣れ親しんだ「一斉授業」という武器を放棄させてしまう。

こうした事例があとを立ちません。

だから、最近、現場でこんな言葉をよくききます。

「先生、これからは、一斉授業やったらダメなんですよね?」

「先生、これからは、僕が喋っちゃダメなんですよね?」

「おかしな話」だと僕は思います。

「アクティブラーニング」を売りたい側の「二極化ロジック」が、過剰に変なかたちで、現場を呪縛している。

そういうときは、「そもそも」に戻りましょう。

まず、大切なことは「目的」でしょう。

目的は、子どもや生徒を「脳がちぎれるほど、ともに、考えさせること」でしょう。

それが必要な「学び」でしょう。

そのための武器や道具が「一斉授業」であるか、「グループワーク」であるかは「ケースバイケース」だとぼくは思います。

ただし、これまでの道具は「一斉授業」にかたより寄りすぎていた。だから他の方法も、試行してみましょう。これまで持っていた武器と組み合わせて、「脳がちぎれるほど、ともに考えさせる」という目的を達成すればよろしいのではないか、と思いますが、いかがでしょうか。

この国には、今、「教えること」を「ダメ」とする呪縛が蔓延している。

そのことから、ぜひ、自由になっていただきたいな、と思います。

「教えなければならないとき」には、自信をもって、しっかりきっちり「教えきっていただきたい」と僕は思います。

そのうえに「アクティブラーニング」はあるから。

「きっちり教えること」と「アクティブラーニング」と何ひとつ矛盾しないから。

今日はコーチングとアクティブラーニングの「導入」をめぐるロジックについて、少しだけ考えてみました。

誤解を避けるために申し上げますが、僕は、コーチングやアクティブラーニングがダメといっているわけではありません。

また、その有効性を疑っているわけではありません。むしろ、個人的には、アクティブラーニングやコーチングの「かなり味方」だと思います(笑)。

しかし、そのうえで申し上げるのは、「導入のためのロジック」にまつわる疑問です。

もちろん、それぞれの導入者の多くは、注意深く、それらを論証しているのかもしれません。

しかし、二極化の論法は、わかりやすい反面、現場に多くの疑問と呪縛を残してしまうことも、また「事実」です。

自戒をこめて申し上げますが、「極」にふった「振り子的議論」をするときには、ぜひ、気をつけていきたいものです。

今、日本の全国いたるところでは、

ロールプレイングゲーム(RPG)の中で、敵の面前で、「ナイフ」という武器がよいか、「槍」という武器がよいかを、口角泡をとばして、論じているようなこと

がおこなわれているように僕には思います。

そして「ナイフ」を手にした人は、「槍」を放棄させるみたいなことが平気のへーちゃんでおこなわれています。

しかし、一般に、RPGゲームの中で、新たな武器を手にした場合、古い武器は放棄しないですよね。

また、敵の面前で、武器の優劣を口角泡飛ばして論じるプレーヤーもいません。

あのね、そんなことしてると、やられるよ、あんた(笑)。

武器は、敵(目的達成)にあわせて、プレーヤーが選べばよいのではないでしょうか。

大切なのは、RPGゲームをクリアすることであり、目的を達成することです。

地に足をつけて、前をむいて「ラスボス」を倒すことに集中しましょう。

あのね、ラスボス、手強いんだよ。

美術2が描くラスボス
美術2が描くラスボス

そして人生はつづく

(本記事は、中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」に掲載されていた記事を、加筆・修正したものです)