NZテロをなぜ犠牲者遺族は許したか―トルコ大統領が煽る報復感情との比較から

NZクライストチャーチでのテロ事件の犠牲者の葬儀(2019.3.20)(写真:ロイター/アフロ)

  • トルコのエルドアン大統領はクライストチャーチのモスク襲撃事件をトルコやイスラーム世界に対する攻撃の一部と位置付け、欧米諸国への批判を強めた
  • エルドアン大統領の言動は事件を政治的に利用しているだけでなく、危険かつ不公正という点で、ほとんどのムスリムよりむしろ白人右翼テロリストに近い
  • さらに、ただ報復感情を煽ることは、犯人を「許す」と述べた犠牲者遺族に寄り添うものでもない

 クライストチャーチでのモスク襲撃事件を受けて、二つのコメントが世界の関心を集めた。一つは犠牲者遺族の男性が述べた「犯人を許す」という発言で、もう一つはトルコのエルドアン大統領による「(事件は)欧米諸国がこれまで無視してきたイスラーム嫌い(イスラモフォビア)の高まりの兆候」という主張だ。これらを比べると、欧米諸国全体を告発したエルドアン大統領の発言の方が「勇ましい」が、「犯人を許す」と述べた犠牲者遺族の方が人間としては強い。

事件の政治利用

 トルコのエルドアン大統領は3月17日、テロ事件の実行犯タラント容疑者が撮影したモスク襲撃の動画を選挙集会で上映し、これをトルコとイスラーム世界に対する攻撃の一部と位置づけた

 そのうえで、エルドアン大統領は(トルコを二度訪問した)タラント容疑者の「ボスポラス海峡の西側(つまりヨーロッパ)からムスリムを排除したい」という発言を引用して、「つまり、ヨーロッパに我々は行くなということだ。さもないと、彼(タラント容疑者)はイスタンブールにきて、我々を皆殺しにして、我々の土地を奪うつもりだった」。

 エルドアン大統領が上映した動画は、タラント容疑者が撮影したものだ。この動画が掲載されていたフェイスブックのタラント容疑者のアカウントは削除されているが、動画はすでに拡散している。それを公の場で上映したことに、ニュージーランドのピーターズ外相は「国内外のニュージーランド人の未来と安全を損なうものであり、まったく不当なこと」と非難している。

 クライストチャーチの事件では50人の犠牲者が出たが、3人のトルコ人も負傷した。それもあって、他のイスラーム諸国と同様、トルコでもクライストチャーチ事件やイスラーム嫌いへの抗議デモが発生している。これらを考えれば、エルドアン大統領の言動に理解を示す向きもあるかもしれない。

 しかし、エルドアン大統領の言動は、事件を政治利用したものと言わざるを得ない。

 トルコは建国以来「世俗主義」を国是としてきたが、エルドアン大統領は「ムスリム同胞団」などイスラーム主義団体を大きな支持基盤に抱えており、2003年以来イスラームに傾いた政策を相次いで実施してきた。その支持者たちを前に、白人キリスト教徒によってムスリムが虐殺される様子をみせることは、報復感情や宗教意識を鼓舞し、ひいてはアメリカをはじめ欧米諸国とさまざまなシーンで対決する自らへの支持を訴えるものになる。

白人右翼との共通性

 そのうえ、エルドアン大統領の言動には、白人右翼との共通性も見出せる。

 これまで、自国民や同胞がテロの犠牲者になった時、各国政府の代表はテロを批判しながらも、テロリストが所属する国家や文明を批判することを控えてきた。9.11後のアメリカでは「イスラームそのものに問題がある」という意見も珍しくなくなったが、少なくとも責任あるポジションの者がそれを口にすることはほとんどなく、ジョージ・ブッシュ大統領(当時)でさえ、内心はともかく公の場ではイスラームそのものを批判することはほとんどなかった。

「(そこに社会的背景があるにせよ)テロを行うのは一部の個人や勢力で、特定の国や文明の責任ではない」ことは、外交辞令としても、あるいは事実認識としても、当然のことといえる。そうでなければ、イスラーム諸国は自己批判を続けなければならない。実際、イスラーム過激派によるテロについて、イスラーム諸国の政府は「過激派は正しいムスリムではない」と言うのが一般的で、エルドアン大統領もこの点では同じだ。

 つまり、エルドアン大統領がイスラーム過激派のテロを「常軌を逸した一部の連中がやったことで、イスラームそのものに問題はない」と扱いながら、白人右翼テロを「これこそ白人世界の典型」といわんばかりに取り上げることは、全くフェアではない。言い換えると、タラント容疑者を白人の代表として扱うことは、ビン・ラディンを典型的なムスリムとみなすのと同じくらい、偏見と敵意を再生産するものでしかないのである。

 特定の文化や人種・民族への反発や敵意、あるいは相手に対する(根拠のない)優越感やコンプレックスがなければ自尊心すら保てない人々を煽動する点で、エルドアン大統領はほとんどのムスリムより、白人右翼に近いとさえいえる。

 開発途上国とりわけイスラーム世界に、欧米諸国によって自分たちが虐げられてきた、あるいは不利に扱われている、という感覚があることは疑いない。また、欧米諸国にイスラーム世界への偏見や反感があることも確かだ。

 それでも、あるいはだからこそ、エルドアン大統領の言動は偏見や敵意を振りまくものという意味で危険であるばかりか、確かに不当でもある。

許すということ

 それだけでなく、エルドアン大統領の言動は、白人キリスト教徒への反感を煽るものではあっても、クライストチャーチでの犠牲者や遺族のことを思ったものであるかは疑わしい。

 クライストチャーチの事件で妻を亡くしたバングラデシュ出身の男性は海外メディアのインタビューに対して、「自分は妻を亡くした。しかし殺人者を憎まない…自分は彼(タラント容疑者)を許したので、彼のために祈っている」と述べた。

 英語で言うforgive(許す)とは、害を与えた者を道徳的に非難しないという意味だ。だから、「法的に罪を問わない」「刑罰を免除してやってほしい」と言っているわけではなく(その場合は「赦す(pardon)」)、「罪は罪として償うべきだが、人間として憎まない」という趣旨で理解すべきだろうが、それにしても「仇を許す」のはなぜか。それは「優しさ」や「弱さ」の表れなのだろうか。恐らく、そうではない。

 社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、精神分析の観点から「復讐」について述べている。それによると、「復讐の動機は、集団あるいは個人の強さと生産性に反比例する」。つまり、精神的、物質的に自立していて、成熟した人ほど、復讐に突き動かされることが少なく、そうでない人ほど辛い経験をした際に報復感情に駆られやすいというのだ。

 だとすれば、「仇を許せる人」は人間として強い者といえる

 1980年代に人気を博した時代劇「必殺仕事人」では、「晴らせぬ恨みを晴らす」仕事人に仕事(つまり暗殺)を頼む依頼人のほとんどが、理不尽な権力や暴力によって全てを失い、再起すら困難で、復讐がなければ自尊心すら保てない人々として描かれていた。これは、フロムの考察に照らせば、ドラマの演出以上の意味があるとみてよい。

強いのは誰か

 「復讐の非生産性」を指摘したフロムは、そのうえで辛い経験を克服するために「前を向く」ことの重要性を指摘している。

「…もし傷つけられ、侮辱され、害を与えられても、生産的に生きるというまさにそのことが、過去の傷を忘れさせてくれる」。

出典:エーリッヒ・フロム『悪について』p25.

 つまり、「復讐の願望より生産的に生きることの方が強い」ということだが、これは言い方を変えれば、仇を憎み続けることより、それを許す方が、健全な精神を保つうえではるかに重要だということだ。フロムがナチスの迫害を逃れ、ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人だったことは、特筆すべきだろう。

 許しが辛い経験を克服する効果をもつことは、現代の心理学でも指摘されており、メンタルケアでも採用されている。

 これに従えば、相互不信が渦巻く世界で政治が行うべきは、テロリスト(あるいは闇の仕事を請け負う人々)が生まれずに済む社会を目指すことや、遺族が「許し、前を向ける」ように手助けすることであり、報復感情を鼓舞することではない

 筆者は亡命した経験も、身近な人をテロで失った経験もない。そのうえであえて言うなら、遺族がタラント容疑者を「許す」ことは、フロムの考察に適うだけでなく、憎悪と報復の連鎖を断ち切ろうとする勇気ある決断ともいえるだろう。だとすれば、それとは逆に、憎悪をただ煽るエルドアン大統領と、それに歓声をあげる支持者たちは、この「強さ」と全く無縁といえるのである。