「独裁者」が二度失脚したスーダン―「アラブの春」との違いとは

イブン・オウフ氏辞任を喜ぶスーダン軍兵士とデモ参加者(2019.4.13)(写真:ロイター/アフロ)

  • スーダンでは抗議デモの高まりが「独裁者」を二度まで失脚させた
  • この背景には、スーダンのデモ隊が2011年のエジプトの失敗を教訓にしていることがある
  • とはいえ、スーダンで民主化がさらに進むかには、暫定政権とデモ隊の双方に課題がある

 北東アフリカのスーダンでは抗議デモが拡大し、30年以上にわたってこの国を支配してきた独裁的な体制が揺らぎ始めた。この変化の背景には、抗議デモを行う側が、2011年の「アラブの春」から得られた教訓を活かしていることがある。

軍事政権の「一日天下」

 スーダンでは「独裁者」が二度、挫折した。

 4月11日、1989年に権力を握ったバシール大統領が軍のクーデタで失脚し、拘束された。このクーデタは、経済停滞を背景に昨年末から広がっていた抗議デモの高まりを受け、軍が「独裁者」を見限ることで発生した。

 ところが、バシール大統領を拘束した軍を代表してイブン・オウフ将軍が暫定軍事評議会の発足を宣言し、憲法停止と軍による2年間の暫定統治の後、選挙を実施する方針を打ち出した。

 これは事実上の軍事政権の発足と新たな「独裁者」の登場を意味したが、それもつかの間、翌12日にイブン・オウフ氏は暫定軍事評議会議長の辞任を発表し、後任にはブルハン将軍が就くことになった。

 イブン・オウフ氏の辞任は、バシール大統領を追い詰めていたデモ隊が、事実上の軍事政権の発足を「革命の横取り」と批判し、デモを継続させたことを受けてのものだった。辞任発表のテレビ演説でイブン・オウフ氏は「これはクーデタではなく、国民の利益のためである」と強調し、その上で暫定軍事評議会が文民政府の樹立に向けて働くと約束している。

「アラブの春」第二幕

 北アフリカではスーダンだけでなく、昨年末から各国で抗議デモが頻発している。その結果、例えばアルジェリアでも4月4日、20年以上にわたって権力を握ってきたブーテフリカ大統領が、やはり広範な抗議デモを受けたクーデタによって失脚しており、これらの政変は2011年に中東・北アフリカで広がった「アラブの春」第二幕とも映る。

 ただし、アルジェリアと比べて、スーダンのこれまでの展開は、より大きな政治改革を予期させる。

 アルジェリアの場合、ブーテフリカ大統領の辞任後、ベンサラ上院議長をはじめ「独裁者」を支えた政治家や軍を中心に90日間の暫定統治を行ったうえで大統領選挙が実施されることになった。ただし、この選挙日程そのものがブーテフリカ大統領の在任中から決まっていたもので、これまでの支配者のうちの誰かがそれにのっとって立候補すれば、「独裁者」が失脚しても大きな変化は予想しにくい。

 これに対して、スーダンではバシール氏に続いてイブン・オウフ氏まで失脚した。イブン・オウフ氏から権力の座を引き継いだブルハン氏は軍のなかでもバシール大統領と距離があり、抗議デモが広がるなかでデモ隊の指導者たちとも接触し、意見交換をしてきたといわれる。

 つまり、スーダンの場合、暫定軍事評議会におけるバシール色は薄められたといえる。言い換えると、ブルハン氏の議長就任は、失政の全責任を「独裁者」に転嫁して済ませる「トカゲの尻尾切り」以上の改革が発生する可能性が、わずかながらも大きくなったことを示す。

「アラブの春」の教訓

 軍のペースで事態収拾が進むことを拒み、デモ隊が抗議活動を続けたことは、「アラブの春」での教訓、とりわけエジプトの経験を踏まえたものといえる。

 エジプトでは2011年、30年に渡って権力を握ったムバラク大統領(当時)が抗議デモの高まりで失脚した。しかし、これはまさに「トカゲの尻尾切り」に過ぎず、その後民主的な選挙が行われたものの軍の影響力は残り続け、結局2013年のクーデタで軍主導の体制が復活した。

 エジプトでの政変が「元の木阿弥」となった一因には、デモ隊がイスラーム勢力と世俗派で分かれ、結束しきれなかったことがあるが、この点でスーダンは大きく異なる。アメリカを拠点とするスーダン系ジャーナリスト、イスマイル・クシュクシュ氏によるインタビューに対して、スーダンのデモ隊はエジプトの経験を踏まえて、以下の各点に注意していると答えている。

  • デモ隊の中心にある「スーダン専門職協会(独立系の労働組合)」がさまざまな勢力をコーディネートし、スローガンや要求を生活改善など全体に共通するものに集約する
  • 軍と安易に妥協しない
  • 支配する側に動向を探知されたり、各個撃破されたりしないよう、VPN(セキュリティ上安全な経路を使ってデータを送受信できる、インターネット上に設けられる仮想専用線)を用いてメッセージをやり取りする

 こうして抗議する側が結束を保ち、共通目標を維持できたことは、バシール大統領だけでなく、イブン・オウフ将軍までも退場せざるを得なくしたといえる。

 冷戦時代の東ヨーロッパでは、ハンガリー動乱(1956)やチェコスロバキアでの「プラハの春」(1968)など共産主義体制への抗議が広がったが、いずれもソ連の介入などによって頓挫し、これらの経験を踏まえて失敗を回避しながら1980年代にポーランドで進んだ民主化運動が、その後の共産主義体制崩壊への一つの糸口となった。周辺国での失敗に学ぶスーダンの抗議デモは、これを思い起こさせる。

交渉の行方

 新たに暫定軍事評議会の議長になったブルハン氏は4月13日、テレビ演説で国家の再構築、夜間外出禁止令の撤廃、政治犯の釈放、さらに発砲してデモ参加者を死傷させた兵士を裁判にかけることなどを約束した。これらはいずれも、反体制派を慰撫する内容だ。

 ただし、「国家の再構築」という言葉を用いながらも、明確に民主化を約束したわけではない。また、「一日天下」のイブン・オウフ将軍が述べていた、軍による2年間の暫定統治と憲法停止という方針にも触れられなかったことは、暗黙のうちにこれがブルハン氏にも継承されていることをうかがわせる。

 バシール大統領と距離があったとはいえ、ブルハン氏も「支配する側」の一員だったことは間違いなく、彼らの意向や利益を無視できない立場にある。さらに、たとえブルハン氏が民主化を望んでいたとしても、簡単に権力の座を譲れば、バシール大統領が統治に利用してきたイスラーム勢力が暴発する可能性もある。そのため、抗議デモ隊との交渉だけでなく、体制内の難しい調整もブルハン氏を待ち受けている。

 これに対して、先述のように、デモ隊は「軍と安易に妥協しない」方針を固めており、可能な限り早期に文民統治に移行することを要求し続けているが、こちらの場合、焦れて過激な行動に走る勢力が出ないよう、デモを主導してきたスーダン専門職協会が全体をリードし続けられるかが課題となる。

 こうしてみたとき、スーダンの政変は未だ緒についたばかりで、その成否は予断を許さないが、確かなことはその顛末が「アラブの春」第二幕の行方も左右することである。エジプトの失敗をスーダンの人々がみていたように、やはり「独裁者」のもとにある周辺国の人々はスーダンの顛末を固唾を呑んでみているはずであり、そこで得られる教訓は民主主義と最も縁遠いとみられてきた中東・北アフリカの共有財産になるといえるだろう。