プレゼンの成果は「最初の3センテンス、12秒」で決まっている!?

(提供:アフロ)

 ちょっと前のことになりますが、NHKのETV特集でやっていた「プレゼンが世界を変えるTED 人の心を動かす技」という番組を拝見いたしました。

 この番組は、TEDの思想と、TEDという舞台で素晴らしいプレゼンを行っている人のプレゼンと、それにまつわるストーリーを紹介するものでしたが、非常に興味深く見ることができました。

 いくつものプレゼンを番組内で拝見し、「世界的に有名になるプレゼン」の「共通点」に思いをはせたとき、個人的に、いくつか実感したことがございます。

 ここでは敢えて3つにしぼってお話をしましょう。

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 ひとつめ。

 これは、よく言われることですが、

'''  何を伝えるか?(What to deliver)''

' 

 ということと「同時」に、それに加えて、

  どのように伝えるか?(How to deliver)

 ということが、無視できない重要性をもっているということです。

 番組では、公衆衛生学がご専門の「ハンス・ロスリング」さんが、自らのプレゼン録画を見つつ振り返りながら

「プレゼンの冒頭では、最初の2つの文までは黙って聞いてもらえる。ただし、3つめの文では興味をひきつけなければならない。最初の12秒でひきつけないと、聴衆は離れていく」

 というようなことをおっしゃっていました。非常に印象深い言葉で、かつ、彼の実践知に支えられた言葉です。

 ちなみに、ハンスロスリングさんのプレゼンは、下記のサイトでも見ることができます。

東大テレビ:ハンスロスリング教授講演
東大テレビ:ハンスロスリング教授講演

東大テレビ:ハンス・ロスリング教授講演会「先入観をくつがえそう」

http://todai.tv/contents-list/events/w7kgmv/sub-jp

 最初の12秒で、どのようなメッセージを発し、いかに人をラーナブル(Learnable)な状態にするか、あるいは、学びのレディネスを高めるか。

 国境を越えるようなプレゼンテーションにとっては、内容(What)に加えて、Howの問いも、またクリティカルになるのですね。

 ところで、ふりかえって考えてみますと、僕ら自身は、「プレゼン冒頭の12秒間」に、何を、どのように話しているのか、とても考えさせられます。皆さまは、いかがでしょうか。

 中には、

「えー、ただいま、ご紹介にあずかりました、ちょめちょめです。わたくしごときのペーペーが、このような場にたっていいものか、どうなのかわかりませんが・・・」

 と妙に「へりくだっていた」姿勢で、「ペコペコ」していたり、していませんでしょうか。

「アンタのことを信頼して場をまかせてるんだから、"わたくしごときのペーペー"とかいって、"予防線"はるんじゃないよ」

 と思わず、便所スリッパで「スコーン」とやりたくなる衝動を抱える方もいらっしゃるかもしれません。

 もちろん、わたしたちが行うプレゼンは、いわゆるTED流のプレゼンではないので、それと並列に比較検討することは、誠に難しく、また。、まことにTEDにとって迷惑なのですけれども(笑)、自戒をこめて、最初の12秒間を考えさせられました。

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 ふたつめ。

 もうひとつ痛感することは、「プレゼンには王道はない」というアタリマエの事実です。

 つまり、「よいプレゼンテーションのやり方」とは、「スピーカーのキャラ・経験・専門性」と、かつ「聴衆の性質」という二つの要素の「関数」として、構築されているものである、ということですね。

 プレゼンテーションは、「聴衆とは誰か」を意識しつつ、それと「自分のキャラ」と重ね合わせ、つくられていたもののように思います。

 とかく、わたしたちは、「Howの問い」を目の前にしたとき、すぐに「答え」を探しがちです。しかし、おそらく、その「王道」はない、ということが番組からは読み取れます。

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 そして3つめ。

 上記2点を受け入れ、最後に思ったことは、「自分のプレゼンスタイルは、自分でつくりあげるしかない」ということです。

 誠実に、自分というキャラ、経験、専門性に向き合い、さらには聴衆の求めるものと向き合う。その上で「自分のプレゼンスタイルをつくる」。おそらく、そういうことなんだろう、と思います。

 そして、願わくば、折に触れて、ビデオなどを用いて「自分のプレゼンスタイル」を振り返る機会をもつ。そういう地道な努力の果てに、スーパープレゼンテーションはあるのかな、と思いました。

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 一般に、日本では「Howの問い」や「伝え方の技術」は価値の低いものと考えられがちです。

 もちろん、人々を思考停止に陥らせるような、教条化された方法知の弊害はよく承知していつつも、それをもって「方法知すべてが、イコール、意味のないこと、価値の低いこと」という風に考えるのだとすれば、それは議論を単純化しすぎであるような気もします。

 

 大切なことは、自らが「他者のつくりだした方法知の奴隷」になるのではなく「自ら方法知を創り出す主体」になることなのではないか、と思います。

 その上で、「社会的意義のある内容知」、すなわち「高い付加価値のあるWhat」を誰かに「伝えること」ができたとしたら、これ以上、望むことはないかもしれません。

 そして人生は続く

(本記事は、中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」に掲載され2013/02/20の記事に、加筆・修正を加えたものです)