「最近の若者は、コミュニケーション能力がない!」は本当か!?:嘆く前に少しだけ考えてみたいこと

 最近、気になることがあります。それは「今の若い人はコミュニケーション能力がない」という言葉が、本当に意味するところです。

 この言葉、人事系の雑誌・メディアなどの言説空間では、よく聞くことばです。本当によく見ますよ。

「コミュニケーション能力欠如、ひとつもらおうかな」

「はい喜んで。コミュニケーション能力欠如、いっちょう、いただきましたぁ!」

 という具合に(笑)。

 俗な言葉をいえば、

 人生いろいろ、若者もいろいろ。

 もちろん、そういう若い方はいらっしゃるんでしょう。そのことを否定する気は全くありません。ただし、それは先ほどの命題に「ミドルもいろいろ、シニアもいろいろ」であることを付け加えることを意図的に行わないという「片手落ちの錯誤」を犯さないのであればの話です(要するに、最近の若者はというけれど、昔の若者はどうだったの? 上の世代はどうなの?ということですね)。

 もし仮に、そうであるならば、「コミュニケーションが苦手な若い方が存在しうること」は、全く否定しません。そういう困った若者は存在するのでしょう。

 しかし、一方で、この言葉が、どういうコンテキストで発せ去られているのかを子細に、よくよく、気にかけていくと(すみません、職業柄、ロジックと言葉は気になって仕方がないのです・・・)、興味深いことが、味わい深く、ダバダーと、香り高く、ひとつわかってきます(笑)。(ダバダーのところは、ネスカフェのコーヒーのCMを思い浮かべて読んでください)

 問題は「コミュニケーション能力がない」という命題で意図されている「コミュニケーションとは何か?」ということです。そもそも、どういうものを、コミュニケーションって呼んでいる?

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 コミュニケーションとは何か?

 嗚呼、この命題をかかげるだけで、「枕」としてはやや高めの博士論文並の大著が書けそうで、僕は思わず「失禁」してしまいそうですが、一般には、それは「主体間の双方向性をともなう情報のやりとり」と考えられているのではないでしょうか。

 この考えに首肯できない研究者の方、専門家の方は少なくないとは思いますが、一般には、コミュニケーションとは、そういうものと理解されている、として、ざっくり、大味に、この後の議論を進めていきましょう。

 コミュニケーションとは=双方向性のある情報のやりとり

 しかし、ここで興味深いことがわかります。

 先ほど、僕は、「コミュニケーション能力がない」という命題において意図されている"コミュニケーション"とは何か?」と申しましたが、市井で「コミュニケーション能力がない」と嘆きが生じるとき、そこで意図されているものは、必ずしも「双方向性のともなうもの」では「ない」場合が、少なくない、ということです。

 

 つまり、ぶっちゃけていいます。

 要するに

「若者が、自分の思い通りに動かない事態=コミュニケーション能力がない」

「若者が、自分と同じように考えない=コミュニケーション能力がない」

「若者が、自分を察して行動しない=コミュニケーション能力がない」

 ということが意図されて、先ほどの「コミュニケーション能力がない」が発話されている場合が少なくない、ということです。

「コミュニケーション能力がない」は、様々なコンテキストで発話されていますが、市井での発話のコンテキストを気にかけていると、上記のような場面でも、この言葉が使われていることが気になります。

 つまり、

 若い人が、自分の思い通りに動いてくれない

 若い人が、自分たちと同じように発言してくれない

 若い人が、自分のことを察して、動いてくれない

 ことをもって「コミュニケーション能力がない」という発話がなされていることはないでしょうか。

 少なくとも、僕が、世の中で様々な人々との会話で、この発話がなされるときのことを、子細に考え抜いてみますと、要するに「双方向のやりとり」そのものが問題なのではない場合がゼロではないな、と思ってしまうのです。

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 しかし、一方で、この現象は、まがりなりにも教育機関にいる人間としては、興味深くも思うのです。

 だって、これまで社会の趨勢は、一方で

 これからの人は、自発性・自律性をもって動かなくてはならない。

 これからの人は、自分の考えをもって、主体的に発言しなくてはならない。

 これからの人は、自分の考えを物怖じせず、相手にはっきり伝えなくてはならない

 と教えてきた、ないしは、教えることをよしとしてきたのではないでしょうか。「自発性」「自律性」「主体性」は時代のキーワードです。

 自発性・自律性なんてなくていいよ

 主体的に自分の考えなんてもたなくていいよ

 自分の考えを伝えず、モジモジしてていいよ

 なんていう議論や言説を、管見に関する限り、僕は見たことはありません。

 つまり、ここに「矛盾」が存在するような気がするのです。

 一方では、若い人に「自分の頭で考えること・動くこと・発言すること」を望んでおいて、一方では、それによって起こる異世代間の心理的コンフリクトを「コミュニケーション能力がない」というラヴェルで回収しようとする。問題は、このラヴェリングで、コミュニケーションを断とうとしているのは、どちらの方か、ということです。

 くどいようですが、若い方の中には、いわゆる双方向のやりとりが本当にできない人もいるのでしょう。

 しかし、一方で、「コミュニケーション能力がない」という言説が、上記のような「矛盾」をはらみつつ、発話されていることに、時に敏感になってしまう自分がいることを、正直に吐露しないわけにはいきません。

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 僕はコミュニケーション論の専門家でも、メディア論の専門家でも、若者論の専門家でも、ありませんので、今日の話は、いつもの与太話です。データもないし、根拠レス。放屁みたいなもん。話半分で聞いていていただければ結構です(笑)。

 ただし、一方で、こうも思います。

 それは、

 自分の頭で考える

 自分の考えで動き、意見する

 をよしとするならば、そこには「覚悟」が必要であるということです。

 それは、それをのぞむ方自身も「自分の頭で考え、意見し、はっきりとそれを明示し」、異なる主体間のあいだで「双方向性」を成立させる意思 ー ないしは、時に起こる衝突やコンフリクトを抱きかかえる意思 ー をもたなければならない、ということですね。

 そして人生は続く。

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