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イラン核協議の合意が示すもの

六辻彰二国際政治学者

11月24日、ジュネーヴで開かれていたイラン核開発をめぐる協議で、イランがウラン濃縮を一時停止する代わりに、欧米諸国がやはり暫定的に経済体制を停止することで合意しました。イランと関係6ヶ国(米英仏独中ロ)が予定を超過して、未明にまで及ぶ協議を重ねて成立したこの合意は、6ヶ月という期間限定のもので、恒久的な拘束力はありません。さらに、イランの「ウラン濃縮の権利」については明言されていません。いわば、当面の危機を回避するための、玉虫色の決着とさえいえるかもしれません。しかし、それでもなお、今回の合意には大きな意義があるといえます。

グレート・ゲームとイラン

もともと、イランは欧米諸国にとって、中東での重要な足場でした。

かつてペルシャと呼ばれたこの地は、ギリシャとのペロポネソス戦争で知られるように、古代から文明が発達した土地でした。その最後の王朝、パフラヴィ朝が成立したのは、1925年のことです。

19世紀以来、中央アジアでの覇権争い「グレート・ゲーム」を展開していたいた英国とロシア帝国は、当時のガージャール朝ペルシャに対しては、軍事的、経済的に勢力圏を分割して臨みました。1828年のトルコマンチャーイ条約でロシアが、1841年のイラン・イギリス通商条約で英国が、それぞれ治外法権、関税自主権などの特権を獲得しました。これに基づき、19世紀の後半にはイランは経済的な従属の度合いを深めました。なかでも英国は、1890年のタバコ独占利権に続き、1901年には向こう60年間にわたってイランの天然ガス、原油に関する利権を獲得しています。

列強進出で古代の栄華が失われたことは、ペルシャのナショナリズムを鼓舞するのに充分でした。そして、これは列強に対して無力なガージャール朝国王への不満を増幅させることになりました。この不満の発火点は、第一次世界大戦と1917年のロシア革命にありました。植民地主義を(少なくとも公式には)否定したソビエト連邦政府は、ペルシャから撤退。これで揺らいだバランスを回復するため、大戦後の英国は、独力でペルシャの支配に臨むことになりました。

しかし、反英ナショナリズムの高まりと、ガージャール朝の衰退は、各地の地域蜂起をもたらし、ペルシャ全土が極度の混乱に陥りました。もはやガージャール朝の存亡に期待がもてず、他方で大戦後の疲弊した英国がかつてのような力をもてないなか、1921年にレザー・ハーン大佐がクーデタで実権を掌握します。このクーデタには、英国大使館や駐留英軍上層部が関与していたといわれます。英国自身の力の衰えがはっきりした以上、新英的で強力な軍事政権こそ、ペルシャの安定を確保し、ひいてはソ連の影響力を抑制する効果があると英国が期待したとしても、不思議ではありません。

ともあれ、レザー・ハーンはガージャール朝を廃絶し、1926年に自ら皇帝(シャー)となってパフラヴィ朝を興しました。古代から続くペルシャ最後の王朝の誕生です。

近代国家への道

パフラヴィ朝の支配は、基本的にイランの近代化を最大の目的に据えていたといえます。列強の圧力を受けて、主に軍事的、経済的な意味で、自らを近代国家に脱皮させようという反応は、幕末・維新の日本をはじめ、トルコ、中国、アビシニア(エチオピア)などに共通してみられたものです。ただし、これら各国に共通して言えるように、危機感にかられて急速な近代化を推し進めるなか、いきおい国家権力が肥大化したことは確かです(これはヨーロッパの後発国ドイツにも共通します)。

イランでもやはり、シャーの主導で近代的な常備軍が整えられていきました。従来の地域有力者に率いられる武装組織に代わって国軍が設立され、徴兵制が採用されたのです。軍事力の中央集権化は近代国家の大きな特徴ですが、1926年から41年まで、平均して国家予算の34パーセントが軍事費として支出されたことに、統一国家イランの建設にとって軍隊がいかに重視されたかが分かります【永田雄三編(2002)『西アジア史II イラン・トルコ』、山川出版社、p.423】。

これと並行して、レザー・シャーは官僚機構の整備にも着手しました。それまで王族や名家出身者のみに認められていた官僚の採用には、試験を通じたメリット・システムが導入されましたが、これもやはり近代国家になる途上で、多くの国が経験した道筋です。

そして、レザー・シャーは近代化を推し進める中で、宗教界にも制限を加えていきました。1928年には、フランス民法典を原型とする、近代的な民法典が成立。さらに、1932年には、それまでイスラーム法廷の専管事項であった結婚、離婚や財産に関する法的資料の記録が、司法省管轄の法廷に属することが定められました。これによって、国民生活の管理が、宗教から世俗権力に移行したといえます。

宗教勢力の排除も、近代化を通じて多くの国が経験した事柄ですが、イスラームの影響力を弱めるのと並行して、レザー・シャーはイスラーム以前の古代への回帰を志向するようになりました。ペルシャの疲弊の遠因を、アラブ人によるイスラーム伝播に求め、その影響力からの脱却を図ったのです。ペルシャ語の純化運動が起こり、アラブ式の太陰暦はペルシャ式の太陽暦に切り替えられ、さらに1935年には正式国名として「イラン」を採用するよう、諸外国に伝達しています。これは、ヨーロッパ人からの呼び方である「ペルシャ」を、自らの呼び方である「イラン」に切り替えるという、イラン・ナショナリズムの高まりを象徴します。

米国との接近と皇帝専制

第二次世界大戦後のイランは、欧米諸国なかでも米国との友好関係を深めていきました。皇帝支配のイランはとって、共産主義ソ連は大きな脅威でした。一方、覇権国の地位から完全に滑り落ちた英国に代わって米国は、大産油国の集まるペルシャ湾岸の安定に直接的に関わるようになり、そのなかでイランを安全保障上のパートナーとしたのです。

1950年代以降、パフラヴィ朝イランは米軍からの軍事支援で軍備を急速に近代化させました。イランでは1950年から70年までの国家予算のうち、25~40パーセントが軍事予算にあてられ、さらに1972~76年には米国から100億ドルの武器を購入したと推計されています【永田、前掲、p.442】。さらに1957年には、共産主義者をはじめとする反体制派を取り締まるため、CIAやFBIの協力でサヴァク(国家情報安全機構)を設立。これらを通じて、冷戦の環境下イランは西側の一国という地歩を固めていったのです。

その一方で、第二代皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィは、自らの権力基盤を強化させていきました。1961年代には「白色革命」と呼ばれる、皇帝自身による農地改革が行われました。これは「共産主義の波及を抑制するための農地改革」を重視する米国の方針に呼応するものでしたが、一方で皇帝領の多くは耕作者にではなく、シャーの取り巻きである富裕層に払い下げられる、一種のデモンストレーションでした。実際、白色革命後も、全国4万5000家族の大土地所有者が、耕作可能地の47パーセントを保有し続けたのです。冷戦時代、西側先進国が独裁的な支配者を支援することは稀ではなく、イランのシャーはその一例にすぎません。

いずれにせよ、米国を後ろ盾としたシャーの個人支配に批判的な勢力は、サヴァクなどによる抑圧の対象になりました。なかでも、貧富の格差の拡大や、カジノの設立などイランの世俗化に批判的なイスラーム聖職者たちは、その抑圧の対象となったのです。1978年1月には宗教都市ゴムで抗議運動が起こり、これを当局が徹底鎮圧で臨んだことで、多くの死傷者を出す事態に発展。これに対する追悼、抗議のデモが各地で起こるなか、同年9月には戒厳令が施行され、デモ隊に対して治安機関が無差別に発砲する「黒い金曜日事件」が起こったことで、パフレヴィ朝の支配は一気に正統性を失い始めることになりました。

世俗化への反動としてのイスラーム復興

個人支配に対する批判が、それと連動して、米国をはじめとする欧米諸国への敵意や、世俗化への反動としての宗教復興をもたらしたことは、不思議ではありません。1979年1月、イラン国内の極度の混乱を受けてシャーが病気療養を理由に出国し、米国へ亡命。これを受けて2月には、皇帝支配を一貫して批判し、フランスに亡命していた、イスラーム法学者のホメイニーが15年ぶりに帰国しました。イスラーム臨時革命政府の樹立宣言により、イラン・イスラーム革命が実現したのです。

イラン・イスラーム革命は、イラン国内の世俗的な皇帝支配に対する反動という側面がありますが、他方で世界史のマクロな視点からみても、この時期に特有の現象だったといえます。

1970年代の後半から80年代にかけては、各地で戦後思想の転換が生まれた時期でした。中東でも1960年代の末までは、1952年のエジプト革命で王政を打倒したナセルが唱導した、アラブの結束と近代化を説く「アラブ民族主義」や、欧米諸国の支援を受けた独裁体制への批判として、(必ずしもマルクス主義と同じでないにせよ)社会主義、さらにそこから派生した、平等を旨とするアラブ人の習慣やイスラームの教えと社会主義を融合させた「アラブ社会主義」が求心力をもっていました。1969年にやはり王政を打倒し、最終的に2011年に殺害されたリビアのカダフィも、「アラブ社会主義」を掲げていました。

ところが、現状改革のイデオロギーとしての社会主義は、チェコスロヴァキアでの民主化運動「プラハの春」がソ連軍の介入で潰され、中華人民共和国で教条的な文化大革命が始まった1968年以来、その影響力が衰退していきました。この大きな流れと、中東も無縁ではありませんでした。

さらに、1960年代末から70年代末にかけて、以下のように中東では、世俗的なイデオロギーへの幻滅が広がる特有の契機が相次いで発生しました。

  • ソ連の支援のもとで近代化を推し進め、「アラブ民族主義」を掲げて対イスラエル闘争を主導していたエジプトが、1967年の第三次中東戦争で大敗したこと
  • アラブ民族主義を唱導していたエジプトのナセル大統領が、1970年に死亡したこと
  • ナセルの後を受けたサダト大統領が第四次中東戦争後、1978年のキャンプ・デービッド合意で、イスラエルと単独和平に踏み切ったこと

世俗的な社会主義やアラブ民族主義への幻滅が、イデオロギー的真空を生み、これは中東におけるイスラーム復興を促すことになりました。1979年にソ連のアフガン侵攻に対して、世界中からイスラーム義勇兵が参集し、イスラエルとの和平を実現させたサダトが81年にイスラーム過激派「アル・ジハード」メンバーに暗殺されました。1979年のイラン・イスラーム革命は、イラン国内の政治変動の帰結であると同時に、現代につながるイスラーム復興をもたらしたこの時代の変化の一つの象徴でもあったのです。

イランと欧米諸国の対立

革命後のイランでは、1979年3月の国民投票でイスラーム法学者(聖職者)の統治たる「イスラーム共和制」の樹立が採択され、それにのっとって同年12月には新憲法が発布されました。そのもとで、イランではパフレヴィ朝時代と異なり、大統領・議会選挙が行われ、裁判所との三権分立も実現しました。しかし、大統領の決定、議会の法律、裁判所の判断は、イスラーム法学者である最高指導者によって「イスラームの教えに反する」とみなされた場合、無効となります。 世俗の権力を超越したイスラーム法学者に指導されるイスラーム体制は、シャーの世俗的な個人支配体制に対する反動でもあります。

そのため、イスラーム体制樹立後のイランが、シャーの個人支配を支援し、さらにその亡命を受け入れた米国と鋭く対立するに至ったことは、宗派やイデオロギーの観点からだけでなく、政治的な経緯に照らして、不思議ではありません。特に、シャーの亡命を受け入れた直後の1979年11月、テヘランの米国大使館が群衆に占拠され、大使館員らが人質となった「米国大使館人質事件」は、両者が決定的に決裂する契機となりました。

これを契機に、米国は1980年4月にイランとの国交を断絶。その後、イランに敵対的な姿勢を強めます。イラクのサダム・フセインを支援し、イラン-イラク戦争(1980-88)でイスラーム体制の転覆を図ったことは、その象徴です。さらに、1984年には米国務省の指定する「テロ支援国家」リストに加えられ、イランへの経済制裁も行われるようになりました。

これに対して、イランのホメイニーもまた、イラクの攻撃を退ける一方で、米国との対決姿勢を強めました。なかでも、1988年に英国で出版された、コーランを批判的に捉えた小説『悪魔の詩』の作者サルマーン・ルシュディに対して、どこにいようとも「死刑」に処されるべきというファトワー(命令)を出したことは、国際的な緊張を高めました。

関係改善への期待

ところが、最高指導者で革命の象徴でもあったホメイニーは、冷戦終結と同じ1989年に死去しました。のみならず、この前年に国連の調停を受け入れてイラン-イラク戦争が終結していたこともあり、1980年代の末頃から革命路線の穏健化がみられるようになっていったのです。さらにその後、米国などによる経済制裁がボディブローのようにイラン経済にダメージを与えるなか、1990年代の末には、特に革命の熱狂を知らない若い世代の間で、現状の改革を訴える世論が大きくなりました。その結果、1997年の大統領選挙では、欧米諸国との関係改善などを訴える「改革派」ハータミーが当選しました。

当時、米国の国際政治学者S.ハンチントンの『文明の衝突』が世界的に知られるようになっていました。冷戦の終結に伴い、イデオロギー対立ではなく、宗教を核とする文明間の衝突が起こるようになる。なかでも西欧キリスト教文明圏にとっての脅威は、自由や民主主義といった理念を受け入れない、中華文明とイスラーム文明である。かなり圧縮した言い方でハンチントンの主張を要約すると、こうなります。ただし、この主張は、「文化の相違から西欧とイスラーム圏が絶対に理解しあえない」という排他的な理解に行き着きます。今日、欧米圏では「イスラームが本質的に非民主的で、我々(西欧人)とは絶対的に異なる」というイスラーム本質主義が台頭していますが、ハンチントンの議論はその呼び水になったといえるでしょう。

これに対して、ハータミーは「文明間の対話」を強調しました。国交のない米国はともかく、2000年にはヨーロッパ各国や日本を歴訪し、イランの油田開発をはじめとする経済関係の構築と並行して、『悪魔の詩』の作者ルシュディに対する死刑執行のファトワーを実施する意思がないことを表明したことは、西側からも歓迎されました。この時期、長く続いたイランと西側の冷却期間は、「雪解け」に向かったかにみえました。

対テロ戦争とイラン

ところが、わずかな「雪解け」期を再び凍り付かせる引き金になったのが、2001年の米国同時多発テロ事件でした。テロとの戦いを宣言した米国ブッシュ大統領は、イラク、北朝鮮とともにイランを「悪の枢軸」と名指しし、2003年にはイラクを攻撃。これは多くの国が批判したように、そして結果としても、フセイン体制を一方的に断罪するものに他なりませんでしたが、同時にイラクとともに「枢軸」と名指しされたイランにとって、大きな警戒感と反感を抱かせるのに十分なものでした。

さらに、対テロ戦争の始まりは、イランの核兵器開発疑惑を浮上させる契機でもありました。IAEAの報告では、イランは1985年頃にウラン濃縮計画を策定していたといわれます。その後、1992年には中国の援助でウラン転換装置が建設。さらに1995年には、ロシアと原発建設の契約を結ぶなど、核関連技術の開発がすすめられてきました。これは、核拡散防止条約(NPT)で認められた「核の平和利用」というのが、イラン側の主張です。

しかし、2002年12月、反体制派イラン人グループが米国での記者会見で、衛星写真を根拠に、イラン国内で核施設建設が秘密裏に進められていると告発したことで、イランの核兵器開発疑惑が突如として脚光をあびることになりました。米国政府も懸念を深めるなか、2003年のIAEAの調査により、イラン中部ナタンズの核関連施設で、原子炉に必要ないレベルの高濃縮ウランが検出されたことも、疑惑を深める一因となりました。穏健派ハータミーも「核の平和利用」原則に関しては譲りませんでしたが、米国との仲介役として英独仏がイランとの交渉に臨んだ結果、2004年11月にウラン濃縮の全面停止で合意を達成しました。

しかし、「枢軸」の名指しと、「核の平和利用」をめぐる対立が、米国との関係改善に期待をかけていたイラン国民にとっても大きな衝撃だったことは、想像に難くありません。2005年の大統領選挙で、米国への敵対的な姿勢を全面に打ち出す「保守強硬派」のアフマディネジャドが大勝したことは、期待が失望に変わったことを象徴します。こうして1990年代の改革路線は頓挫し、イランではアフマディネジャド政権のもと、ウラン濃縮が再開されたうえ、2006年には射程2000kmの弾道ミサイル「アシュラ」の開発成功が発表されました。ここに至って、米国とイランの対立は、アシュラの射程に収まるEUを含めて、緊迫の度を深めていったのです。

オバマ政権下での緊張

対テロ戦争を何よりも優先し、他国を顧みない一国主義(unilateralism)と批判され、さらにイスラエルとの友好関係を最大限に重視したブッシュ政権と異なり、オバマ大統領は国際協調に基づくテロ対策を基本方針としています。とはいえ、国内のユダヤ人団体や、革命で米国に流れてきたイラン人団体のロビー活動もあり、イランとの関係を一朝一夕に改善することはできませんでした。

なかでも、2011年11月にIAEAがイランの核兵器開発疑惑を報告したことは、オバマ政権をして経済制裁の強化に向かわせる転機となりました。これを受け、翌12月には連邦議会が、イラン中央銀行と取引のある各国金融機関の米国内部での取引を規制する法案が成立。これは、従来イランへの制裁に消極的だった日本をはじめ、韓国や中国に対しても、イラン産原油の購入を控えざるを得なくする強い圧力となりました。

これに対して、アフマディネジャド政権は、核開発があくまで平和利用を目的としており、核関連技術を開発する権利があると主張し、両者の溝は深まりました。一時、ペルシャ湾の入り口にあたるホルムズ海峡をイランが閉鎖する動きをみせたことで、両者の緊張はピークに達したのです。

核関連協議への道

しかし、欧米諸国との関係が極度に悪化するなか、2013年6月のイラン大統領選挙では、保守穏健派のローハニ候補が当選しました。これには、保守強硬派の候補が一本化されなかったことによる、地滑り的な勝利という側面もあります。ただし、これまでにないほどの経済制裁で、食料品を含む日用品価格が上昇するなど、市民生活に悪影響が出るなか、イランの有権者が保守強硬派の路線に拒否反応を示したことも確かといえるでしょう。いわば、多くのイラン国民が再び、欧米なかでも米国との関係改善を模索する方向に顔を向け始めたといえます。

一方で、米国をはじめ、欧米諸国にも経済制裁を長期化できない事情がありました。懸念された、イランとの直接的な軍事衝突の危険性については言うまでもありませんが、これに加えて経済的な理由もあります。イラン産原油の市場で出回る量が極度に減少したため、サウジアラビアなどが増産の体制をとっていましたが、それをいつまでも続けることは困難です。また、景気の回復局面にあるとはいえ、エネルギー市場の不安定化は、各国にとって大きなリスクです。これらに鑑みれば、欧米諸国がローハニ政権の誕生を、交渉に着手する好機と捉えたのは不思議ではありません。

のみならず、シリア問題が抜き差しならない状況にあったこともまた、両者が交渉に向かう大きな背景になったと言えます。シリア内戦で、イランは一貫してアサド政権を支持していますが、先月米ロが提案した、政権側と反政府勢力側がともに出席して協議するジュネーヴ2には反対しておらず、むしろ国連・アラブ連盟のザワヒリ特使に対して、「招かれるならば出席する」という意思を表明しています。

シリア内戦が泥沼化し、アル・カイダなどの勢力が流入することは、イランにとっても好ましい状況ではありません。ジュネーヴ2をめぐるローハニ政権の対応からは、「基本的にアサド政権を支持しながらも、自国に一方的に不利にならない条件で軟着陸を図りたい」という意思を読み取ることができるでしょう。その点において、イランにはこれまで以上に、欧米諸国とのチャンネルを確保する必要性があったと言えます。

一方で、欧米諸国にしても、アサド政権への圧力を加えながらも、直接的な軍事介入を避けるためには、ロシアとともに、シリア政府と友好関係にあるイランの協力が欠かせません。すなわち、シリア問題をめぐって一時的にであれ協力し、軟着陸を図りたい点において、イランと欧米諸国の間に利害が一致したとみれるのです。

合意の意義

冒頭にも言ったように、今回の合意はあくまでも暫定的なものです。また、イラン、米国の双方に、この合意に反対する強硬派があり、将来的な予断は許されません。イランの核開発そのものが禁止されたものでないことから、状況によっては再び危機が再燃する可能性も否定できないのです。

とはいえ、1979年以降、イランと米国が公に何かの合意に至ったことはなく、今回の合意はその意味で画期的といえます。

東西冷戦時代、米ソが自らの安全を確保するために繰り広げた核の軍拡競争は、国際的な緊張を増幅させ、結果的に米ソをも脅威にさらすことになりました。冷戦期の核軍縮の歴史が物語るように、「安全保障のジレンマ」から抜け出すには、コミュニケーションを通じて、相手を「信用」できなくとも、コストとベネフィットの合理的な計算ができる相手であるという「信頼」をお互いに構築することが欠かせません。北朝鮮のように、計算ずくで非合理的な振る舞いをして、相手に譲歩を迫る国はともかく、全てがそのような行動パターンを取るわけでもありません。軍事力は安全保障にとって必要条件ですが、十分条件ではありません。つまり、安全を確保するために軍事力は欠かせませんが、軍事力さえあれば安全が確保されるわけでもないのです。

イランと米国が相互に不信を募らせた歴史的経緯を消すことはできません。しかし、ロマン・ロランが言うように、重要なことは「知性のペシミズム、意思のオプティミズム」です。今回の合意を皮切りに、イランと欧米諸国の間で「信頼」が構築されることを願うばかりです。ただ一つ、残念なのは、安倍総理がいかに「積極的平和主義」を謳っても、こういったところで世界平和に貢献することを期待はできず、そこにおいては全くオプティミスティックになれません。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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