「英語が話せない」のは「言葉の問題」ではない!?

(写真:アフロ)

「日本人が英語が話せない」のは「英語の言語スキル」がないからか?

 かなり前のことになりますが、ある本の編集会議で、編集者の方々と、

'''「英語を話せない」という社会現象は、なぜ生まれるのか?

 それは本当に「ことばの問題」か?'''

 ということをゆるゆると議論しました(笑)。非専門家による非専門的なダラダラトーク。僕は英語が専門ではないので、それでよろしければ下記をお読みください。

 僕たちが考えていたのは、外国人の方々を相手に、たとえば、「日本人が英語を話せない」というとき、その現象は、なぜおこるのか。それは本当に「ことばの問題」なんだろうか、とうことを話していた、ということです。

 ワンセンテンスでいえば、

「英語が話せない」っていうけれど、それって本当に「言語の問題」なの?

 ということでなりよ(コロスケ風)。

  ▼

''' たとえば、ひとつの可能性(仮説)。’’’

 それは「話せない」のではなくて「話す内容」がない(爆)

 つまり、一口に「英語が話せない」というけれど、それは「英語の言語スキルがない」ためではなくて、「言語という手段を用いて、他者に伝えたい内容がそもそも自分にない」ということです。しかし、これらは「実務・実践の現場」では一緒くたにされますね。

 といいますのは、「英語を話せない」とき、本当は「自分の意見をもっていないために、そもそも他者に伝えたい内容がないこと」は忘れ去られ、「話せないこと」の理由が「英語の言語スキル」に帰属されることがあります。

 本当は「話すべきことがそもそもない」

 なのに

「わたしは言語能力がないため話せない」となってしまうのですね。

 でも、少し考えてみればわかるとおり、そもそも英語はもとより、日本語であってすらも、ある話題に対して「自分の意見をもっていない人」は、それを他者に対して「表明」できるわけがありません。

 たとえば、よく外国に留学すると、学生同士が、政治の話、歴史の話に外国人から意見を求められることがあるけれど、そもそもそうした知識をもっていない人、そうしたことに自分の意見を持っていない人は、英語云々の問題ではなく、「話すべき内容がない」のです。だから、教養がないと、話せないの。

 このことは、少し考えてみれば、あたりまえのように感じられるけど、ともすれば忘れ去られがちです。

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 ふたつめの可能性(仮説)。

 初対面のひとと話すのは、そもそも苦手である。

 僕、かつて英会話スクールやら個人指導などにいろいろいっていた経験があるから思うのですけれども、多くの場合、スクールなどでは、英会話講師との出会いは「はじめてのこと」が多いのです。

 そうしますと、僕のように「内気」な人は、なかなか「しょっぱい経験」をします(内気に見られないけど、自分としては、めちゃ、いつもビビッて生活している)。

 もともと日本人相手でも、初対面の人とは目をあわせて、あまりうまく話せません(特に女性は・・・)。いわんや、英語をや、という感じです。

 つまり、そもそも、これは「英語のスキルがない」というよりも、「初対面だから話せない」ということになります。日本語でも初対面の人となかなか話せない人が、英語になって話せるわけがない。

  まして、英語ということになると、ハンデもありますよね。「初対面苦手意識」と「英語苦手意識」は「交互作用効果」をともない「英語話せない現象」をつくりあげる、ということです。おーのー、デフレスパイラルだね(笑)。

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 みっつめの可能性。

'''「話せない」のではなくて「話している様子を(同じ日本人に)見られる」のが嫌だ。’’’

 つまり、この場合は、「英語が話せない」という現象は、「ことばの問題」に由来しているのではなく、「自意識」や「周囲のまなざし」に関連している。

 これは、日本人同士が何人かいて、そこに外国の方がいらっしゃるときに、たまーに起こることのような気がします。要するに「あまり流ちょうに話せない自分の様子を、同じ日本人に見られるのが恥ずかしい、嫌だ」。だから「話さない」ということですね。

 

 これは10年くらい前に、今の大学に赴任してきたときに、ある男子学生で英語をそこそこ喋ることのできる学生が、グループ学習で英語を話さなければならない局面で、「英語をまったく話さないのを見て、後日、その理由をきいた経験があるのです。「あんた、話せんでしょうが。なんで、話さないの?」と。

 そのとき、出てきた答えは、

「話そうと思えば話せるけど、自分が英語を話すのを見られるのがいやだから、話さない」

「なんか失敗したら、バカにされそうだから、ここでは話さない」

 というものでした。

 単細胞な小生としては、「多細胞生物は、心境、いろいろ複雑なのね」と思ったことを思い出します。

 要するに、この場合は、英語を話せないという現象をつくりだしているのは、ことばの問題ではなくて「自意識」ないしは「周囲の雰囲気」だということになります。もしかすると、「ここだったら大丈夫だ!」と思える雰囲気さえあれば、話せるかもしれない。

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 今日は「英語を話せない」という現象を、少し深掘りして、それが本当に「言葉の問題」なのか、とダラダラ考えてみました。もちろん、英語や言語のスキルをつけることは大切なんだろうけど、それ以外にも、話せないという現象を形成する要因はあるのではないか、とゆるゆると考えてみたのですね。

 その結果、

 話すべき内容がない人は、話せない(話す内容・知識を前もってもっておかなければならない)

 初対面の人に気後れする人は、話せない(場数ですかね・・・)

 周囲のまなざしや自意識が原因で、話せない(心理的安全の雰囲気が必要なのでしょうか)

 といった要因が浮かび上がってきました。ま、こう書いちゃうと、アタリマエダのクラッカーですがな(笑)。

 便宜上、今日は3つを別々に述べましたが、おそらく、これは密接に絡み合っているでしょう。また、これ以外にも、いくつもの他の仮説が成立しそうですね。楽しいですね、自由に考えるって。

 あなたの周囲を見渡してみてください。

「英語が話せない現象」がありませんか?

 それは、本当に「言語スキル」の問題ですか?

 そして人生は続く

(本記事は中原の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」の2015年3月26日の記事を、加筆・修正したものです)