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感染症と戦争の文明史――ヒトは何と、どのように戦ってきたか

六辻彰二国際政治学者
ドイツ、ハンブルグのエッペンドルフ大学病院コレラ病棟(1892)(写真:アフロ)
  • 感染症のパンデミックはこれまで、しばしば人間のもろさや弱さ、あるいは社会の不正を浮き彫りにしてきた
  • それだけでなく、時には人間自身がウイルス以上に人間にとっての脅威になったこともある
  • その一方で、感染症は人間の歴史を前に動かすエネルギーにもなってきた

 感染症との戦いは己との戦いでもある。歴史をふり返ると、パンデミックで己を失った国家や文明は自滅してきたが、感染症をきっかけに生きることの意味を問い直し、より高みを目指した人々がいたこともわかる。

ペストが生んだテロ

 古来、感染症のパンデミックは多くの生命を奪ってきただけでなく、人間のもろい理性を簡単に突き崩してきた。

 2010年に公開された英独合作映画 “Black Death” は文字通り黒死病、つまりペストを題材にしている(日本では劇場未公開だったが一部の動画配信サービスで視聴できる)。

 1348〜1350年のペスト大流行は、当時のヨーロッパ人口の三分の二にあたる2000万人以上を死に至らしめたといわれ、世界史で最も有名なパンデミックの一つだ。

 ただし、この死者数にはペストによる病死や食糧不足による餓死だけでなく、集団ヒステリーに陥った群衆による殺人も含まれるとみられる。

 “Black Death” にはこんな台詞がある。「北の村じゃ一晩に128人の魔女が焼かれたそうだ。女どもはみんなその前に、ヤツらに殺されてたんだ。そいつらを焼き殺すまで、男たちはブタと寝てたってわけさ」

 実際、悪名高い中世の魔女狩りはペストが蔓延した14世紀に激しさを増し、やがて魔女裁判も制度化された。ペストでパニックになった人々が、よかれと思って狂気に走ったことは、ヨーロッパに地獄絵を展開させる一因になったのだ。

病に敗れた文明

 感染症のパンデミックで己を失った人々は、時には一つの国、一つの文明を滅ぼしてきた。

 古代ギリシアの覇権をかけたペロポネソス戦争(紀元前431~紀元前404)で、アテネはスパルタに敗れた。その一因は、開戦からまもなくアテネでペストが広がり、25〜30万人の人口の約三分の一が死亡したことにあった。

 これに拍車をかけたのは、ペストがアテネ人の心も蝕んだことだった

 それまでアテネ人は「無支配」の考え方のもと、何者にも支配されない自由を重んじた。ところが、アテネ民主政の黄金期を支えたリーダー、ペリクレスまでもペストに倒れ、さらにスパルタとの戦争で敗色が濃厚になるにつれ、煽動的で強権的なポピュリストが台頭し、内部崩壊が始まったのだ。

 ペロポネソス戦争後、ギリシア世界では自由な気風が失われ、いくつもの攻防の果てに、地中海の覇権はやがて絶対的な皇帝を戴くローマ帝国に移ったのである。

世界帝国の闇を暴いたもの

 ところが、このローマ帝国の衰退にも、やはり感染症が関わっていた。ただし、こちらは己に敗れたというより、もともとあった己のもろさがパンデミックをきっかけに露わになったものといえる。

 紀元前1世紀に成立し、空前の繁栄を遂げたローマ帝国は、紀元1世紀にはすでに腐敗していた。繁栄の陰で貧富の格差は拡大し、汚職がはびこり、現代でいう不倫はもはや当たり前で、「成功へ押し上げる最も確実な道は(資産家である)美しき老婦人の陰門」ともいわれた。一部の金持ちの間では「食べるために吐き、吐くために食べる」過食が美徳にさえなった一方、主人や酔客が吐いたものを拭きとる専門の奴隷がいるという有り様だった(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』)。

 このように不正と虚飾が支配するローマ帝国を襲ったのが「キプリアンの病」だった。249〜262年にかけて、最盛期には1日に5000人の生命を奪ったといわれるこの感染症は、記録したカルタゴ司教キプリアンの名をとってこう呼ばれる。

 すでに表面化していた人心の荒廃は、「キプリアンの病」で拍車がかかったことだろう。

 ちょうどこの頃、東方からゲルマン人がローマに侵入し始めていたが、かつて無敵を誇ったローマ軍は各地で後退を余儀なくされた。国や社会を真面目に支えようとする人間が減っていたことがローマ滅亡を早めたとみてよい。

 「キプリアンの病」は長く伝承として伝えられ、病名もはっきりしなかったが、オクラホマ大学の生物考古学者ケイル・ハーパー博士は発掘された遺骨の分析から、黄熱病やエボラ出血熱のようなウイルス性出血熱だったと結論している。

人間がウイルス以上の脅威になるとき

 このように感染症に翻弄される人間は、その一方で、しばしば感染症以上の凶悪さもみせてきた。戦争にウイルスを利用することもあったからだ。

 ハイデルベルク大学のフリードリヒ・フリッシュクネヒト教授はウイルスを兵器として用いた主な事例をリスト化しているが、それによると1152年には早くも神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世がイタリアでの戦争で、人間や動物の死体を井戸に投げ入れている。これは現代でいえば、無差別殺戮を目的にした生物兵器にあたるだろう。

 「相手を病気にする」というアプローチとは違うが、「自分たちだけ病気を克服する」ことも、戦争と征服を有利に進める手段としてしばしば用いられた。

 ヨーロッパでは1630年代に南米原産のキナの樹皮から抽出した解熱剤キニーネが商品化され、やがて各国軍隊の標準装備になった。これは銃弾に匹敵する武器として、マラリアなどが蔓延するアフリカなど熱帯地域にヨーロッパ列強が進出することを後押ししたのだ。

 もしウイルスに知性があるなら、その上前をはねる人間に舌を巻くかもしれない。

より高みを目指して

 こうして歴史をふり返ると、感染症のパンデミックは少なからず人間のネガティブな面を露わにしてきたといえる。ただし、その一方で、人間は時に感染症を、よりよい世の中を目指すステップにもしてきた

 ペストに襲われ、スパルタとの戦争にも敗れたアテネでは、人心の荒廃が目にあまるなか、「哲学の王」プラトンをはじめ、ソクラテスやアリストテレスなど後世に名を残す大哲学者が相次いで現れた。「善き生」のあり方や「正義とは何か」を現代の我々にも問いかける彼らが登場した背景には、荒れ果てたアテネ社会があった。

 同じことは、黒死病が吹き荒れた中世ヨーロッパに関してもいえる。

 黒死病の影響がとりわけ大きかったイタリアでは、その後「万能の天才」レオナルド・ダ・ビンチをはじめ、ミケランジェロやボッカチオなど数多くの天才が登場し、15世紀にルネサンスの華が咲くことになる。これに関して、歴史作家バーバラ・タックマンは「あまりにも多くの人が簡単に亡くなる状況が、それまでキリスト教会の説く死後の安寧のみに傾いていた人々に、この地上で生きることの意味を考えさせるきっかけになった」と考察している(バーバラ・タックマン『遠い鏡』)。

 人間はしばしば病に己を失い、国や文明、社会を崩壊させただけでなく、人間自身がウイルス以上に人間の敵になることもあったが、その一方では災厄から再生し、より高みを目指す力もみせてきた。先人たちが示したこの道を、現代の我々はどのくらい活かせるだろうか。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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