「自分の頭で主体的に考えなさい!」という言葉にはらむ「矛盾」と「リスク」!?

「他人の言うことを鵜呑みにせずに、主体的に考えなさい」

「他人から言われたことをそのままやるんじゃない。自分の頭で考えなさい」

 こうしたものの言い方は、わたしたちが子ども時代からよく耳にしてきた言葉であり、かつ、大人になった今であれば、経験の浅い人々に頻繁に投げつけるセンテンスです。

 しかし、こうしたものの言い方を私たちが選ぶとき、その命題の背後には「構造的な亀裂」が内包されていること。そして、命題を発するわたしたち自身すらも「腹のくくり方を試されること」を自覚しないわけにはいきません。

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 勘の良い方ならすぐにおわかりのとおり、この文章は、前半部と後半部にわかれているうちの前半部において「他人のいうことを鵜呑みにするな / 言われたことは鵜呑みにするな」と他者の命令しています。

 そして、もしここでいう「他人」に、この文章を発している本人が内包されるのだとすると(内包されない理由は考えにくいですが)、ややこしい話になります。

 なぜなら「他人の言うことを鵜呑みにするな / 他人から言われたことをそのままやるな」というこの命題こそが、「鵜呑みにしてはいけないもの」「そのままやってはいけないもの」に含まれてしまうからです。

 これが、この命令の「構造的な亀裂」です。「構造的亀裂」を前に、文章を聞いたものは、「いったいどっちやねん!」的などっちつかずの「宙ぶらりんな状態」に置かれます。

 そして、彼 / 彼女は、この文章を発した本人の論理性の乏しさに、一瞬辟易とするでしょう。

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 先ほどのセンテンスに辟易としつつも、さらに、その上で後半部では、「自分の頭で考えなさい / 主体的に考えなさい」と命令されることになります。

 この命令文は、命令を発している本人は、「自分の頭で考えたこと」や「主体的に考えること」は許容する、という言表として解釈も可能ですが、もしそうであるならば、この文章を聞いた人が、いかなる選択肢をとったとしても、「自分の頭で考えたこと / 主体的に考えたこと」ならば、許容するということになります。

 しかし、勘の良い方ならここで気づくことでしょう。

「自分の頭で考えること」や「主体的に考えること」というのは、いわば「方法」です。そこには、どういう方向性に物事を考えるべきか、という指針や方向性はありません。

 ということは「自分の頭で考えること」「主体的に考えること」が「できさえ」すれば、命令を発している主体は、その成果である「他者の選択」をどのようなものであっても受け入れると表明していることになります。

 かくして、命令を発する経験あふれる主体も「腹のくくり方を試されること」になります。

 物事を鵜呑みにせずに「自分の頭で考えた」のに「主体的に考えた」のに、その成果が「自分好み」ではないからといって、静止してしまうようでは、この言葉を発することはできません。

「自分の頭で考える」「主体的に考える」というのは、それだけ「リスキーなこと」なのです。

 しかし、世の中はこれとは逆の事態が進行しているケースがままあります。

「自分の頭で考えろ」と命令しておいて、物事を考え実行してみたら、逆ギレする。「主体的に考えろ」と命令しておいて、主体的に考えてみたら、「オマエはわかっていない」と言われる。

 この場合、要するに「自分の頭で考えろ」ないしは「主体的に考えろ」というのは、

「自分の頭で考えて、(オレが思っていること)を推測して、そのように行動してみろ」

「(おまえが)主体的に考えた結果、(オレが思っている)とおりにならやってもよい」

 という命題に、いつのまにかすり替わっているということです。

 トホホ。

 結局、あんたの言うとおりかい!

 あほらしい。

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 今日は「自分の頭で考えろ」「主体的に考えろ」ということの意味を、すこし屁理屈をこねながら考えてみました。

 ところで、僕は、子ども時代から、この手の命令を他人から投げつけられるたびに、これらにどこか違和感を感じ、しかし、その違和感を心の中で笑い飛ばしてきました。

 いったい何を求めてるんだか。

 まともに真に受けてたら身がもたないから

 今日も、心の中で笑っちゃおう(笑)。

 ダハハ。

 そして人生は続く

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追伸.

 この記事は、中原の個人ブログに2015年7月6日投稿された記事の再掲です。