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本田圭佑らと「W杯優勝」を本気で目指したFW李忠成が日本代表にいま伝えたいこと

元川悦子スポーツジャーナリスト
本気で世界一を目指した10年前の李忠成(写真:AFP/アフロ)

 98年フランスワールドカップ(W杯)初出場から23年。日本代表にはさまざまな浮き沈みがあったが、最も急激な成長曲線を辿ったのが、アルベルト・ザッケローニ監督就任直後ではないか。新体制初陣となった2010年10月にリオネル・メッシ(バルセロナ)擁するアルゼンチンを下し、勢いに乗って2011年1月のアジアカップ(カタール)を制覇した頃の迫力は今、振り返っても凄まじいものがあった。当時の生き証人の1人である李忠成(京都)が10年前を振り返った。

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ザック監督の目に留まったアグレッシブな点取屋

 ザック監督は2010年南アフリカW杯で軸を担った中澤佑二や田中マルクス闘莉王らベテラン勢を外し、本田圭佑や香川真司ら20代前半の若手中心のチームに切り替えた。吉田麻也(サンプドリア)もこの大会が事実上の代表デビュー。長谷部誠(フランクフルト)も南アW杯ではキャプテンの代役という位置づけだったが、ザックジャパン発足後は本物の主将としてチームを統率するようになった。

 フレッシュな集団に新たに参戦した1人が李忠成だった。2008年北京五輪代表を率いた反町康治監督(日本サッカー協会技術委員長)がFW不足解消のため、彼に日本国籍取得を打診。それに応じて日本人となり、当時所属のサンフレッチェ広島でゴールラッシュを見せた結果、ザックの目に留まったのだ。南アW杯で岡田武史監督(FC今治代表)は本田を1トップに抜擢したが、イタリア人指揮官は本田をトップ下に配置。新たな1トップとして彼と前田遼一を併用する道を模索したのである。

「12月の国内組合宿でアピールしてメンバー入りしたんですが、ケガをした森本(貴幸)の代役という意味もあった。だから『結果を残さなきゃ、次は森本が呼ばれて、もう自分にはチャンスが回ってこない』という危機感が強かった。是が非でも点を取って、結果を残して、先につなげたいという思いでカタールに行きました。

 もう1つの目標は海外移籍。そのためには国際舞台でスカウトの目に留まらなきゃいけない。それは圭佑や佑都(長友=マルセイユ)も同じ意識でした。あの時、(香川)真司がドルトムントで大活躍してて、真司を見るためにいろんなチームのスタッフが来ていることをみんな知ってましたからね。実際、佑都は大会後にチェゼーナからインテルへ引き抜かれたし、オカ(岡崎慎司)もシュツットガルトへ行った。個人個人のアピールの意欲はすごかったと思います」

「自分をアピールしてやる」と意気込んだ結果の決勝ゴールだった(写真:ロイター/アフロ)
「自分をアピールしてやる」と意気込んだ結果の決勝ゴールだった(写真:ロイター/アフロ)

「ギラギラ感」を前面に押し出した選手たち

 北京五輪世代は「俺が俺が」というタイプが多かったが、2011年1月頃は特にギラギラしている印象が強かった。南アW杯で8強まであと一歩と迫りながら、パラグアイにPK戦で敗れてたどり着けなかった悔しさも「高いところへ行きたい」という原動力になったのだろう。

「『もっと上を見たい』というのが、全員の共通認識でした。W杯で優勝するために何をすべきかをみんなが真剣に考えていたし、ホントに視座が高かった。『俺たちは世界一になれる』って信じてたんです」

 こう語気を強める李だが、チームは順風満帆とは程遠いスタートを切ることになる。初戦・ヨルダン戦で前半のうちに失点。0-1で折り返した後半、李は前田に代わってピッチに送り出されるが、ゴールを奪えないままロスタイムへ突入する。まさかの黒星発進かと思われたその瞬間、左ショートコーナーから吉田麻也の劇的同点弾が生まれ、引き分けに持ち込んだ。

「初戦で呼ばれた時は、とにかく自分の武器を出そうと考えてました。遼一さんにない強みは何かを考え、裏に抜ける動きを意識したんです。自分はゴールできなかったけど、チームが負けなかったのが一番大きかった。国際大会って初戦に勝つと80%くらいの確率で突破できますからね。北京五輪で初戦負けて、その重要性は嫌というほど痛感していたから『1-1で全然OK』って感じでした」

北京五輪時代からの盟友・本田圭佑からは大きな刺激を受けた(写真:ロイター/アフロ)
北京五輪時代からの盟友・本田圭佑からは大きな刺激を受けた(写真:ロイター/アフロ)

初戦以降、出番がない中でも自信をみなぎらせていたジョーカー

 李が言うように、選手たちはポジティブに捉えていたが、その後も苦戦は続いた。シリア戦では川島永嗣(ストラスブール)の退場、松井大輔(サイゴンFC)の負傷というアクシデントが起きたし、サウジアラビア戦もケガの本田の代役でトップ下に入った柏木陽介(浦和)が重圧に苦しむ結果となった。それでも日本は2連勝してグループを1位通過。ノックアウトステージに進出した。

 その一発目の準々決勝・カタール戦は壮絶な試合だった。吉田麻也が退場し、2度のリードを許しながら、香川真司の大活躍と伏兵・伊野波雅彦(横浜FC)の決勝弾によって3-2で勝利。準決勝・韓国戦に駒を進めた。この試合もPKの末に勝ち切ったが、それと引き換えに香川が右足第5中足骨骨折でチームを離れるという危機に瀕した。そして1月29日の決勝・オーストラリア戦を迎えたが、李は初戦以降、一度も出番を得られないまま、ラストまで来てしまった。

「ずっと出番なしだったけど、『調子マジでいい、俺』って思ってました。練習中も『出たら絶対活躍する』『すげえ調子が上がってる』と。練習で3対3とか4対4とかを沢山やりましたけど、その時にいいアピールができていましたからね。マインドが真上を向いている状態だったんです」

「マインドが真上を向いていた」と述懐する李忠成(写真:ロイター/アフロ)
「マインドが真上を向いていた」と述懐する李忠成(写真:ロイター/アフロ)

血気盛んな面々が作り出した躍動感ある雰囲気

 全員がプラス思考で取り組んでいたから、カタール戦の伊野波、韓国戦の細貝萌(バンコク・ユナイテッド)と岩政大樹(上武大監督)、決勝の藤本淳吾(相模原)のように控え組が面白いように活躍したのだろう。そもそも岡崎もヨルダン戦時点では松井のサブだった。松井のケガで右MFの先発に抜擢され、サウジアラビア戦でハットトリックを達成して定位置をつかんだのだ。前向きな競争が繰り広げられ、結果を残していったから、同大会のザックジャパンは急成長した。血気盛んな面々が作り出した躍動感あふれる空気感を、今の森保一監督率いる日本代表の面々にもぜひ知ってほしいものである。

 李自身はご存じの通り、その筆頭だ。決勝戦で挙げた劇的ボレー弾は日本代表の歴史に残る偉業だと言っても過言ではない。

「その後、浦和レッズではルヴァンカップとか天皇杯とかアジアチャンピオンズリーグ(ACL)とかでも優勝して、金の紙吹雪の中、トロフィーを掲げましたけど、アジアカップで見たものは人生で一番美しい光景だった。あれをもう1回味わいたいと思ったのが、サッカー選手として成長するきっかけになったと思う。大舞台の優勝って、ホント人生変わるんで、1人でも多くの人に経験してほしいと強く思います」

あの時のような迫力と勢いを森保ジャパンも感じさせてほしい(写真:アフロ)
あの時のような迫力と勢いを森保ジャパンも感じさせてほしい(写真:アフロ)

世界に通じるストライカーを輩出するために

 ただ、日本代表のフォワードに関しては、あれから10年が経過しても世界トップクラスにたどり着いた選手はいない。大迫勇也(ブレーメン)にしても今季はドイツ・ブンデスリーガ1部で思うように出番を得られず苦しんでいる。南野拓実(リバプール)も出たりでなかったり。誰かが壁を超えなければ、10年前のアジアカップ優勝メンバーが本気で目指した「W杯優勝」は果たせないだろう。

「ガンバ大阪がストライカー専門のコーチをつけるというニュースを昨年末に聞きましたけど。スペシャルな指導者をつければ選手は伸びると思うんですね。やっぱりゴールキーパーとストライカーは特別だから。フォワードに関して言えば、やっぱり動き方が独特なんです。今はみんな下がってボールを受けちゃうけど、本来のフォワードは前で張って、動き出しで勝負する。慎三(興梠=浦和)とも『本当のフォワードってもういなくなったよね』とよく話しました。だからこそ、ベーシックなところから教える必要があると思います」

 彼が言うような基本技術・戦術の徹底は確かに大切だが、自分から貪欲にそれを求めてくる姿勢も不可欠だ。今はベテランに食らいついてくるような若い世代が少ないと言われるだけに、いかにしてメンタリティを変えるのかというのも課題。かつて若手だった本田圭佑が中村俊輔(横浜FC)に「FKを蹴らせてくれ」と要求したくらいのふてぶてしさを持った人間が数多く出てきて、10年前のアジアカップの時のようにバチバチとぶつかり合うような日本代表をぜひまた見たい。「日本代表に入って悔しい思いをしたら誰でも成長する」と言い切る李には、伝道師の1人として自らの経験を伝えていってほしいものである。

2021年シーズンの彼は何を見せてくれるだろうか。(写真提供:KYOTO.P.S.)
2021年シーズンの彼は何を見せてくれるだろうか。(写真提供:KYOTO.P.S.)

■李忠成(り・ただなり)

1985年12月19日生まれ。東京都出身。2004年にFC東京U-18からトップチーム昇格を果たす。その後は柏レイソル、サンフレッチェ広島でプレー。2012年からイングランドのサウサンプトンに移籍。帰国後の2014年からは浦和レッズ、横浜F・マリノスと渡り歩き、2020年から京都サンガに所属。日本代表では2008年に北京オリンピック出場。2011年のアジアカップ決勝・豪州戦では劇的な決勝ゴールを決めて、日本をアジア王者に導いた。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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