Yahoo!ニュース

性は私事か、公事か―「トランスジェンダーであるだけで殺される国」からの脱皮を目指すパキスタン

六辻彰二国際政治学者
パキスタン初のトランスジェンダーのニュースアンカー、マルビア・マリク氏(写真:ロイター/アフロ)
  • パキスタンでトランスジェンダーの権利を認める法律が成立した
  • イスラーム圏では性的少数者が差別されることが多く、パキスタンの事例は基本的に個人の事柄である「性」が、国家によって法的に保護されるべき公的な事柄として扱われる、現代の世界の象徴でもある
  • 日本ではLGBT法の議論がほとんど進んでおらず、性をあくまで「私事」として扱うことは、結果的に性的少数者の権利を保護しないことにつながる

 2018年5月10日、パキスタン議会はトランスジェンダーの権利保護を定めたトランスジェンダー法を成立させました。

 パキスタンは人口のほとんどをスンニ派のムスリムが占めます。イスラーム圏では性に関する伝統的な解釈が一般的で、同性愛に最も重い刑罰で死刑が課される国さえあります。

 そのイスラーム圏の一角を占めるパキスタンで、トランスジェンダーに対する差別が法的に禁じられたことは、本来的には「私事(わたくしごと)」である性が「公事(おおやけごと)」となる、世界的な潮流を象徴します

パキスタンのトランスジェンダー法

 パキスタンで成立したトランスジェンダー法は、各人が男性、女性、そしていわゆる第三の性のいずれかを自らの性として表明する権利を保障し、パスポートなど公的な身分証明書での記載も定めています。個人の属性を公的な書類で明記することは、法律上その個人の存在が公に認められることで、その権利を国家が保護するための第一歩です

 同法には、教育、雇用、医療などの現場でトランスジェンダーであることを理由とする差別、不公正な扱い、ハラスメントを禁じる条項もあります。

 これらを努力目標で終わらせず、実効性あるものにするため、保護施設の設置、公務員の研修、性別ごとの刑務所の設置などが定められています。

 さらに、後述するように、トランスジェンダーが経済的に困窮することも多いため、同法ではその解消のための措置も盛り込まれています。財産相続権が明記されたことや、企業や役所で雇用者の3パーセントをトランスジェンダーに割り当てるクウォーター制が導入されたことは、これに当たります。

 この法令の違反によって不利益を受けた者は、刑事訴訟法や民事訴訟法に基づき、国家人権委員会に申し立てできます。

トランスジェンダー差別と迫害

 パキスタンのトランスジェンダー法は、欧米諸国のLGBT保護法と比べても、総じて遜色のないものです。

 ただし、トランスジェンダーに対する差別と偏見は根深くあり、ヘイトクライムも珍しくありません。現地NGOによると、2015年1月から2018年3月末までの間にパキスタン北西部だけで、トランスジェンダーを標的にした殺人事件が55件発生しています。

 詳細は明らかにならないことが多いですが、パキスタン・タリバン運動(TTP)やアルカイダ、イスラーム国(IS)などの過激派による組織的な犯行は少ないとみられます。調べた限り、これらが犯行声明を出したケースはほとんどありません。

 目立つのはむしろ、職業的テロリストでない平均的な市民が、大した理由がないままにトランスジェンダーを殺傷する事件です

 トランスジェンダー法が成立する直前の5月4日、同国北西部で結婚式に呼ばれてダンスを披露したトランスジェンダーが、報酬として受けとった1000ルピー(約1000円)に釣り銭を払えなかっただけで、顧客に銃殺されました

 この事件は、パキスタンでトランスジェンダーが「人間以下の存在」として扱われがちなことを象徴します。そのため、トランスジェンダー法が成立したとはいえ、その理念が社会の隅々までいき渡るには、長い時間が必要と思われます。

なぜパキスタンだったか

 ただし、パキスタンにおけるトランスジェンダー法の成立が、同国における性的少数者の権利保護の大きな転機となったことは確かです。それでは、性に関する伝統的な理解が一般的なイスラーム圏のなかで、なぜパキスタンでこの変化が生まれたのでしょうか。

 パキスタンにはもともと、「日陰者」としての扱いですが、トランスジェンダー文化があります。パキスタンをはじめインド、バングラデシュ、ネパールなど南アジア一帯では昔から、ヒジュラと呼ばれる、いわゆる第三の性の人々がいます。

 ヒジュラの多くは生物学上の男性で、その歴史は古く、祭事などに携わるアウトカーストとして、ムガール帝国(1526-1858)では宦官として宮廷でも働いていました。しかし、19世紀にこの地を支配した(当時同性愛を死刑の対象にしていた)英国の影響で、ヒジュラの社会的排除は強まりました。

 家族から追い出されることも多い(親の財産の相続から排除されることも珍しくなかった)ため、ヒジュラは集まって暮らす傾向があります。ヒジュラが結婚式などでダンスを披露する風習もありますが、一般的に所得は低く、買春や物乞いに向かう者も珍しくありません。

 イスラームは各地の文化と融合しながら世界中に普及していきました。そのため、イスラーム世界の内部は、金太郎飴のように均質的なものではありません。パキスタンの場合、明らかに差別の対象としてですが、ヒジュラ文化があったことが、他の多くのイスラーム諸国よりトランスジェンダーというテーマが日の目をみやすかったといえます。

公事としての性

 パキスタンで長く社会的に排除され、「人間以下」の扱いを受けてきたトランスジェンダーの権利回復は、2000年代に進みました。2009年、パキスタン最高裁はトランスジェンダーを第三の性として認める判決を初めて下し、政府は公式の身分証明に第三の性の項目を加え始めました。トランスジェンダーが公式に認められたことは、その人権の保護の第一歩になったといえます。

 その後、パキスタンでは「日陰者」と扱われてきたトランスジェンダーの認知度は改善していきました。2016年6月にはイスラーム聖職者の団体がトランスジェンダーの結婚がイスラームの教義にかなっているという判断を示しました。2018年3月には民放TVが同国初のトランスジェンダーのニュースアンカーとして、マルビア・マリク氏を起用。翌4月には、同国で初めてトランスジェンダー向けの学校も開設されました(イスラーム圏では学校や教室が性別ごとに分かれていることが一般的)。

 ただし、制度を変えても人間の発想を急に切り替えたり、長年の偏見を一朝一夕になくすことは困難です。2013年5月に首都イスラマバードでトランスジェンダー(女性)が性的暴行を受けた際、警察は事件として扱うことを拒絶しました。同様に、最高裁判決の後も、トランスジェンダーが公権力から無視される状況に大きな変化はなく、ハラスメントや暴力も絶えませんでした。その結果、法的保護を求める声が大きくなったことが、トランスジェンダー法の成立に結びついたのです。

役割を放置する政治

 個人の権利は、公的機関によって、法に基づいて保護されることで、実質的なものになります。言い換えると、個人的な事柄である性は、公的な事柄として扱われることで、その権利が保護されるといえます。パキスタンのトランスジェンダー法は、性を理由に人間としての権利が認められない状況を、国家が改善する取り組みです。

 一方、日本では大きな反対がないにもかかわらずLGBT保護の法案が成立しないままで、同性婚も国レベルでは認められないままです。これは先進国のなかでも数少ない例外です。

 自民党が提示しているLGBT法案は、「国民が多様性を尊重できることを促す」とありますが、性的少数者への差別の禁止などは含んでいません。これは性に対する個々人の認識を尊重するという意味で性を「私事」の領域にとどめる一方、国家が性的少数者の権利を守るという意味で「公事」として扱うことに慎重な立場といえます。

 しかし、公権力に保護されることで、個人の権利が初めて実質的なものになることは既に述べた通りです。その意識を欠いた自民党案は、形式上はともかく、実際には少数者の権利保護に消極的といわざるを得ません。

 「自分で自分の一生を選び取れる社会を作ること」が政治の役割なのだとすれば、現在のトランスジェンダーをめぐる日本の状況は、政治がその役割を放置しているといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

六辻彰二の最近の記事