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「史上最低」の米大統領選:「政治家の質は国民の質に比例する」が、それでも民主主義が「まだまし」な理由

六辻彰二国際政治学者
ラスベガスで開催された両候補最後の討論会(2016年10月19日)(写真:ロイター/アフロ)

2016年の米大統領選挙は歴史上「最低」といってよいものとして、後世に残るものとなるでしょう。暴言・失言とともに数々のスキャンダルが報じられるD.トランプ氏と、私用メール問題や体調の問題だけでなくエリート臭が拭いきれないH.クリントン氏の「嫌われ者同士」の一騎打ちは、これまでにないネガティブキャンペーンの応酬に終始する様相を呈しています。

総じて今回の大統領選挙は民主主義のネガティブな側面が露わになったもので、同様の傾向は他の先進国にも少なからず見て取れます。とはいえ、そこで民主主義への懐疑だけが深まることは生産的ではありません。少なくとも、それは中国などを喜ばせるだけになります。

現代のこの状況でむしろ重要なことは、民主主義の限界を認識し、しかしそれが他と比べて「まだまし」なことで満足することといえます。

民主主義の黄金律

今回の選挙が「史上最低」であることの極めつけは、10月20日のトランプ氏の発言でした。これまで選挙戦で不正が行われていると度々主張してきたトランプ氏は、11月8日の大統領選挙の結果を、「自分が勝てば」受け入れるが、そうでなければ法的措置を講じると述べたのです。

多くの開発途上国では、やはり選挙の不正を訴えて野党が選挙をボイコットする事例が珍しくありませんが、それは「選挙に参加しない」ことで、その選挙の不当性を訴えるものです。つまり、参加している以上、その選挙戦が正当なものと認めていることになるのであり、もし不当だというなら選挙戦から撤退するべきのはずです。いかに過去のスキャンダルが次々と暴露され、危機感が募っているとはいえ、「自分が勝つ限りにおいてその正当性を認める」という言い分は、控えめにいっても「自分勝手」以外の何物でもありません

しかし、この傾向は、単に候補二人の資質の問題とはいえません。今回の米大統領選挙ほど、民主主義の黄金律「政治家の質は国民の質に比例する」を想起させるものはありません。米国人が誇る民主的なシステムがあるからこそ、そして有権者に支持されるからこそ、この二人の候補は勝ち上がってきました。「自分が納得しないものは何事も認めない」というトランプ氏の主張も、少数者保護などに関して「一段高いところから」押し付けようとするクリントン氏の姿勢も、そのいずれもが基本的に米国市民の思想的潮流と無縁ではありません。したがって、今回の「最低の選挙」は、民主主義そのものが内在する問題が表面化したに過ぎないともいえます。

民主主義への懐疑

現代でこそ、欧米諸国では民主主義に「普遍的価値」を見出す議論が珍しくありません。しかし、いうまでもなく、多数者の意思が常に正しいとは限りません

実際、欧米世界においても、民主主義は長く「多数者の暴政」をもたらしかねないものとして、忌避されてきました。それは古代ギリシャのプラトンにさかのぼり、さらにキリスト教の影響が強まるなかで確立されました。ローマの代官から、極悪非道の強盗とイエスのいずれを釈放し、いずれを処刑すべきかを問われた市民の大多数が「イエスの処刑」を叫んだことは、キリスト教圏における民主主義に否定的な見解を強めたといえます。

近代においても、18世紀に議会政治が発達し始めていた英国で、保守主義の元祖E.バークは、民主主義が政治家を「投票哀願者」にすると普通選挙に反対しました。20世紀に入り、普通選挙が普及すると、「多数者の暴政」は度々生まれました。当時、世界で最も民主的といわれる憲法を備えていたワイマール共和国で、1933年にナチスが選挙を経て合法的に権力を奪取したことは、その象徴です。普通選挙の実現により、知識や見解に乏しい「平均人(common man)」が権力の座にのぼったことを、スペインの哲学者オルテガが「大衆の反逆」と評し、その危険性に警鐘を鳴らしたのも、この頃です。

どちらが選出されるにせよ、今回の米国大統領選挙もまた、多数者の意思が常に最上の選択に行き着くと限らないことを示している点では同じといえます。ただし、これは米国に限ったことではありません。8月、五輪閉会式にマリオの姿で登場したことで首相の支持率が上がった日本も、例外とはいえません。

中国の報道

今回の米大統領選挙は、挑戦国である中国にとって、いわば「敵失」といってよいものです。中国メディアでは、人種問題や銃の問題など、米国で発生するネガティブなニュースが頻繁に取り上げられていますが、今回の大統領選挙に関しても同様です。

中国国営の新華社通信の英語版サイトは、10月20日、米大統領選挙に関する論説を掲載しました。新華社通信は中国政府の公式見解を広めることを大きな任務としており、報道と宣伝が混然一体としている点で際立っていますが、いずれにせよその英語版は中国政府の立場を海外に発信するプラットフォームになっています。

それによると、「スキャンダルまみれの今回の選挙は…自国の政治経済システムをしばしば自慢してきた米国が大きなトラブルに直面していることに同意しない人はほとんどおらず」、「ポピュリズム、人種主義、孤立主義が蔓延し、銃犯罪も横行し、経済も停滞している状況は、政権が交代しても解決できてこなかった問題であり(つまり、“政権交代に意味はない”と言いたいのでしょう)」、「米国市民の多くが賛成したイラク戦争が中東地域を不安定化させ、ISの台頭に道を開かせ、シリアやイエメンでの血まみれの闘争を生んだことは、米国の民主主義システムの“普遍性”なるものの正当性を掘り崩している」。そして、コラムの結論は、「もしワシントンがセンセーショナリズムに覆われ続け、根の深い社会・経済問題の解決ができず、横柄な外交政策を維持するなら、次の犠牲者は自分自身になるかもしれない」と結んでいます。

米国にとって、特に1989年の冷戦終結後、自由や民主主義といった価値観は、自らの影響力を世界に広げる「ソフトパワー」であり続けました。ソ連の影響が強かった東欧圏で、反ロシア・ナショナリズムが(米国の支援する)民主主義と結びつき、共産主義体制の崩壊とロシアの勢力圏からの離脱が連動したことは、その象徴でした。

しかし、民主主義の内包するネガティブな側面が露骨に出た、しかもそれが(新華社通信の言うように)一過性のものでなく、社会に根深く食い込んでいる様々な弊害の発露として現れたことは、米国の世界的な影響力にとってのダメージにもなります。それは裏返せば、欧米諸国主導の国際秩序への反対以外に、これといって打ち出せる政治的メッセージに乏しい中国にしてみれば、自らの立場を強めるのに格好の材料であることは確かです。

「民主主義より実利主義」

かつて、独立後のシンガポールやインドネシアなどの東南アジアをはじめ、開発途上国で広くみられた「開発独裁体制」は、開発を推し進めるために強引なまでのリーダーシップを政府がもち、決して民主的といえなくとも、開発のパフォーマンスをもって国民の支持を集める体制でした。社会主義思想を貫徹しようとした毛沢東の時代と異なり、体制を支える原理が曖昧になり、それに代わって経済成長のパフォーマンスが共産党体制を支えている現在の中国も、それとほぼ同様といえます。

国を問わず、多くの人にとって、政府の存在意義は「国民の生活を守る、国民の生活をよくする」ことにあります。この点を重視するなら、「(例え民主的でなくとも)経済パフォーマンスがよく、国民を豊かにできればそれでいいではないか」という中国政府の主張も正当性をもって聞こえてきます。実際、中国だけでなく、多くの開発途上国、特にその政府は、同様の考え方をもちがちです。中国が経済成長するにつれ、北京に多くの開発途上国の政府が集うようになり、これは米国で「北京コンセンサス」と呼ばれて警戒されています。ただし、中国の経済力に引き付けられていることは間違いないとしても、その「非民主的な実利主義」に共感している政府が多いこともまた、確かといえるでしょう

選挙を経ていても、大きな権限をもつ知事などに多選禁止条項がなく、結局は個人が政治力を持ちやすい状況であっても、「多選に大きな問題はない」と認められる日本も、その点では多くの開発途上国に近いといえます。

民主主義には限界がある。しかし…

民主主義が必ずしも万能とはいえず、その限界が露呈すれば、実利主義や「強いリーダーシップ」を優先させる思考が強くなることも、無理はないかもしれません。

とはいえ、民主主義が万能でない一方で、中国の一党支配に典型的に表される、実利主義や「強いリーダーシップ」に問題があることもまた、確かです。最大の問題は、順調にパフォーマンスが向上している間はともかく、それが行き詰ったり、トラブルが発生したりした時に、軌道修正できないことです。

経済成長が鈍化したり、社会が不安定化したりしたとき、民主的な国では政府の責任を追及し、それを交代させることができます。政権交代で問題が解決するとは限りませんが、それによって少なくとも責任の所在を明確にさせ、軌道修正を図ることができます。多数者の意思が常に正しいとは限りませんが、多数者の満足ぬきに社会が安定することはありません。

ところが、民主的でない国の場合、支配される側の意思が政治に直接インプットされるチャンネルが乏しいゆえに、軌道修正を図ること自体が困難になります。中国では経済成長が鈍化するにつれ、ユーラシア大陸を包摂する経済圏「一帯一路」構想が打ち出される一方、政治的な不満を抑え込むためにナショナリズムが鼓舞され、さらにインターネットを含む言論統制が強化されてきました。これに象徴されるように、実利主義のみの「強いリーダーシップ」のもとでは、「アメ」を提供できなくなったとき、「アメ」を提供し続けるために拡大路線のアクセルを過剰に踏み込む一方で、「ムチ」をそれまで以上に振るうことになりがちです。

近代史でみれば、ヨーロッパ諸国で内乱や大規模な暴動が発生したのに対して、米国や英国で大きな政治変動が生まれなかった一つの要因としては、定期的に選挙が行われ続けていたことがあげられます。第二次世界大戦後の世界でも、クーデタや内戦が発生した国の多くは、それ以外にパフォーマンスの悪化した政府を交代させる手段をもたない国でした。その意味で、例え多数者の気まぐれに振り回されるとしても、民主主義には危機に対する安全弁としての役割があり、これは他の政治体制にはないアドバンテージといえます。もちろん、その安全弁が適切に機能するかは、有権者の側の能力によります。

第二次世界大戦で英国を勝利に導きながら、大戦終結直前の選挙で敗れたW.チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、これまで試された他の政治体制を除けば」と述べました。このドライな感覚あるいは現実認識を回復することで、民主政治に過剰な期待を抱き、それが裏切られたときに過剰な失望感や無力感を抱くことを避けることにつながるとみられます。「まだまし」という知足は民主主義の持続性をむしろ高めるものといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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