高校生の熱さが心に響く。準優勝の御所実業、24年目の重み。

51校が参加して開催された全国高校ラグビー大会で頂点に立ったのは、大阪の常翔学園だった。この校名となっては初優勝だが、大阪工大高時代から数えると5回目となる。野上友一監督は23年前に監督に就任し、一時期、監督から離れたが、2011年春に復帰しての優勝である。以前より、選手の自主性を重んじ、試合中は自由にプレーさせた。当然のごとく、小細工なしの超攻撃的スタイルは変えなかった。「攻めダルマ」の異名をとる同監督の面目躍如の王座返り咲きだった。

僕は常翔学園の真っ向勝負のラグビーが好きだ。決勝トライを奪ったWTB松井の泣き顔には心をわしづかみにされた。だが、常翔学園のことは、さまざまなメディアで大きく取り上げられる。ここでは御所実業に触れたい。準優勝ながら、決してあきらめずに守り続けたプレーぶりは観客の心を揺さぶった。高校生達のプレーを見ていると、今だけを生きていると感じる。雑念なく、目の前の選手をひたすらに追いかけている。社会人、大学に比して、その思いがより強いのだ。未来のある若者が今だけを生きている。それが高校ラグビーの魅力だと再認識する12日間だった。

一方で、多くの指導者は過去を背負って戦っていた。御所実業の竹田寛行監督も、その一人だ。大会中、ずっと気になっていたことがある。竹田監督が、試合中に背負っていたリュックのことだ。いったい何が入っているのか、なんのためなのか。決勝戦後、尋ねてみた。「これまで積み重ねてきた重みです」。リュックの底を持ち上げてみた。ずしりと重かった。5キロ以上はあるだろう。「重くしておかないと、積み重ねを感じられませんから」

竹田監督が御所工業高校(校名変更前)ラグビー部の監督に就任したのは、1989年のことだ。赴任当初の部員は、たった2人。生意気そうなやんちゃ坊主に声をかけ、校則違反で謹慎になった生徒は罰としてラグビー部の練習に参加させるなど、あの手この手で部員を勧誘し、なんとか17名を集める。そして、校内で秘密合宿。みんなで晩御飯を食べ、一緒に眠って結束を固めた。先生という存在を信じていなかった子供達が竹田を信じた。

翌年、グラウンドでの不慮の事故でその中の一人が亡くなった。ラグビー部は休部となり、竹田監督は責任をとって退職を決意する。それを許さなかったのは、みんなで頑張ろうと誓った生徒達だった。「先生はウソつきか!」。その言葉が胸につき刺さった。亡くなった北島弘元君の両親も、「息子のためにも、ラグビーをしてください」と言ってくれた。竹田監督は再び子供達とともに走り始めた。4年後、御所は奈良県の強豪・天理高校を初めて破る。こうして御所ラグビーは足跡を残してきた。この間、竹田監督は遠方の生徒は自宅で預かり、自分の息子4人を全員ラグビー部に入れて育てた。末っ子には、優勝を願って「祐将」と名付けた。祐将は昨年度のチームを主将として率い、ベスト4まで進出したが、父を優勝させることはできなかった。

常翔学園に敗れた試合後、竹田監督が円陣で何やら選手達に話している。最後は、竹井キャプテンの胸をポンと叩いた。「笑おうぜ」と言ったらしい。胸を張って帰ろう。天理に勝つために磨き続けたモールでトライをとった。昨年の準決勝で敗れた悔しさを胸に練習時間の7割を費やしたディフェンスは強固だった。「心をこめて最後までやってくれた。確信を持ってやったことは、来年につながります」。最終スコアは、17-14。たった3点差の惜敗だった。「日本一が手の届くところにあるのは確かです。うちにしかできないオリジナルのラグビー、全国からうちのグラウンドに勉強に来てくれるようなラグビーをやりたいです」。笑顔で語る言葉が胸にしみた。

3年生は卒業するが、一年分の重みを加えたシーズンがすぐに始まる。全国に竹田監督と同じように、積み重ねた歴史を背負って子供達と向き合う指導者がいる。彼らを突き動かすのも、今を生きる高校生達の姿なのだと思う。