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「どこまでが英国か?」:北アイルランド騒乱の深淵

六辻彰二国際政治学者

ベルファストの騒乱

日本のメディアではあまり取り上げられていませんが、昨年末以来、英国の北アイルランドでの騒乱が激しさを増しています。きっかけは、12月3日、首府ベルファストの市議会が常時行ってきた英国旗、ユニオン・ジャックの掲揚を、祝日など年間17日に限定すると決定したことでした。これに反発した、英国への帰属を主張する人たちが市議会入り口にバリケードを作ったり、議員の事務所を襲撃するなど抗議活動を過激化させ、警察との衝突に至っています。なかには火炎瓶を投げつけられた女性警官もおり、北アイルランド警察庁の発表によると、2012年12月だけで29名の警官が負傷しました。

その正式名称が「グレートブリテン島および北アイルランド連合王国」というように、英国はイングランド、ウェールズ、スコットランド、そして北アイルランドから成る、形式上それらの地域が共通の国王(女王)を戴く連合王国(United Kingdom)です。ただし、連合王国は事実上イングランドによる支配を大前提としてきたため、他の地域ではロンドンへの反感も少なからずあります。なかでも、北アイルランドは血で血を洗う抗争を英国政府と繰り広げてきました。

北アイルランド:英国の「内なる植民地」の誕生

もともとアイルランド島は、12世紀以来、イングランド王が占領を目指して軍勢をたびたび送り続けた土地でした。その侵攻が本格化したのは、宗教改革が進行した16-17世紀。教皇権を否定したイングランドは、カソリックの信仰を守るアイルランドを占領して、その信仰を禁じるカソリック刑罰法を導入しました。さらに1649年には、清教徒革命を率いたクロムウェルにより、カソリック地主の土地はほぼ全て没収されました。宗教改革を契機に占領が本格化した背景には、やはりカソリックのスペインが、アイルランドと気脈を通じて英国を挟み撃ちにすることへの警戒があったともいわれます。

いずれにせよ、17世紀頃からのイングランド人の入植で、アイルランドは事実上英国の植民地となりました。その支配は社会の末端にまで行き渡り、プロテスタントの富裕な地主とカソリックの貧しい小作という経済格差が生まれただけでなく、その過程で英語が浸透し、アイルランド固有の言語であるゲール語は衰退しました。アイルランドは政治、軍事的にだけでなく、社会、経済、文化的にも、英国の支配にさらされたのです。そして1801年、アイルランド議会が廃止されたことで、アイルランドは完全に英国に併呑されたのです。

しかし、その後もアイルランド人の抵抗がやむことはありませんでした。1848年にはフランスの二月革命と第二共和制樹立に触発されたアイルランド青年団が、1868年には後のアイルランド共和国軍(IRA)の前身となるアイルランド共和同盟(IRB)が、それぞれ反乱を起こしています。これらの度重なる抵抗を受け、英国政府は19世紀の末ごろからアイルランドへの自治権付与を検討するようになります。これに危機感を募らせたのが、入植者の子孫である、当時のアイルランドにおける特権階級でした。アイルランドの圧倒的多数は英国支配に否定的で、もし自治権が付与されれば、立場が全く逆転してしまうことを恐れたのです。この頃から、アイルランド人のなかで英国への帰属を求めるプロテスタント中心のユニオニストと、独立を求めるカソリック中心のナショナリストの分裂が加速していきました。

この内部分裂は、その後のアイルランド共和国独立に尾を引くことになります。第一次世界大戦後、少なくともヨーロッパでは、「民族自決」がキーワードになりました。この国際潮流のもと、英国によるアイルランド支配が困難になったことは、不思議ではありません。ヴェルサイユ条約が調印された1919年、アイルランドのナショナリストたちが武装蜂起した独立戦争(英蘭戦争)の結果、1921年12月に英蘭条約が締結され、アイルランド自由国の独立が承認されたのです。しかし、これは英国君主を共通の君主とする英連邦のなかでの独立であったため、英国統治を願うユニオニストだけでなく、完全独立を求めるナショナリストからも不満が出ました。両者の反目が一層激化するなか、北東部6州で多数派だったユニオニストたちの求めにより、北アイルランドは英国の一部にとどまることになりました。これによって、アイルランド分断が決定付けられたのです。

テロと鎮圧、和平合意、そしてテロと鎮圧

その後、第二次世界大戦後の1949年、アイルランドは共和制国家として完全に独立を達成しました。一方、北アイルランドではカソリックが就職や居住で差別待遇を受ける二級市民の扱いを受け続けました。英国という近代議会制度が誕生した国でこれが可能となったのは、北アイルランドに関してはプロテスタントのユニオニストが多数派だったからです。

この状況下、ナショナリストたちのなかには、議会進出を通じてアイルランドとの統一を図る勢力だけでなく、IRAに代表される、暴力的な手段を辞さないグループが台頭し、英国支配に抵抗して爆弾テロなどを頻繁に起こすようになります。これに対して、ユニオニスト市民のなかでも、アルスター義勇兵などの民兵組織が生まれ、警察、さらに軍隊とともにナショナリストたちと衝突を繰り返すようになりました。1972年1月30日、デリー(ロンドンデリー)で発生した、ナショナリストの抗議デモに対する英軍兵士の発砲で14名が死亡した「血の日曜日事件」は、両者の対立がピークに達したことを象徴します。

双方の衝突が激しさを増すなか、北アイルランド議会は閉鎖され、英国政府により直接統治されることになりました。一方、IRAは欧米諸国と敵対するリビアから軍事援助を受けるなどして、英国政府との対決姿勢を鮮明にしていきます。しかし、長引く暴力的な衝突に双方が嫌悪感をもつようになったことに加えて、1990年代に(他のヨーロッパ諸国と同様に)英国、アイルランドの経済状況が好転し、それまで遅れていた北アイルランドでのインフラ整備などが進んで生活状況が改善したことや、さらにリビアのカダフィ体制が欧米諸国との対立を沈静化させ始めたことなどが重なり、1990年代には和平合意が模索されるようになりました。その結果、暴力の停止に双方が合意した1998年のベルファスト合意で、ユニオニストとナショナリストの双方が参加する自治政府、北アイルランド議会が設置されました。これを契機に、両者の対立は暴力的なものから、議会を舞台とする政治的なものに転換が進められてきたのです。

自治政府および北アイルランド議会は、設立間もない2002年、相互不信が根強い両派の対立が激化した結果、閉鎖に追い込まれました。しかし、「暗黒の時代」に逆戻りはできないという共通理解のもと、議会は2006年、自治政府は2007年に再開。2010年には、議会第一党の民主統一党(ユニオニスト)と第二党シン・フェイン党(ナショナリスト)の間で、警察・司法権を英国政府から委譲することに合意しました。地方分権の一環として、北アイルランドの自治権を拡大するという文脈において、ユニオニストもこれを受け入れることができたといえるでしょう。

しかし、その後も暴力的な衝突は収まりませんでした。2009年3月には英陸軍基地が襲撃されて兵士2名が殺害され、ベルファスト合意に参加したIRAから分裂した、ナショナリスト強硬派真のIRAが犯行声明を出しました。また、同月には警官が殺害され、やはりIRAから分派したIRA継続派に所属する17歳の少年が検挙されています。この頃から、一時期はやや落ち着きを取り戻してきた北アイルランド情勢が再び悪化し始め、2011年6月には双方の住民200人が入り乱れた暴力的衝突が発生しています。そして、冒頭で述べたように、2012年12月以来、北アイルランドでの暴力的衝突は悪化の一途をたどっており、その情景はさながら1970年代を想起させるとAFPは伝えています。

「旧体制の擁護者」の行く先

昨年末からの騒乱がこれまでのものと違うのは、今回警官隊と主に衝突しているのが、ナショナリストでなくユニオニストということです。これは北アイルランドにおける勢力図が転換しつつあることを示します。北アイルランド議会でみれば、2011年選挙でユニオニストの民主統一党(DUP)とアルスター統一党(UDP)が合計53議席、ナショナリストのシン・フェイン党と社会民主労働党(SDLP)が合計43議席で、英国帰属派が上回っています。しかし、ベルファスト市議会では、ユニオニスト二大政党が18議席、ナショナリスト二大政党が24議席。この四党以外の会派もありますが、全体として市議会ではナショナリストが多数派になっており、これが英国旗の常時掲揚の取りやめという決定を可能にしたのです。

この背景には、プロテスタント系人口の減少があります。国や地域を問わず、所得の低いグループほど出生率が高くなる傾向があります。やはりAFPによると、2011年までの10年間で、北アイルランド全体のプロテスタント系人口が53%から48%に減少した一方、カソリック系人口は45%にまで増加しました。北アイルランド全体ではかろうじてプロテスタント系の方が多いわけですが、それでも両者の勢力がほぼ拮抗しつつあることは確かです。これに加えて、最近はアイルランドでも世俗化が進んでおり、プロテスタント=ユニオニスト、カソリック=ナショナリストという図式は必ずしも当てはまらなくなっています。宗派による紐帯が低下するなか、プロテスタントや無宗教のひとでも、ナショナリスト政党の支持者が増えていることがうかがえます[最近はユニオニスト、ナショナリストに代わって、(英国への忠誠を誓う)ロイヤリスト、(共和制を支持する)リパブリカンという呼称も使われますが、これは両派それぞれのより強硬な路線をもつひとに使われる傾向があります]。

とはいえ、今回の騒乱を、全てのユニオニストが支持しているわけではありません。抵抗する側=ナショナリスト、抵抗される側=ユニオニストという構図が入れ替わりつつあるなか、過激な抗議活動を行っている多くは、ユニオニストでも若年層や低所得層とみられています。北アイルランドも他のヨーロッパと違わず、この数年は景気後退に直面しています。2009年秋ごろからは移民への襲撃事件も相次ぎ、さらに昨年10月には英国政府の緊縮策に対して各地でデモが発生しました。高まる社会・経済的不満を背景に、人口比の変化で民主的な決定でも優位を保てず、プロテスタント系ユニオニストということがほぼ唯一の社会的なアドバンテージであったひとたちをして、宗教的に保守化させ、さらに自治拡大への抵抗に向かわせているとみられます。キャメロン首相をはじめ、英国政府が北アイルランド自治政府・議会と足並みを揃え、暴力的な政治活動に反対し、これを批判していることも、彼らにしてみれば「裏切られた」と映るでしょう。この疎外感が、彼らをして、より暴力的な活動に向かわせる契機になっていると考えられます。

既存の秩序が大きく転換するなか、「支配する側」の末端に近いひとたちほど旧体制に執着する構図は、かつて南アフリカで、富裕な英国系より貧しいオランダ系ほど、非白人を合法的に差別するアパルトヘイト体制を支持したことに象徴されるように、時代や国を問わず、世界のどこででもみられるものです。南アフリカができたように、その対立と相互不信を乗り越えられるかどうか。近代議会制度の母国は、「どこまでが英国なのか」のアイデンティティをめぐって、かつてないほどの試練に立たされているといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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