グローバル化社会とは「空気読めよ」に期待できない社会である!?

(写真:アフロ)

 ちょっと前のことになりますが、授業で「グローバル化社会って何だろうね?」ということについて議論したことがあります。マジメにやれば「グローバル化」というワンワードだけで、15回の講義がすべて終了してしまいそうな話題ですが、ここはブログ。話を思い切りはしょって

 その日の授業での結論は、

 自分の身近な環境の「ダイバーシティ(多様性)」が高まっていく社会

 ということになりました。

 ここで「ダイバーシティ」とは「ある集団メンバー間のちがいの程度」のことを指し示します。

 もちろん「違い」といっても、いろんな「違い」がありえますね。

 外国人、性差、雇用形態などの「外見や属性から識別可能な違い」もありえますし、考え方・キャリア観・仕事の位置づけの違いといった、なかなか目にみえない人々のあいだの「差異」もありえます。

 前者はもちろんのこと、後者のような「個々人の奥底に潜む違い」をも「ダイバーシティ」ととらえるのならば、わたしたちの今後の社会は、それぞれが、そこはかとなく拡大していくことが予想されます。

 グローバル化とは、「これから英語を話さなきゃね」という話ではありません。

 僕は、グローバル化とは、

「みんながそれぞれ違うこと」を前提に生きる覚悟を決める社会

 だと思います。

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 それでは、いったい「ダイバーシティが高まっていく社会=みんながそれぞれ違うことを前提にする社会」のなかで、わたしたちは、どのような「変化」を経験するのでしょうか?

 

 すぐに想像がつくのが、

''' 私たちがかつて得意としてきた「背中を見て育つ」「阿吽の呼吸」「察し」といったコミュニケーションスタイルが機能しない状態

''' が生まれるということです。

 すなわち、わたしたちの間に「違い」が深まるということは、

「わたしたち自身が同じであるという共同幻想」を前提に「省略」することができたコミュニケーションスタイルが、必ずしも「作動」しなくなるか、あるいは「足かせ」となってしまう事態が進行する

 ということが進行するということです。

 

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 要するに、これからの私たちの社会は、

 いつまでやっても、あうんの呼吸に「ならない」!

 背中はおのずから「語らない」!

 「空気読めよ」が通用しない!

 根性やガンバリズムには「逃げられない」!

 

 ことが徐々に常態化していくことが予想されます。

 すなわち、グローバル化とは「英語を学ばなきゃなんない」とか、やれ「外国人とつきあわなきゃなんない」、そういう表面的な話ではありません。

 ワンセンテンスで申し上げますと、

 グローバル化対応とは「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟です。

 それは、外国人であろうと、なかろうと。

 たとえ、日本人同士であったとしても。

 言葉を換えるならば

 グローバル化とは「おまえ、空気を読めよな」に逃げることができない社会に生きる覚悟です。

 くどいようですが、同じ日本人同士であったとしても。

 その覚悟を嫌がおうでも、持たざるをえない社会が、すぐそこ、今ここにまで迫っています。

 そのような中でもっとも大切で、しかしもっとも面倒なのはきちんと言葉をつくして、多様な人々のあいだに、ひとつひとつ納得解をつくりだしていくことが求められるようになるでしょう。

 これからを生きる人は、言葉を尽くさなければならないのです。

 くどいけれど、英語云々の話じゃありません。

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 さて、今日の話題は、グローバル化やダイバーシティといったことでした。

 これにゆるく関して、劇作家の平田オリザさんの著書「対話のレッスン」に非常に興味深いことをお書きになっています。少し長くなりますが、引用させていただくと、このような感じです。

 二十一世紀のコミュニケーションは「伝わらない」ということから始まる。(中略)

 私とあなたは違うということ。

 私とあなたは違う言葉を話しているということ。

 私は、あなたが分からないということ。

 私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。

 そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないということ。

 そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。

 (中略)

 まず話し始めよう。

 そして、自分と他者との差異を見つけよう。差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、二十一世紀の対話が開けていく。

(平田オリザ「対話のレッスン」p241-222より引用)

 平田さんは、現代の社会の様相を「差異」と「対話」に求めます。

 そして、僕がもっとも共感するのは、その道は「容易な道ではないこと」を認めながらも、一方で、それは

'''「決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ」

'''

 を信じると述べられているということです。

 

 つまり、これから起こる変化に「絶望」するのではなく、そこに「希望」を信じて、前に進むことをよしとする。

 そうした態度が素敵だなと思いました。

 さて、あなたには「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟はありますか?

 「空気読めよ」に逃げられない社会を生きることに腹をくくれましたか?

 そして、そこに「希望」を感じていますか?

 そして人生は続く

(本記事は、中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」の2015年6月30日の記事に、加筆・修正を行ったものです)