「スーパーメタ社会」を生きるビジネスパーソンに必要な3つの能力とは何か?

(写真:アフロ)

 ここ数年ほど、様々なビジネスパーソンの皆さんと研修などでお会いして、つくづく感じていることがございます。

 お逢いする方々は、皆さん優秀で熱意をお持ちの方々が多く、僕などが壇上で偉そうに言えることはそう多くはありません。

 

 が、実際の問題解決の場面で、彼らに対して、様々なことを講義したり、ワークショップをさせていただいているあいだに、皆さまから、ご相談を受けたり、お話をうかがったり、はたまた当方が勝手に感じてしまうことがございます。

 本日、話題にさせていただきたいのは、

「ビジネスパーソンが苦手意識をもたれたり、つまづきをお感じになる思考のパターン」

 についてです。

 これはビジネスパーソンだけにあてはまることなのか、それともそうでないのか。またどの程度一般性があることなのかはわかりませんが、今日は、「ビジネスパーソンに必要になる思考力」について書いてみましょう。

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 ひるがえって、熱意ある皆さんから、これまで受けてきたご相談事項を整理してみますと、だいたい3つの内容が多いように思います。

 思うに、ビジネスパーソンの方々が苦手意識をもたれる思考力とは、3つあるように思うのです。

 その3つとは、

 1.そもそもを問う力

 2.データを収集し分析する力

 3.企画のへそをつくる力

 の3つです。

 長いので「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」と名づけましょう。

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 第一の「そもそも力」とは、問題解決の場面などで、いったん自分たちの立っている枠組みをとっぱらって、常識を疑いつつ、「そもそも」の域から物事を考えるちからです。別名「ちゃぶ台かえし力」ともいいます(笑)。

 こうした思考に関しては、

「ふだん、そこまで深堀っていない」

 とおっしゃる方が多いように思います。「ふかぼる」という実務用語が、僕は大変好きです。英語でいえば「drill down」になるのかな(笑)。

 そもそもを問うのは、なかなか孤独には難しいものです。

 このような場合、問題解決のフェイズにもよりますが、僕も一緒に解決策を一緒に考えることもあります。

 でも、物事の存立の基盤を「そもそも」から問うって、「そもそも」勇気がいることのように思います。ちゃぶ台をかえす勇気っていうのかな。気づいていたら、自分がのっている「ちゃぶ台」を、自らひっくりかえす、ということにもなりかねないので(笑)。

 第二の「データ料理力」とは、量的データ、質的データをとわず、自分の足と手でデータを収集してきて、料理する力です。

 自戒をこめて申しますが、ふだんのプレゼンでは、時間も無いので「何となくホワンとぐぐって」、他人の統計情報を引用してしまうこともありえます。このことは、先日も、ある方が自嘲気味におっしゃていたました。

 しかし、ここで求められているのは「何となくホワンとぐぐる」のではなく、「自分の足と手でデータを料理すること」です。

 自分の足と手でデータをひろって、それを料理して、抽象的な議論につなげていくことに戸惑いを感じられる方が少なくありません。

 最後は「ワンワード力」です。問題を同定し、データを収集し、企画や施策はつくりこんだ。この一連の施策の「へそ(Keyになること)」を「ワンワード力」で表現し、聴衆に伝えなくてはなりません。ここに苦手意識をお感じの方が少なくありません。

 要するに、やりたいことは、ワンワードでいえば何でしょうか?

 企画をきりきりに煮詰めるのだとしたら、最後に残る、ワンセンテンスは何でしょうか?

 ビジネスパーソンの方々と研修でご一緒していて、いつも思うのは、こうした3つの思考について発揮する場が限られているか、ないしは、それを苦手だと思われている方がすくなくないことです。講義などでは、こうしたことについてお話をすることがあります。

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 ところで、勘のよい方ならお気づきのように、これら3つの、「僕によって捏造された能力らしきもの」ー「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」は、実は、ひとつのことをに収斂されます。

 それは

「出来事レイヤーに生きること」から這い上がり「抽象化レイヤーの高みにたつということ」

 です。

 ワンセンテンスでいえば「地に足のついた抽象化思考」。「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」によって可能になるのは、「地に足のついた抽象化思考」です。

 私たちの生活世界には、様々な問題がある。その問題や課題を「そもそも力」によって同定し、「データ料理力」によって「抽象化」し、よりメタ(上位)な、一般的なコンセプトをつくりだす。要するに、こういう思考法が、重要であるように思います。

 

 しかも、近年、その「高みにたつ」重要性は、さらに増しているように思います。

 思うに、僕の用語でいえば、僕たちは、今後

 スーパーメタ社会を生きるようになる

 と思うのです。

 わたしたちの生きる高度な情報化社会では、様々な出来事や現象の中から、抽象化したコンセプトや原理や知識をみちびきだし、それによって事業をつくり、他者を動かす局面が増えています。出来事レイヤーではなく、さらに「上位(メタ)」へ!

 さらに最近では、「知識や概念を創造すること」ではなく、「知識や概念を創造すること人」をさらにまとめる、より上位のプラットフォームやコンセプトが競争優位をもつようになってきているように思うのは僕だけでしょうか。そういうダイナミックな、スーパーメタ化したものをいかに生み出せるかが、より重要になってきているように思うのです。

 自らが「知識や概念を創造する」だけではなく、「自ら知識や概念を創造する人をまとめる場や機会を創造する」ということです。少し抽象的な話ですが、それが僕のいう「スーパーメタ化」です。

 スーパーメタ化した領域では、これまで以上に「地に足はつけながらも、常に思考をより上位にたもつこと」が求められます。

「現場でさまざまな経験をすること」も、もちろん大切なのですが、「出来事レイヤーで、いつもドロドロになっていること」だけでは競争優位をのぞめないのではないでしょうか

 こういうわけで、今後の社会では「抽象化して物を考えられること」が極めて重要になると僕が認識しているのは、そういうことです。

 そして、くどいようですが、そうした能力は、なかなか社会で忙しい日常を過ごし始めたあとには、修養することは難しいということも、また言えることなのではないかと思うのです。

「シャバでは、ふだん、そこまで深堀らない」

 

 のです。

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 ところで、話をすこし変えますが、最近、「大学の知の再編の話」をよく聴きます。いわゆる「人文社会科学はいらないんじゃないか問題」?でしょうか(笑)。せんだっても、数週間ほど前になりますが、ある方から、こんな問いかけを得ました。

「例の、人文社会科学の議論、中原さんはどう思う?」

 そのときは、残念ながら、この問題を詳細に検討し論じるには時間はありませんでしたが、まことに興味深い課題です。

 今日は、この問題を前段の話「ビジネスパーソンに必要になる3つの思考力」とひきつけて、感情的にならず、地に足をつけて考えてみましょう。

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 まず、いわゆる「人文社会科学の議論」はやや議論が混戦しているようにも思いますので、もうすこしだけ、話を整理します。

 まっさきに整理したいなと思うのは

 人文社会科学が必要なのか?

   人文社会科学系の組織が必要なのか?今のままでいいのか?

 という話です。

「人文社会科学という学問がいるのか?いらないのか?」という問題と、「そうした学問を教授する組織がいまのままでいいのか、そうでないのか?」の問題は、同じようでいて微妙に異なります。まずはこれらを切り分けたいと思います。

 ワンセンテンスで申し上げますと、ここでは前者に話を絞ります。

 と申し上げますのは、僕は「後者の問い」には興味がありませんし、何よりも、また個別の教育機関の問題や実状を、僕が知り得る立場にはありません。ですので、後者の問題の「判断」は僕にはできません。

 一方、問いが前者の問題だとすると、僕が口をさしはさむ余地もありえるのかな、と思います。いちおう、自分の学問も「人文社会科学系?」なんでしょうから(笑)。

 しかし、つぎにうかがいたいのは、

 人文社会科学の学問って、いったい「何」のこと?

 という問いです。

 一応なんちゃっってかもしれませんが、アカデミズムの末席を汚している人間のひとりとしては、正直に「人文社会科学」と大風呂敷でくくられても、

 いったい、「何」がいる、いらないなの

 と思ってしまいます。

 現代の科学は非常に専門化・細分化していて、人文社会科学と一口にくくられるほど、一体感はありません。少なくとも僕に関しては。

 というわけで、正直に申し上げますと、「人文社会科学系の組織が必要なのか?今のままでいいのか?」という問いはもちろんのこと、「人文社会科学が必要なのか?必要でないのか?」という問いに関しても、こういう「おおざっぱな議論」に関して、何を申し上げて良いのか、わからないというのが「どストレートな反応」です。

「論になっていない論」に、「論をかえすこと」はできません。

 しかし、それで終わってしまってはブログ記事になりませんので(笑)、前段の話とつなげて、僕の知り得ること、経験してきたことから、地に足をつけて考えますと、こうもいえます。

 学問はビジネスだけのために存在するわけではないですが、僕が「地に足をつけて意見を述べることができる」のは、そのことなので、そこだけに焦点をしぼりお話をします。

 僕はこう思います。

 もし、人文社会科学と形容される学問が、「社会で起こりうることのルール・原理を抽象化して探究すること」にかかわっている「学問」なのだとしたら、スーパーメタ社会を生きるであろうビジネスパーソンに必要な「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」は、そこでの学問的修養をもって学ばれるのが適当である、ということです。

 僕は教員のはしくれとして、そうした能力を自分の研究室の指導学生にはぜひ獲得してもらいたいです。そもそもを問うこと、データと格闘する経験、コンセプトをまとめることには、妥協させたくありません。どんなに嫌われようとも、徹底的にフィードバックします。「嫌われることが嫌い」で、教員なんてやってられません。

 またビジネスパーソンとかかわる機会を人並み以上にもっている人間のひとりとして、「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」を発揮する経験を、なるべく「前倒し」てもったいて欲しいと願います。ぜひシャバにでる前に、こうした能力を発揮する経験を徹底的にもっていて欲しい。

 「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」・・・知の創造のトレーニングを教育機関でなしとげることができたとしたら、これ以上、素晴らしいことはありません。

 こうしたものは就職のときには「すぐには必要はない」かもしれませんが、やがて「ジワジワ」と「必要」になるのです。

 戦略やビジョンをえがき、人を動かす。

  「リーダーシップの要諦」が、このワンセンテンスで形容できるのだとしたら、そもそも人を巻き込み、動かすことのできる源泉ーすなわち戦略やビジョンは、「抽象化の思考」から生まれます。

 こうした「抽象化の思考」はいわば「筋トレ」のようなものです。短い時間に「パンツをはきかえる」がごとく「身につけること」は極めて難しい。毎日毎日、フィードバックをうけ、メタにあがるトレーニングや経験を積むことができて、はじめて抽象的な思考が「癖」になります。

 そして、社会にでたあとは、とにかく忙しく、こうした能力をあとから獲得することには相応のコストがかかるのです。

 しかし、そうした「抽象化につながる知のトレーニング」をいっさい捨て去り、「目先の職業」に、すぐに、わかりやすくつながるものばかりを教育機関で扱うことが、改革の流れなのだとしたら、僕は疑問を感じます。それは大学の一教員としても、ビジネス教育の末席を汚している人間のひとりとしても「間違っている」と思います。

 彼らが年齢をかさね、それぞれの職場でリーダーシップを発揮することを求められる頃には、「つまづき」をお感じになることが少なくなくなってくると思います、、、たぶんね。

 以上、これがビジネスパーソンの皆さんとさまざまな課題解決を行ってきた僕の感想です。くどいようですが、どの程度一般性のあることかはわかりません。

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 今日は前段で「ビジネスパーソンに必要な3つの思考力」、後半に「人文社会科学」の話をしました。すこし混戦する議論になったような気がしますが、とくに後者の問題に関して、僕の経験と立ち位置から述べるのだとすれば、こういうことになるのかな、と思います。

 そして人生は続く

※この記事は、2015年7月12日、中原淳の個人ブログ「NAKAHARA-LAB.NET」に掲載されていた記事の再掲です。