アフリカ・ブームの国際政治経済学 6.日本の対アフリカ・アプローチ(1)

日本-アフリカ関係の概観

歴史上、日本人が初めてアフリカ人と接触したのは、安土桃山時代といわれる。来航したヨーロッパ人宣教師が連れていたアフリカ人奴隷たちは、各地で物見高い人々の関心を集めたという記録が残っている(藤田みどり, 2005, 『アフリカ「発見」-日本におけるアフリカ像の変遷』, 岩波書店)。次に日本人がアフリカに関心を持ち始めたのは、近代に入ってからであった。開国後、富国強兵が推し進められたなか、1899年のボーア戦争が次世代の近代戦争として関心を集めた。さらに昭和に入ると、当時数少ないアフリカの独立国家であったエチオピア帝国との間に、1927年に通商・友好条約が結ばれた

とはいえ、言うまでもなくアフリカは日本から遠く、歴史的な関係も希薄であるため、1960年前後にアフリカ諸国が大挙して独立した後も、公式の外交関係は樹立されたにせよ、双方の相手に対する関心は総じて低調なものであった。図6-1は、日本の援助額の推移を、提供先の地域別に示したものである。ここで示すように、日本の援助に占めるサハラ以南アフリカの比率は、1970年代の半ばに至るまで、全体の約1パーセントにとどまった

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しかしその後、日本はアフリカへの関心を強める、三つの大きな波を経験した。第一の波は1973年の石油危機、第二の波は1989年の冷戦終結、そして第三の波は2000年代以降の「新たな争奪戦」である。

このうち、第一の波である1974年の石油危機は、原油の90パーセント以上を中東に依存していた日本をして、資源供給地を多角化する必要性を痛感させた。これを背景に、1974年には木村俊夫氏が現職外相として初めてアフリカを訪問し、エジプトやナイジェリアなど5ヵ国を歴訪している。さらに、1970年代半ば以降、援助額に占めるアフリカの比率は10パーセント程度にまで増加した。

この第一の波が主に資源への関心に基づいていたとすると、第二の波である1989年の冷戦終結は、日本にとって政治的な関心に基づいていたといえる。既に西側先進国のなかで米国に次ぐ経済大国となっていた日本は、冷戦終結によって第二次世界大戦後の国際秩序が大きく変動するなか、戦後の外交方針の転換点を迎えていた。冷戦終結の前後、国連による経済制裁の対象になっていたアパルトヘイト体制下の南アフリカとの貿易をアフリカ諸国から名指しで批判され(1988年)、クウェートを占領したイラク軍に対する湾岸戦争で130億ドルの拠出金を提供しながら国際的にほぼ全く評価されなかった(1991年)ことなどにより、日本政府は戦後距離を置いていた国際政治への関与を強め始めていたのである。

これを反映して、例えば1993年のカンボジアを皮切りに、自衛隊の国連PKO派遣が始まった。また、この時期に外務省を中心として、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指すべきという声が強くなったことも、同様の文脈から理解できる。国連改革、安保理改革には、常任理事国を含む国連加盟国の三分の二以上の賛成が必要であり、50ヵ国以上あるアフリカ諸国は国連加盟国のおよそ4分の1を占める。そのため、アフリカは日本政府にとって欠かせない「票田」と位置付けられたのである。

他方、この時期にはアフリカ諸国の側にも、日本への関心を強めざるを得ない状況があった。「2.新たな争奪戦(1)」の図2-1で示したように、冷戦終結後に欧米諸国からの対アフリカ援助は減少し始めた。冷戦構造の崩壊は、友好国を確保するために東西間で繰り広げられていた「援助競争」の終結を意味した。先進各国、なかでもヨーロッパ諸国の援助削減は「援助疲れ」と呼ばれた。これに加えて、冷戦終結後の先進国は「人権保護」や「民主化」を援助の前提条件とするようになった。

アフリカ諸国にとって援助を得ることがそれまでより格段に困難になるなか、援助額をほとんど減らさなかった数少ない国の一つが日本であった。バブル崩壊の後も、2001年の小泉政権成立に至るまで、日本の財政改革はほとんど進んでいなかった。その意味で、1990年代は日本自身が、援助を減額する状況になかった。その結果、アフリカにおける日本の存在感は、相対的に高まったのである。

こうして両者の必要性と利害が図らずも一致した結果、日本とアフリカは1990年代初頭に急速に接近した。1993年に開催された第1回TICAD(東京国際アフリカ開発会議)は、その象徴であった。

TICADの特徴

国連開発計画などとの共同で開催されたTICAD I は、アフリカ48ヵ国から大統領4名を含む225名の代表団が、13の援助国・機関、8の国際機関、東南アジア諸国など18ヵ国がオブザーバーで出席するといった、日本外交史上、類をみない規模のものとなった。1993年から5年おきに開催されているTICADは、その後の日本の対アフリカ外交のプラットフォームとなり、同時にその国際協力のあり方を世界に発信する場ともなってきた。

それまで、アフリカ各国の首脳を招いた会合としては英連邦会議やフランス・アフリカ諸国首脳会議などがあった。しかし、いずれも英仏の旧植民地である国が中心で、少なくとも当時はアフリカ諸国全体をカバーするものでなく、長い歴史を背景とする両国の国際的な支持基盤としての色彩が濃厚であった。また、2.「新たな争奪戦」(1)で触れたように、両会議は英仏の政治的意志をアフリカに伝える場でもある。

これら両会議と比較すると、TICADは異質ともいえる。表6-1は、TICAD V までの各会合における首相らの基調演説のポイントを示している。これらの演説からも分かるように、第1回以来TICADはオーナーシップ(自主性)とパートナーシップを基本原則としている。つまり、「アフリカの開発はアフリカ自身がオーナーシップをもって取り組むべき課題であり、日本を含む国際社会はこれにパートナーシップを発揮する」というスタンスを明示しているのである。

2.「新たな争奪戦」(2)3.「中国の衝撃」(1)で触れたように、2000年代に入って中国、インド、ブラジルなどが同様のフォーラムを開催するようになっており、それらでは「開発途上国同士の南南協力」の原則のもと、対等な関係や相互利益が強調される。これと比較すると、日本はあくまで西側先進国としての立場は保っているが、他方で英仏などと比較して、よりアフリカの視線に近い協力を目指すという方針を示してきたのである。

これを反映して、特に初期のTICAD では、日本自身が開催しながらも、日本が前面に立つことは稀であった。表6-2で示すように、TICAD I、II において、日本が示した援助は総じて抑制されたトーンで、むしろ国際機関と共同するプロジェクトをアフリカにも適用するといった、間接的なアプローチが目立った。これに加えて、マレーシアなど日本と関係の深い東南アジア諸国を通じた技術協力や人材育成などが盛り込まれるなど、「南南協力」のプロモートが強調された。これは日本との技術格差が大きく、日本からの支援を受けた東南アジア諸国を通じて支援する発想といえる。

このように、ドナー(援助国)とレシピエント(被援助国)のバイ(二国間)の関係ではなく、国際機関や域外国などを巻き込んだマルチ(多国間)のネットワークでアフリカの開発を支援する姿勢もまた、TICAD の大きな特徴であった。バイの関係は、いきおいドナーの発言力が強くなりがちである。その意味で、マルチのアプローチを採用したTICAD は、日本自身の利益を前面に出すのではなく、あくまで「アフリカの開発」を主たる目的とするフォーラムとしての性格を強めた

それは翻って、やや大げさに言えば、TICADをして日本の利益を度外視したものにした。TICAD I で経済協力ミッションの派遣が、II ではアジア・アフリカ投資情報サービスセンターの設置が、それぞれ約束されたものの、日本企業の関与は総じて希薄であった。これは、東南アジアなどと比較してアフリカへの関心が民間企業の側に薄かったことに加えて、後述する従来の援助方針や、80年代末の南アフリカとの貿易をめぐる批判に対する、日本政府の反応であったといえよう。いずれにせよ、特に初期TICAD では、日本側の経済的利益については、ほぼ全くと言ってよいほど触れられなかったのである。

TICAD の変遷

ところが、回を重ねるにつれ、TICAD はオーナーシップとパートナーシップを基本原則とする点で一貫しているものの、その内容は主に以下の4点において、段階的にシフトしてきた。いずれも2003年のTICAD IIIでその兆候がみられたが、鮮明になったのは2008年のTICAD IV以降である。

(1)直接的な援助の増加

表6-2で示すように、2003年のIIIを契機にTICADで日本が示す援助は段階的に増加した。特にIV以降、資金協力額が急激に増えただけでなく、従来から力点が置かれていた技術支援でも、対象となる人数が急激に増加している。アフリカ向けの援助が増加した一つの背景には、それまで日本の援助の主な対象であったアジア諸国が発展し、援助の必要性が乏しくなったことがあげられる。

しかし、援助の急増は、それまで以上にアフリカへの直接的なアプローチを強めざるを得ない、日本側の必要性も反映したものであった。先述のように、1990年代と異なり、アフリカに対する各国の関心が2000年代に急激に高まり、「新たな争奪戦」が言われる状況が生まれた。エネルギー供給地の多角化は、日本にとっても大きな課題である。

さらに、日本政府に中国のアフリカ進出に対する警戒感が強くなったことも、この変化を促したとみてよい。イギリスの国際政治学者クリストファー・ヒューズは、2000年代以降、政府・自民党内で、軽武装・経済優先の外交方針(吉田ドクトリン)を奉じる「実利主義者(Pragmatist)」と対抗する「修正主義者(Revisionist)」が、中国に対するグローバルな「封じ込め」を試みてきたと論じており、アフリカへのアプローチもその一環と捉えている(Christopher W. Hughes, 2009, "Japan’s response to China’s rise: regional engagement, global containment, dangers of collision," International Affairs, 85:4, pp.837-856)。

これに加えて、2000年代に国連改革が不調に終わったことも、政府・外務省をしてTICAD IV 以降の猛烈なアピールにつながったとみてよい。2005年、日本がブラジル、ドイツ、インドとともに国連に提出した安保理改革提案に対して、他の多くの国と同様、最終的にアフリカ諸国はこの提案が不十分であるとして反対したのである。

資源調達と国連改革の二重の目的において、2000年代の日本政府は、従来の「黒子」のような立ち位置から、顔の見える「主役」の座に戻り始めたといえる。

(2)インフラ整備の増加

増加するアフリカ向け援助のなかでも、表6-2から見て取れるように、TICAD III以降、日本政府は交通網などインフラ整備を強調している。もともと、図6-2から見て取れるように、他の先進国と比較して、日本の援助に占めるインフラ整備の比率は著しく高い

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日本の開発援助は欧米諸国と異なり、伝統的にインフラ整備を重視し、さらに民間企業の貿易・投資とのリンクを重視している。これは自国の経済的利益をも念頭に置いたものといえる。この歴史的経緯に鑑みれば、かつての日本の援助を、現代の中国による対アフリカ援助のモデルと捉える見解が広がっていることは、不思議でない。ただし、1970年代以降の東南アジアなどでのインフラ整備では、日本企業による受注や日本製資材の利用などがあまりに顕著であったが故に、内外から「国益重視の援助」といった批判を集めた。1974年、田中角栄首相(当時)の東南アジア歴訪中、ジャカルタやバンコクで反日暴動が発生したことは、日本のオーバープレゼンスに対する現地の拒絶反応を如実に示すものであったといえる。そして、これは日本政府をして、無償援助の増加などの軌道修正に向かわせる契機となった。

その一方で、4.成長と貧困が併存する大陸(1)で述べたように、1980年代以降のIMFや世界銀行による構造調整計画で、債務がほぼ返済不可能な水準に至った経緯もあり、1990年代半ば以降は貧困国への融資を控えることが先進国の基調となった。これと連動して、西側先進国の集まりであるOECD(経済協力開発機構)のDAC(開発援助委員会)が1996年に発行したレポート『21世紀の形成』は、医療や教育といった基礎的社会サービスに重点を置く「貧困削減」を開発協力の中心に据えることを確認した。貧困削減を開発協力の軸にすることは、2000年に国連総会で採択されたMDG(ミレニアム開発目標)でも確認され、これがいわば国際的なトレンドとなった 。

医療や教育と比較して、インフラ整備は巨額の資金が必要となりやすく、いきおい贈与でなく貸与で提供されることが多い。そのため、1990年代末以降の先進国の開発協力のトレンドのもと、初期TICADでは貧困国が多いアフリカ向けの援助として、インフラ整備はほとんど言及されなかったのである。

しかし、アジアに対する援助の多くをインフラ整備中心で行ってきた日本にとって、基礎的社会サービスは、欧米諸国と比して、やや不得手な領域であることは否めない。また、日本自身の経済成長の経緯と東アジアでの援助体験から、日本の開発協力の主流では、インフラ整備による社会経済的な発展を強調する議論が根強かった(例えば、こちらを参照)。さらに、先述のように中国がインフラ整備の援助と貿易・投資を結び付けて急激にアフリカへ進出する状況も、政府関係者を刺激したとみることに、大きな無理はない。

これらの背景のもと、TICAD III以降、「新たな争奪戦」におけるいわば「競争力のある手法」として、日本政府はインフラ整備に力点を戻し始めたといえる。

アフリカ・ブームの国際政治経済学 6.日本の対アフリカ・アプローチ(2)に続く