おじいちゃんの手作りバッティングセンターで育った少年 20歳でBC信濃入りし奮闘中
今年1月、本欄で岩手県雫石町の「バッティングセンターを手作りした家族」を紹介した。
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そのファミリーの父親、アメリカ人のジョー・ハクセルさんが、「バッティングセンターは自分でも作れる」と決意したきっかけになったのが、秋田県仙北市の国道を運転中にたまたま目にしたバッティングセンターだった。
その施設は野球を始めた小学生の孫のために、おじいちゃんが自作したもの。その手作りバッティングセンターで育った小学生は、中学、高校と野球を続けた。そして社会人野球を経て、今年からルートインBCリーグの信濃グランセローズで新たな野球人生をスタートさせている。
田んぼの中の本格的手作りバッセン
歴史ある武家屋敷が並ぶ秋田県・角館駅の北東、国道46号線を走ると田園風景の中に突如、レストランの大きな看板とともに高い鉄骨と緑のネットが目に飛び込んでくる。バッティングセンターの前にあるレストラン「味彩」を営むのは佐々木光(こう)さん、朋子さん夫妻。BCリーグ・信濃の投手、佐々木駿さん(20)の両親だ。
店の仕事で忙しい両親に代わって、まだ幼かった駿さんの相手をしていたのがおじいちゃんの稔さんだった。稔さんは大の野球好き。50歳以上のメンバーで構成される「500歳野球」では捕手として鳴らしていた。
稔さんは孫の駿さんと自宅前でキャッチボールを楽しみ、駿さんが小学4年生になって本格的に野球を始めると、指導に一層熱が入った。「駿はバッティングが苦手だ。もっと練習させないと」。そう言ってレストランの前の土盛りしてあった場所を整地し、自らバッティングセンターを作り上げた。稔さんの長男の光さんが当時を振り返る。
「実は、父は以前も家の前にバッティングセンターを作ったことがあって、その時の機材をレストランの前に持ってきて作り始めました。鉄骨を組んで、コインを入れて機械が動く仕組みや、打ったボールが集まるように地面を斜めに舗装するのも、全部父がやっていました」
おじいちゃんの遺志を家族がつなぐ
おじいちゃんが孫のために作ったバッティングセンターは、駿さんが小学5年生だった2011年の秋にできあがった。しかし稔さんは翌年の春に病気で亡くなってしまう。71歳だった。
「駿はショックを受けていましたけど、急にではなく、病気でそうなるかもしれないとは前から話していたので、覚悟はしていたと思います」。駿さんの母・朋子さんは話す。
完成から1年足らずで主を失ったバッティングセンター。しかし、機械の手入れは光さんが、店番はおばあちゃんのミエ子さんが引き継いだ。
「父は鉄工所で働いていたので器用でしたけど、私は一から溶接を覚えて修理をするようになりました。バッティングセンターは商売じゃないですし、お金はかけられません。マシンにボールを入れるのは精米機のお米を持ちあげる機械を使っています。頭ぶつけないように気をつけてくださいね」
針金と雨どいを流用したレールが行き交うピッチングマシンの中で、光さんは高い背丈をかがめながらそう説明した。
駿さんはおじいちゃんが残したバッティングセンターでバットを振り続けた。その甲斐あって、中学生の時にエース投手兼4番打者に。進学した角館高校でもエースで4番を任された。
「試合で活躍すると駿は『おじいちゃんのおかげだ』と言っていましたね」と朋子さん。
「なんだ、オレでねえのか、じっちゃのおかげか?」と光さん。父母と駿さん、駿さんの姉の4人家族は笑いに包まれた。
BCリーグで踏み出した、夢への一歩
「おじいちゃんから、『プロ野球選手になって、1億円もらえ』って言われていました」
駿さんは今、おじいちゃんの夢であり、自身の目標でもあるNPB入りに向けて前に進もうとしている。ただひとつ、おじいちゃんの願いと違うのはバッティングを生かした野手ではなく、投手としてということだ。
「マシンが投げるボールを捕って、『ホームラン賞』に投げて当てる練習もしていたので、それでコントロールが身についたのかもしれないです」
自身の長所に制球力を挙げる駿さんは、そう言ってやさしく笑った。
駿さんは信濃ではチーム最年少。今年1年はリーグに慣れることが第一歩だったが、シーズン開幕が新型コロナウイルスの感染拡大の影響で当初の予定より約2ヶ月遅れたことで、自身の課題克服にじっくりと取り組む事ができた。
福地元春投手兼コーチ(元DeNA)は「コントロールを意識し過ぎてひじが下がっていたのが、ボールを叩けるようになって球速が前より上がってきました。持ち球のチェンジアップも生きてきています」と駿さんの成長を笑顔で話す。
そして昨季、チームを初の前後期優勝に導いた就任2年目の柳沢裕一監督(元巨人、オリックス、中日)は駿さんについて、「スピードはないけど、コントロールがいいという一芸に秀でています。ウチはいい先発投手がいるので、すぐに先発では使えないけどポテンシャルは高いです」と評価した。
想像より早く訪れた喜びの日
「駿はまだ球にスピードがないんで、今年はあまり試合には出られないんじゃないかと思っています」
そう話していた父の光さん。しかしその数日後、駿さんは6月27日の群馬ダイヤモンドペガサス戦に3番手として初登板し、1回を投げ打者4人に対し、1三振1四球で無失点に抑えた。
「緊張して2アウトまでどうやって抑えたのか覚えていません」と振り返った駿さん。その2日後の6月29日、福島レッドホープスとのダブルヘッダー1試合目にも2番手でマウンドに上がり、2回を3安打1四球、0点に抑えて、2度目の登板で初白星を手にした。
「特に気にしてはいなかったんですが、初勝利の日は母の誕生日だったので、いい誕生日プレゼントになりました」
駿さんは入団以来、顔を合わせていない秋田の家族に思いをはせた。
手作りバッセンが描くアーチ
「まだ、取材受けるほど投げてないやろ」
チームのクローザーとして役割を果たすBCリーグ6年目の高井ジュリアン投手(23)が、駿さんに声を掛けた。
「あ、(実家の)レストランのことか」と言って、笑みを浮かべてその場を離れた高井投手。高井投手の言葉通り、駿さんのBCリーグでの日々はまだ始まったばかり。選手として評価されるのはこれからだ。
ただ、駿さんの存在は決して小さくない。岩手でバッティングセンターを手作りしたジョー・ハクセルさんの妻・美穂子さんの言葉だ。
「東北の片田舎からだって、工夫次第で活躍の場へ上れるというのは、子どもたちにとっても大人たちにとっても嬉しい発見だと思います」
おじいちゃんが孫との夢をかなえるために、こしらえたバッティングセンター。おじいちゃんがこの世を去り、孫が故郷を離れても、そこには希望のアーチが田んぼの中に架かっている。