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ムーンライダーズのギタリスト・白井良明インタビュー~芸歴45周年は新しい自分の夜明け

宗像明将音楽評論家
白井良明(提供:Sony Music Artists)

日本の現存最古のロックバンドのギタリスト

日本の現存最古のロックバンド・ムーンライダーズ。そのギタリストである白井良明が、プロ・デビュー45周年、ムーンライダーズ加入40周年を迎え、2018年2月12日に浅草公会堂で「白井良明 40th&45th 記念 ”良明Wアニヴァーサリー〆升” ~隅田川・打ち出でて見れば半世紀-5~」を開催する。

ムーンライダーズでの活動のほか、沢田研二をはじめとする膨大なプロデュース・ワーク、「20世紀少年」などの映画音楽制作、CM音楽制作など、休む間もなく45年を駆け抜けてきた白井良明。その華やかなキャリアからは意外に感じられるほど、最新アルバム「for instance」は内省的な面もあり、感触はムーンライダーズとも大きく異なる。

その「for instance」参加ミュージシャンをはじめ、ムーンライダーズ、斉藤哲夫、ガカンとリョウメイ、ARTPORT PROJECTと、彼のキャリアで重要なミュージシャンが出演するイベント「白井良明 40th&45th 記念 ”良明Wアニヴァーサリー〆升” ~隅田川・打ち出でて見れば半世紀-5~」の開催を機に、ギターに触れたきっかけから現在に至るまでを白井良明に聞いた。

これは生粋の江戸っ子が職人気質とともに音楽と向かいあい、さらに63歳となって「新しい自分の夜明け」を迎える壮大な物語だ。

白井良明(提供:Sony Music Artists)
白井良明(提供:Sony Music Artists)

800円のウクレレでザ・ベンチャーズのコピー

――プロ・デビュー45周年、ムーンライダーズ加入40周年のイベントが開催されますが、こんなにギターを弾き続けると自分で想像していましたか?

白井良明  してないね。ムーンライダーズが休止して(2011年に無期限活動休止、以降断続的に活動中)、初めてひとりになるので「どうしようかなぁ」ってときに、「ギターの伸びしろがすごくあるな」と自分で発見してから、紆余曲折ありますが最新アルバムに至ってますね。ギターに集中して良かったなと思います。

――ギターに初めて触れたのはいつでしょうか?

白井良明  小学校5年の時ですね。クリスマス会のパーティーがクラスであって、自分でギターを作ったんですよ。非常にいい加減なもので、板を切って付けて、釣り糸を張り、ザ・ベンチャーズを流してあてぶりをするという(笑)。浅草のヨーロー堂というレコード屋にザ・ベンチャーズのモズライトが35万円であったけど「これは無理」って(笑)。お年玉を貯めて、800円のウクレレを買ったの。当時牧伸二ぐらいだよね、ウクレレと言えば(笑)。それを弾きながらザ・ベンチャーズをコピーしてたんだよね。それが小学校6年とか。さすがに無理があるわけ(笑)。中学生になるとまたお年玉を貯めて、ヨーロー堂でナルダンっいうメーカーのピック・ギターを買うの。それは、かしまし娘みたいに分厚いんだけどピックアップが付いてないギターで、ザ・ベンチャーズをコピーしはじめた。まともなギターに触れたのは中学1年だね。

――中学生、高校生時代は何を弾いていたのでしょうか?

白井良明  中学1年のときはザ・ベンチャーズとビートルズ。いとこがクラシック・ギターを持っていて、親が「基礎からやれ」と言うんで、ガット・ギターも自分で買ったのかな? ピック・ギターとガット・ギターが2台ある環境になったの。ガット・ギターで「禁じられた遊び」とか「ともしび」とか「カチューシャ」とか弾いて、2つの刃でやってたんだよね。高校になると、2年のときにウッドストックがあって曲がりはじめるわけですよ(笑)。それまで勉強ができてギターが上手だった奴が、突然勉強しなくなってザ・バンド、CCR、ドアーズを演奏するバンドをやって、ハープを吹いたりね。かたや、音楽教室に通ってたから「アルハンブラの思い出」とか難しい曲も弾けるわけ。そうなると学校ではギターで有名になって、いろんなところに呼ばれたり、カセットテープに録音して友達に売りつけたりして(笑)、活動的で積極的だったかもしれない。

――その頃はオリジナル曲は作っていたのでしょうか?

白井良明  作ってたね。最初に作ったのは小学校5、6年の頃で、どうしようもない曲なんだけど(笑)。ウッドストックだ、日本のフォーク・シーンだ、岡林信康だ、遠藤賢司だ、加川良だって言ってる時代に、そういう曲を作ってた。高校3年になるとはっぴいえんどが出てくるわけ。それで友達の家に行くと、はっぴいえんどやマイルス・デイヴィスの「カインド・オブ・ブルー」を流して、サンタナとかも聴いてたね。渋谷のBYGに行ったり、フーテンのような感じでいたかもね。

斉藤哲夫のサポートでのプロ・デビューとジャズへの目覚め

――そこから立教大学に進学して、斉藤哲夫さんに出会うわけですね。18歳でプロ・デビューということは、大学に入ってすぐなのでは?

白井良明  すぐです、高校のときから決めてたの。立教大学にはOPUSという作詞作曲クラブがあって、プロの登竜門だと聞いたんだよね。それで立教大学に入ったら、はちみつぱいの渡辺勝さんや、ムーンライダーズの武川雅寛くん、岡田徹くんが在籍してて。岡田くんが斉藤哲夫と知り合いだったんで一緒に活動しはじめたんだけど、岡田くんがギターを弾かされて困っちゃって、「良明、ギターを弾いてくれないか」と言われて「楽しそうですね」って参加したんだよね。それが大学1年、18歳のときですね。

――斉藤哲夫さんはその頃はメジャーでしたっけ?

白井良明  まだインディーズのURCで、僕と岡田くんと哲夫さんの3人で1曲録音したんだけど、URCが潰れちゃったんだよね。その後に、哲夫はCBSソニーが決まるんだよね。その過渡期に僕がサポートしてた。

――斉藤哲夫さんとは、ライヴやレコーディングでがっつりやった感じなんですね。

白井良明  4、5年ですね。1回やめて、それで復活してますから。僕が途中からジャズをやりだすんですよ。夜中にラジオでチャーリー・クリスチャンが流れて「こういうのをやりたい」と思って。OPUSの反対の校舎にジャズ研究会があって、そこに入ってコピーをしはじめて、「哲ちゃんは一旦休止しよう」と(笑)。大学3、4年は鶯谷や元町のキャバレーで一生懸命ジャズをやって、新宿ピットインに出入りしたり、尚美学園(尚美ミュージックカレッジ)に行ってギターを教わったりしたんですよね。でも、大学を出たらお金を稼がないといけないじゃないですか? しょうがないから哲ちゃんに電話して「何か仕事ない?」って言ったら「今度俺、バンド作るんだよ」って話になって「やろうやろう! お金になれば最高だね」とか言って(笑)。「バイバイグッドバイサラバイ」(1973年)も出た後で、彼もポップになって、バンドを作っていろんな所に行きましたよ。野音(日比谷野音)で矢沢永吉の前座とかしたね、両方ともCBSソニーだったから。永ちゃんは大スターで、バックも高中(正義)さんとか高橋(幸宏)さんで。その前座で出てたんだけど、リーゼントのお兄ちゃんだらけで、哲ちゃんは拍手も何もなくてかわいそうだった(笑)。

ムーンライダーズに溶けこめたのは「青空のマリー」のとき

――そこからムーンライダーズに入ったのはどういうきっかけだったのでしょうか?

白井良明  先代のギターの椎名(和夫)さんが、バンドとやりたいことが違うことに、慶一くん(鈴木慶一)やくじらくん(武川雅寛)が気づいてて、岡田くんが新しいギタリストとして「良明はどうだろう」とアイデアを出してくれたみたいで、僕に電話してくれたんです。でも、昔はホットランディング(メトロファルスの前身)っていうムーンライダーズの弟的バンドがあって、そっちを手伝ってくれないかって言われて、どう考えても僕を試してて(笑)。「これはオーディションか?」と思って(笑)。それでホットランディングをやりだすわけ。当時、ホットランディングは必ずムーンライダーズの前座で、ロフトとかにも出ててね。半年ぐらい後かな、椎名さんが正式にムーンライダーズを辞めることになったんで相談されて、「やっぱりきたか」と思ってすんなり入った感じですね。

――メンバーとして、白井良明さんはムーンライダーズのサニー・サイドを担当している部分がすごく大きかったですよね。

白井良明  名前が「良くて明るい」だからね(笑)。「白くて良くて明るい」だからピカピカなんだよね(笑)。

――バンドでのポジションは意識していましたか?

白井良明  素のままだったかもしれないね。ステージでものまねとかやって、シーンとして落ちこんだこともあったけどね(笑)。

――ムーンライダーズの活動の中でスタンスが変わっていく部分はありましたか?

白井良明  ありましたね。すごくミーティングを重ねていくバンドだったから、そこにはすごく頭を使ったし、勉強したな。バンドの運営とか、考え方とか、アルバムのコンセプト作りとか、すごく話をしてたときだったんで、「こんなことやるんだ?」と入った頃は口も出せなかったんですけど、徐々にやり方がわかってきて溶けこんでいったんです。だけど、最初の頃はバンドのメンバーでありながら、バンドの中身を外から見てたところはあると思いますね。

――その中身に入りきったと思ったのはいつですか?

白井良明  「良明の曲をやろうよ」って言われたときかな。とにかくオーディションで全部決めるんですよ、アルバムが10曲だとしたら、1人10曲作って、60曲ぐらい集めて。僕は作曲をちゃんとやったことがなかったから、曲は出したんだけど「なかなかいい曲にならないな」と自分でわかってたし。「これいいね、やろう」ってメンバーから言われたときに「嬉しいなぁ」と思って、同時に「溶けこめたかなぁ」という感じがしましたね。

――その曲は何でしょうか?

白井良明  「青空のマリー」ですね。

――「青空百景」(1982年)の収録曲ですね。それまでのクラウン時代(1980年まで)はちょっと引いた感じだったのでしょうか?

白井良明  作曲に関してはみんなよりすごく劣っていたからね。ただ、ギター・プレイに関しては、ジャズもやっててかなりメンバーよりもうまかったんで(笑)。サウンド・メイクに関してはすごく貢献していたけれどね。

――「DON'T TRUST OVER THIRTY」(1986年)から「最後の晩餐」(1991年)までの5年のムーンライダーズの休止はどう受けとめていましたか?

白井良明  そもそも何で休止したのか覚えてないんですよね。なんでなんだろうなぁ……。1982年からプロデューサーとして激忙になるんですよ。90年なんて激忙の時期で、一年中忙しかった時期なんです。だからムーンライダーズのことを考えてなかったですね。なぜ休止したのかわからないぐらい忙しくて、わからないまま5年ぐらいやってて、そのスタジオに慶一が突然来て「時間取れない?」「じゃあ30分だけ」って喫茶店に行ったら、「ムーンライダーズをやろうと思うんだけど、どう思う?」って言われて。「みんなどう思ってるの?」って聞いたら「それを聞くためにひとりひとりを戸別訪問してるんだ」って慶一が言うわけ(笑)。「バンドの匂いが変わるんだったらいい」って言ったのよ。結局70年代後半から80年代の真ん中ぐらいまではテクノポップの時代だったよね。そういうので頭打ちになったというか、つまんなかったのは事実なんだよね。だから「ギター・バンドになるならいいよ」って言って、それで「最後の晩餐」でギターが炸裂するんです。

――「最後の晩餐」では、白井良明さんが作詞作曲した「Come sta,Tokyo」も好きなのですが、ギターが前に出たサウンドも意図的なものだったわけですね。

白井良明  そうですね。ギターがあんまり使われてなかったというか、僕もテクノ・バンドとしてやってたところがあるから、素直なギター・ロックをやりたいと言って、そう進んだところはあるよね。

――でも、次の「A.O.R」(1992年)になるとテクノ色が出てきますが……?

白井良明  複雑だよね(笑)。「またテクノやろうよ」と話して。「最後の晩餐」は僕が強いことを言ったから、そう動いてくれたところもあるんだろうね。僕もあの頃は若かったしね、バンドだからしょうがないんだけどね。

――あの5年の休止の段階では、ギターに向かわなかったのはなぜでしょうか?

白井良明  でも、the pillowsとかプロデュースしてると「やっぱりギターだよな」と、プロデュース作品でもギターを出すようになるんですよね。ジャニーズの仕事でもギターをガンガンに前に出したり。得意な分野を前面に出そうというプロデュースの仕方です。

――21世紀に入ってのムーンライダーズは、ギターが前に出てきましたよね。

白井良明  慶一もギターを弾くようになって、ツイン・ギター・バンドみたいなノリが出てきた。グレイトフル・デッドみたいな感じで。オールマン・ブラザーズ・バンドみたいにはいかないんだけどね(笑)。

ムーンライダーズの無期限活動休止と自分への問い

――ムーンライダーズは2011年に無期限活動休止となるわけですが、無期限活動休止が決まったときはどういう気持ちになりましたか?

白井良明  あのときはね、とにかくみんな煮詰まってたと思うんだよね。いや、若いと煮詰まるんだけど、60歳ぐらいの人たちになると「何やってもあんまり変わらない」みたいな。煮詰まりとも言えるけど、熱いものではなくて。新しいものが湧くまで休んだほうがいいんではないかという雰囲気になりましたね。「面白くはないけど、解散するほどではない!」みたいな話もあった(笑)。「これはちょっと休憩したほうがいいだろう」というところでしょうね。だったらみんな自分のことをやったほうがいいし。僕が前回の休止のときにしたことはプロデュース業だったんですよ。でも、今回休止したときは「プロデュース業をずっとやってていいのか、人を幸せにして自分が去っていくことをやるのか、自分はどうなんだ?」という問いがあったんで「何もできなくても自分のことをやるんだ」という気持ちが強くなっていて。休止して「自分の伸びしろはどこにあるんだろう?」と考えたときに、ギターにあると発見して、もう一回ギターをしっかりやりだしたのが2011年以降なんでしょうね。

――「自分はどうするんだ」という問いは、2011年の活動休止以前から抱えていたんですね。

白井良明  抱えてました、プロデュースを始めた81年とか82年とかから。でも、最初の頃は30歳前後だし、体力もあったし、音楽自体も面白かったから。アレンジが面白かったから、現場ではものすごく煮詰めて、「1日25時間スタジオに入る男」と言われたりしてね(笑)。でも、しばらくしてから「これでいいのかな?」と思いだしたんですよね。プロデューサーの友達に聞いても同じことを言うし。

――2016年の新宿ロフト2DAYS(10月9日、10日)では、鈴木慶一さんと白井良明さんがフロントに出ている感じが強かったのですが、意識的でしたか?

白井良明  意識はしてないですね。ただ。実際にフロントにいるわけで、やるとノっちゃうじゃないですか(笑)。

――今、白井良明さんにとってムーンライダーズとはどのようなものでしょうか?

白井良明  健康第一。かしぶちくん(かしぶち哲郎。2013年に死去)のことでつらい思いをしてるし、くじらくんも体を壊したし、みんな歳だから成人病とか抱えてるし。そういうことを無視して、無理してやるのは良くないなと思ってますね。2016年のツアー(『Moonriders Outro Clubbing Tour』)では新曲はなかったんです。すでにある曲をみんなで楽しく演奏して、楽屋も子供みたいで、すごく楽しかったんですよ。バンドの原点的というか。セールを意識しなきゃいけないプロモーション・ツアーとか、難しい新曲を覚えなきゃいけないとかいう呪縛から逃れたツアーだったんです。そういうことをこれからずっとやっていければいいなと思いますね。無理に新曲を作る必要もないし、無理に難しいツアーをする必要もないと思ってますね。どこまでやれるかわからないけれど、ムーンライダーズっていうバンドはゆるやかな時期に入ってきていると思うんですね。人生もそうですけど、最初は元気で、だんだん力が落ちてきて、最後は水になるみたいな。今ゆるやかなグラデーションのところに僕たちはいるのかなと思いますね。だから健康第一のロック(笑)。健康にはみんな留意してほしいですね(笑)。

プロデュース活動とバンド志向

――1980年代は、プロデュース以外に、映画音楽やCM音楽もやっていくわけですよね。その中でプロデュース作品で自信作はあるでしょうか? 個人的には松尾清憲さんの「SIDE EFFECTS-恋の副作用-」(1985年)が思い出深いです。

白井良明  もちろん松尾くんは自信作ですね。あと、沢田研二の「MIS CAST」(1982年)は自信作ですね。80年代はいっぱいあるんですけど、印象に残っているのはZELDAの2枚(1983年の『CARNAVAL』、1985年の『空色帽子の日』)とか。90年代に入るとプロデュースの仕方が変わってきて、プリプロがはやって、事前に作ってもう一回やり直すようになって、作りが丁寧になる時代なんですね。80年代はデモテープもなくて、僕のイメージで作って「いいね」って言われてて。だからある意味で80年代の作品は尖っていて印象度が強いですね。

――その尖っていたところがヒットチャートに食いこんだ要因でしょうか?

白井良明  それはありましたね、勢いが音に出ましたからね。たとえばマッチ(近藤真彦)の「アンダルシアに憧れて」(1989年)とかよく覚えてますね。90年代に入ると、音楽的にアレンジ的に成功しているものもあるんですよ。たとえば和田加奈子さんとか和久井映見さんとか、ギルバート・オサリバンなアレンジで成功していてね。京平先生(筒美京平)とやった櫻田宗久さんもすごく完成度が高かったですね。とにかく千曲以上はアレンジしてるし、この間JASRACの登録を見たら534曲も作ってるんですよ。何もかも覚えてない曲もあって(笑)。毎回真面目にやってるんですけど、自分がいいと思ったから売れるわけでもないし、アレンジがうまくいったと思ったから売れるわけでもない。

――白井良明さんのプロジェクトは多いのですが、完全なソロ名義のアルバムは、「CITY OF LOVE」(1988年)、「カオスでいこう!」(1992年)、「PORTRAIT OF A LEGEND 1972~2012」(2012年)、「face to guitars」(2014年)、そして今回の「for instance」(2017年)だけですよね。リミックス盤を抜くと45年で5枚しかない。

白井良明  少ないよね(笑)。プロデュースが忙しいというのもあったんですけど、バンドが好きっていうのがあるんですよ。SURF TRIPとか。ジャズのセッションとかずっとやってたよね。でも、プロデュースをしている頃から「お前はどうなんだ?」っていう問いかけがずっとあって、チャンスがあるごとにソロも出そうとしてます。

――たしかにアートポート(白井良明、かしぶち哲郎、鈴木博文によるユニット)だったり、SURF TRIPだったり、ガカンとリョウメイ(白井良明、武川雅寛によるユニット)だったり、バンド志向ですよね。

白井良明  ヴォーカリストがほかにいて、僕がギターを弾いて……っていうのが気持ち的に収まりがいいんだよね。

――自分がメインに行こうという発想はそんなにないのでしょうか?

白井良明  そうかもしれない。ギタリストとしてはメインに行こうとはするんだろうけど、歌がうまいと思ってるわけじゃないし。「エリック・クラプトンぐらい歌えればいいや」というところにいますね、僕は。

――2016年からはARTPORT PROJECTが始まりましたが、ステージに立つときはアートポートとは感覚が違いますか?

白井良明  アートポートはかしぶちくんがいて成りたっていたバンドなんですよ。でも、ARTPORT PROJECTはバンドじゃなくてプロジェクトで、その都度コンセプトを変える。ドラムが来てもいいし、サックスが来てもいいし、映像の人が来てもいいし。活動の選択肢を広げる意味で、不定期にやっていこうというプロジェクトなんです。

――2013年にはガカンとリョウメイのセカンド・アルバム「effects of time」がリリースされましたが、白井良明さんがムーンライダーズの楽曲をセルフ・カヴァーするようになったのはガカンとリョウメイからですよね?

白井良明  ガカンとリョウメイは、そもそもムーンライダーズ30周年を盛りあげるために、ムーンライダーズ内のユニットを作って、それをムーンライダーズのカヴァー・ユニットとするために始めたんです。だからムーンライダーズの曲がメイン。母体のムーンライダーズに対する衛星ユニットとして、野音(2006年4月30日『Vintage Moon Festival』)で結実することにしてたんだけど、ユニットがまだ残っているから、もったいないからずっとやろうと。そのうち「オリジナルが必要だよね」となって、スタジオ・アルバムを作ったりするようになったんですよね。

新しいミュージシャンと出会いたかった

――そして最新作の「for instance」ですが、これだけ若いミュージシャンを投入したのはなぜでしょうか? いわゆるムーンライダーズ人脈ではないですよね。

白井良明  まずムーンライダーズが休止するじゃないですか。「for instance」まで到達するのに5、6年かかってるんですけど、それは新しいミュージシャンと出会いたかったからなんです。アルティメット・セッションっていって、初めて会う人が音を出しあってステージを作っていく趣旨のセッションがあるんです。そこに自分をあえて投じることでいろんな人に出会って、そういう人たちと音を出す中で意気投合したところがあって、交流が深まっていった。「たとえばリズムはこんな感じで」とか言うけど、「たとえば」を英語で言うと「for instance」なんです。だからfor instanceというユニットを作り、アルバムのタイトルも「for instance」にしたんです。

白井良明「for instance」(提供:Sony Music Artists)
白井良明「for instance」(提供:Sony Music Artists)

――「for instance」では、「Of 8 Minutes 7」のミニマルなリズムからギターが自由に飛びだしていく展開が新鮮ですね。白井良明さんがこういうことをツイン・ドラムでやりたかったんだ、というのも新鮮でした。

白井良明  それをわかってくれるのはすごくありがたいですね。やはりムーンライダーズを休止したっていうのが大きかったんですよ、バンドを大切にしていた僕がね。休止後にソロで3枚出したんですけど、やっとここでやりたいことが結実したかなと思っていて。具体的にはギターのリフも記号っぽい。しかも手弾きの記号っぽいフレーズなんですよね。レッド・ツェッペリンにしても、ギター・リフが時代を作ってきたじゃないですか? 今はギター・リフかな、という作りをしてます。ダビングもそんなにしてなくて、そのまま生でできます。ライヴはもっと熱いですからね。toeの柏倉(隆史)さん、曽我部恵一BANDのオータ(コージ)さん、Sawagiの雲丹亀(卓人)さんが参加してくれて。雲丹亀くんのパワー、柏倉くんのポストロック感覚、そして僕は「日本のキース・ムーン」と呼んでるんだけど、オータさんの気持ちのいいお祭り感覚で成りたってますよね。曲も「インスタント・コンポーズ」って呼んでるんですけど、その場で曲を作る。「Of 8 Minutes 7」も「き・つ・ね」もそうなんです。

――「Helsinki take3」や「き・つ・ね」はジャズの匂いがするなと感じました。ムーンライダーズとも、これまでの白井良明さんのソロとも違いますよね。

白井良明  全然関係ないでしょ?(笑) 一貫して自分にとっての新しい方法を探る中で3、4年かかってるわけ。曲も3年かかってるんですよ。普通の歌ならバーンと作るんですけど、インストってアレンジも同時に作っていかないと成りたたないんですね。メロディーにドラムやコードをつけたら成りたっていくわけではなくて、楽曲の構成自体が新しくないといけない。歌曲のようにAメロ、Bメロ、Cメロがあるわけじゃないんですよ。慣例のない組みたて方式なんです、特に僕が最近やってるようなインストルメンタルは。すごく神経も使ったし、曲もできるのが遅くて。ただ、そのぶん曲としての充実感はあると思います。「Helsinki take3」も1人でループを作ったり、演奏したりを4、5年繰り返した中でできてきたものですね。

――今回驚いたのは、「intonation 2」や「tremolo my life」、「Y・G 45th」は、ギター、ベース、プログラミングなど、すべて白井良明さんひとりによる演奏なんですよね。とてもひとりだとは思えませんでした。

白井良明  ずっとプロデュースしてたから、ドラムのキックは何拍目が大きくなるかとわかるので、ベロシティのある打ちこみをして、ベースも自分で弾いて、ギターも2台入れちゃったりしたからほとんど生。物理的にかかる時間っていうのはそんなにないね。曲や構成やメロディーを考えるのは何年もかかったけど、実際に作るのは2、3日あればできちゃう。

――ソロ・アルバムでムーンライダーズをセルフ・カヴァーしているのは「for instance」が初めてですね(※実際は『face to guitars』収録の『backseat』が初めて。お詫びして訂正いたします)。ちなみに「M・H・T・U」はムーンライダーズのどの作品に収録されているのでしょうか……?

白井良明  「Tokyo7」(2009年)の「むすんでひらいて手を打とう」の副題。副題だけにして曲名を変えるとヒップホップっぽいじゃない? それだけなんだけどね(笑)。

――雰囲気が全然違いますね。あとは「トンピクレンっ子」と「静岡」がムーンライダーズの楽曲で、白井良明さんの代表作ですね。21世紀に入ってから(2001年の『Dire morons TRIBUNE』)、白井良明さんが「静岡」のような素晴らしい歌モノを書いていたのは衝撃的でした。

白井良明  今回は45周年の感謝の気持ちもあって、「静岡」なんて2016年にツアーしたときのライヴの模様をそのままコピーしたようなものなんだよね。お客さんの笑い声とか手拍子とか入れて、聴いた人がニヤッとできるようなものにしたかったんですよ。

――セルフ・カヴァーの選曲は悩みませんでしたか?

白井良明  印象度の高いものからだね。「トンピクレンっ子」は原曲は普通のギター・ロックだから、ちょっと笑ってもらえるように変えました。

――かなり変貌していますよね。

白井良明  そのほうが楽しいでしょ、コアなファンの方には(笑)。

――アルバム全体として落ち着いたモードなのは、今の白井良明さんのモードなのでしょうか?

白井良明  でも、「Of 8 Minutes 7」も「き・つ・ね」も熱いものがあるじゃないですか。緩急はありつつ、判断基準が年相応に落ち着いてるところはあるかもね。「これで行くわ!!」じゃなくて「これで行くわ。」みたいなところはあるかもしれないですね。そういう判断も柔らかくて早くて。

――「君と会った翌日は ver.2」のような内省的なギター・プレイも、ムーンライダーズで弾きまくる白井良明さんしか知らない人には意外かもしれませんね。

白井良明  ムーンライダーズのファンの人は楽しいと思いますね。「君と会った翌日は ver.2」は、要はザ・ドゥルッティ・コラムとか、チェリーレッド・レコードとか、ラフ・トレード・レコードとか、アートポートをやっていた頃の遺伝子が思いだされた感じかな。要は、シンプルな中で叙情性を出していくっていう。僕は極めて律儀に弾いてるんだけど、Yasei Collectiveの松下(マサナオ)くんのドラムがすごいよね、全編アドリブみたいで(笑)。Yasei Collectiveも好きだし、toeも好きだし、一緒にやってる人たちのバンドが好き。「き・つ・ね」のドラムはdownyの秋山(タカヒコ)くんだし、すごい人が来てくれてるんですよね。僕がセッションをやるようになってから、「良明さん、そういうのやってくれるんだ?」って気づいてくれて「私も参加する」っていう人が何人かいて、積極的にお互いやりあってる状況になってますね。

――「トンピクレンっ子」はテンテンコさんが参加していますが、彼女の声は特徴的だから映えますね。

白井良明  なんでテンテンコさん、気軽にやってくれたんだろう(笑)。楽しかったですね。「トンピクレンっ子」はイメージを外すという目的があったんで、変なことやってね。

――このアルバムでは「静岡」しか歌詞がないんですよね。歌モノを1曲にしたのは理由があったのでしょうか?

白井良明  深い理由はないね。ギター・ミュージックが自分の中でプライオリティが高くて、インストを揃えてるうちに残りの枠数がなくなって「歌モノは1、2曲でいいかな」って思ってね。今回はギターの伸びしろを可能性として発見して、メインとしてやっていくんだという気持ちがすごくあったので、その結果ですね。

――今回はギターに振り切った、と。

白井良明  「face to guitars」でも振り切りつつあったんですけど、今回それが結実したということだと思います。

――歴史を踏まえての現在が出ていますよね、意外性も含めて。意外性はご自身としてはあまり意識してないのでしょうか?

白井良明  あんまり意識してないですね。ただ、「笑ってもらおうかな」とか「自分にとって新しいものをやろうかな」っていう気持ちは詰まってますけど。

余韻でやってはいけない

――最終的には「for instance」が、2月11日の浅草公会堂につながっていくわけですね。ムーンライダーズ、斉藤哲夫、ガカンとリョウメイ、ARTPORT PROJECT、for instanceと、このインタビューに出てきた人たちがまとめ出てくるわけですが、どんなライヴになると思いますか?

白井良明  for instanceは僕の新スタートなので、しっかり聴いて楽しんでいただきたいですね。レコーディングした人たちの顔が実際に見えますから、それを楽しみにしていただいて、しっかり演奏したいです。あと、ストイックな人選で、アートポートもガカンとリョウメイもムーンライダーズ内ユニットなんですよ。普通45周年なら、いろんな人を呼ぶじゃないですか? 40周年のときに、ROLLYさんやNOKKO、ポカスカジャンや森若(香織)ちゃんとかに出てもらってワーッとやったんで、そういうのはもういいんです。45周年は新しい自分の夜明けということで、新しい活動を中心としたものと母体に限ったんですね。

――60歳を過ぎて「自分の新しい夜明け」と言える人はなかなかいないですよね。

白井良明  なかなかいないよね(笑)。「余韻でやってはいけないな」と思うんですよ。「まだできる、まだ伸びしろがある」って、自分で自分をしぼりとるみたいな(笑)。年金がでるまではね(笑)。ここまで築いてきた人なら、過去の売れた曲とか過去のエポックになった曲をライヴでやるのも絶対アリだと思うし、近藤等則さんみたいに常に孤高で自分を追求している方もいると思うし、いろんなやり方があってどれも最高だと思うんです。だけど、僕はまだ「余韻」ではやらないようにしていて、まだ思いつく限りやっていこうとしています。

――その心意気はどこから出てくるのでしょうか?

白井良明  酒かな?(笑) あと、友達と遊んだり、趣味でいろいろやったりしてると、自分のやりたいことが純粋になってきますね。雑味が取れるというか。

――浅草公会堂では完全に雑味が取れた白井良明さんを見られるわけですね。

白井良明  当日は超忙しいと思う、全部出るんで。みなさんの体力とかもあるから、その辺も考えなきゃいけないと思ってるんですけどね。この年齢は、当日はいいんだけど、翌日とか翌々日に動けなくなっちゃったり(笑)。命に影響すると大変なことになっちゃうからね。

――白井良明さんは以前から「65歳を過ぎてから本当に好きなことをやる」と発言されていましたけれど、どんなことですかね?

白井良明  もしかしたら音楽じゃないかもしれないし、ワイン作りかもしれない、私財を投入してね。それはまだわからないですね。だって、音楽が本当にやりたいことかどうかなんていまだにわからないし、本能でやってるようなところがあるからね。本当に自分がやりたいことは難しいよね、わかんないかもしれない。

――白井良明さんでもわからなくなるときがあるんですか? ムーンライダーズをやったり、ヒットチャートに曲を入れたりしても?

白井良明  わからなくなるときはありますよね。親父が蒔絵の職人で、僕も職人気質なところがあるから。「20世紀少年」(映画シリーズの音楽を担当)なんかは、5億円を投入して15億円を儲けるような仕事じゃないですか。そこに僕が変な音楽を作って売れなかったら最悪じゃないですか? そういうときに完成した音楽をはめようとする職人気質なところがすごくあるから。

――そういう職人気質のルーツが浅草であるわけですね。

白井良明  そうそう、だから浅草公会堂が取れて良かったんですよ。浅草公会堂でやるべきだと、みんなが気づかせてくれたし、そこがたまたま取れた。ここで見るの、歌舞伎でしょ?(笑) 当日はかなり面白いことになると思うので、ぜひいらしてもらいたいと思います。

(提供:Sony Music Artists)
(提供:Sony Music Artists)
音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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