かなり前のことになりますが、あるところで、ビジネスパーソンの方々と、大学教育について議論になりました。
その方々曰く
「大学教員の教え方はひどかった」
「大学は全くなってない」
とおっしゃるので、まずは、お話をうかがっていたのです。
話は非常に面白く、また、大変盛り上がりました。
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上記の方のように、自分が大学教育を受けた際のことを懐古し、「大学教員の教え方はひどかった」とおっしゃる方々は多々いらっしゃいます。これまで何度、ビジネスパーソンが集まるシンポジウムやフォーラムで、この手のクレーム(!?)をふっかけられたことか(笑)。
その方が、いわゆる「大学生」を謳歌していたころ、僕は、まだ当時「小学生」なんですけどねぇ。
その方が、やれジュリアナやら、やれドンペリだと興じている、そのとき、僕は「3桁のたし算」を習っていたのですけれどもね(笑)。その僕に対して、「大学のクレーム」がくるのですよね・・・おかしいですねぇ(笑)。
年代や大学によっても、状況は変わるので、一概にはいえませんが、そうですね、そういうお話を伺っていると、確かに、そういう「牧歌的な時代」もあったのかもしれないな、なんて想像します。
「真偽」のほどは、僕は知りませんし、知りたくもありません。
その当時の大学人に、何ら感じるところはありません。勝手にしてください。
くどいようですが、僕は、当時、なんせ「小学生」なんだから(笑)。
まぁ、僕自身も、「どこの大学で?」とは口が裂けてもいいませんけれども(笑・・・僕の通った大学はひとつです)、「惨い授業」「凄惨な講義」を受けたことはゼロではありません。
真偽のほどはよく知らないけれど、ビジネスパーソンのお気持ちは「痛い」ほどよくわかります。確かに、そういうものもあったようにも思います。
そう、昔は惨かった・・・。
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ただしね、僕自身の胸に手をあてて、昔を懐古してみると、同時に思うこともあるのです。
「大学教員の授業は惨かった」
「大学はケシカラン」
という「大学側の責任」を糾弾する認識だけでは、いわゆる「その時代の大学における教育・学習の惨さ」を語るには「片手落ち」であると言わざるをえないんじゃないかな、と。
そういう話を伺うたびに、ときどき、自分の過去のことを考えて、心が痛むときがあるのです。
大学時代を懐古し、「当時は、大学の授業は惨かった」と口にするとき、それらの方々には、ぜひ、少なくとも一度は、思い起こして欲しいな、とも思うのです。そのうえで、大学時代を全体を懐古してほしいとも思うのです。
僕が「問いかけたい」のは、こういうことです。
今から数十年前、大学の門をはじめてくぐった皆さんは「大学で、自ら意欲的に学ぼうとしていましたか?」。
まさか「大学に入れば、あとは勉強しなくていい」と思っていませんでしたか?
自宅でもこういう話をしていませんでしたか?
「大学はレジャーランド(レジャーランドって死語ですね!)みたいなものだから」。
「一にサークル、二にバイト、三四がなくて、五にバイト」
「大学に入りさえすれば、おれの人生は安泰!」
「いい大学に入れば、いい就職、いい企業、いい人生」
「授業にきたら、どのあたりに腰をかけていましたか?」。
いえいえ、そもそも「授業にきてましたか?」
いやいや、そもそも「大学には来てましたか?」
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何が言いたいかは、明確です。
「大学教員がきちんと教えていないこと」と「学生自身が自ら学ぼうとしなかったこと」は、当時「共犯関係」の中にあったのではないでしょうか、ということです。
学ぼうと思えば、もっと学べる。
しかし、そうはしなかった。
と、同時に、教えようと思えばもっと教えられる。
しかし、そうはしなった。
なぜなら、両者の思惑が一致していたから。
両者が「共犯関係」にあったから・・・
‘’’「怠惰」という、この1点において、'''
両者は共犯関係あったから。
すなわち
「自ら学ぼうとする学生がいないから、きちんと教えなくてもよい」
「きちんと教えないから、学ばなくてもよい」
という「自己に都合のよいロジック」をそれぞれ協働(!?)してつくりだし、「きちんと教えること- しっかり学ぶこと」には決して向かわない「Win-Winの共犯関係」をつくりだしていたのではないでしょうか。
もちろん「教えるもの」「学ぶもの」のあいだに「非対称な権力」が存在し、かつ、大学には「教育の質保証」と「学位発行」の責任がある以上、前者が圧倒的にイニシアチブをもって、この問題を解決しなければならないことは承知しつつ、敢えて、述べています。
また学問分野によっても、この状況は違うのだと思います。僕の話は、どうしても、僕の経験に偏る傾向があります。もしあてはまらないことがあったとしたら、どうかお許し下さい。
しかし、おそらく「教える現場- 学ぶ現場」で発動していたリアリティは、「共犯関係」の中から構築されていたのではないか、というのが僕の妄想です。
しかも、そこにもうひとつのエージェントが、さらなる「ネガティブシナジー」を生み出した。それは「大学教育の出口たる企業」です。
「ごちゃごちゃいわずに、くだらん色やら、しょーもない智慧はつけんでいいから、まっさら、白紙で入社してこい」
企業の「白紙信仰」は、今よりずっと強固であったと想像します。
「悪意」はそれほどありませんでした。
なぜなら、企業経営には、今よりもっと余裕があったのです。
イケイケドンドン、つくれば、儲かる。
職場に送り出しさえすれば、何もしなくても、人が育ち、働く。
それを「OJT」という名前で「呼べばいい」。
意図的に何にも育ててないけれど、OJTで育ったってことにしておけばいい
それは歴史的にみれば、戦後、ごくごく短期間生まれた「つかの間の幸福な時間」でした。
そんな「幸福」がずっと続くわけはないのに、「永久に続く」とみんなが思っていた。
大学における「教える側」と「教えられる側」の「共犯関係」、それを裏打ちする「企業の白紙信仰」は、かくして黄金時代を迎えていたのです。
‘’’「黄金時代」はつかの間の「整合性」でした。'''
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最近、いろんなところで告白していますが、僕は、大学時代の一時期、本当に「怠惰な学生」でした。
少なくとも僕に関しては、大学時代の一時期、「学ぶ意欲」も「学ぶ姿勢」も、その「かけら」もありませんでした。僕は、完全に「学ぶこと」から逃走していました。
その僕が、大学におり、大学教育を記事にしているのだから、世の中、ちゃんちゃらおかしいものです。
本当にごめん。
ごめんなさい。申し訳ない。
でもね、当時の僕は、しかし、そのくせ、文句ばかり言っていました。
「大学はきちんと教えていない」
「大学の授業は全くなってない」
上記の「問いかけ」は、「自分への懺悔」なのかもしれません。
嗚呼、でも、同時に思うのです。
後世の世代は、どうか、こういう「紋切り型の大学教育の言説」に巻き込まれないで下さい。そういう「月並みなストーリー」を生きないで下さい。
本当に、大学時代ほど、「自由に、大胆に、リスキーに学べる時間」、「何にでも挑戦できる時間」は、その後の人生では、なかなか訪れないのです。
そういう時間をふたたび過ごすことに「憧れ」、しかし、「ため息」をつくことが、世の中の大人に、どんなに多いことか。
「あのとき、もう少し学んでおけばよかった」と。
「あのとき、もっと、チャレンジするんだった」と。
たぶん、どんなに言葉を尽くしたとしても、今大学生の皆さんには、そのことの「真意」は伝わらないのかもしれないのだけれども、どうしても、敢えて言いたくなるのです。
「大人は、みんな同じことを言いやがって!」と思うかもしれない。でもね、それは「本当のこと」だからだよ。
ごめんね、オッサン、はいってて(笑)。
すまんね、お節介で(笑)
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今日の話は、決して、「教える側」「学ぶ側」のどちらか一方に、「教えないこと- 学ばないこと」の責任を転嫁したいわけではありません。
先に述べましたように、前者には圧倒的な権力と責任が存在する以上、初動のイニシャチブは、まずは前者が行使しなければならない、と僕は思います。
また、ここで描かれた「牧歌的な状況」は、決して、現在の大学の置かれている状況とは異なります。かつては、それでも「何とかなった」。しかし、就職の状況は変わり、学生も変わり、大学も変わりつつあります。
今日の話題の根幹をなす「関係論的認識」とは、複数間の主体があるとき、それぞれ相手に「為すこと」「働きかけること」によって、関係を構成する主体に、それぞれ変化が生じることをいいます。
そもそも、歴史的には、大学は、「教えようとする人- 専門家を育てたいと思う人」と「学びたいと願う人々」のギルドでした。それは、そもそも、その起源において、「教えたい人」と「学びたい人」がつくりあげる「コミュニティ」だったのです。
今、大学教育も、企業も「待ったなし」です。
余裕も、残された時間的猶予も、そう多いわけではありません。
そういう時代にあっては、「大学教育のクオリティを落とすネガティブな共犯関係」ではなく、「大学教育を創造するポジティブな共創関係」が生まれることが、今、期待されているのではないかと思います。
どうか、希望の大学時代を!
そして人生は続く
(本記事は、中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」に掲載されていた記事を、加筆・修正したものです)
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