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元日本代表FW前田遼一、引退決断までの20日間――指導者転身を決めた本当の理由

元川悦子スポーツジャーナリスト
2020年の岐阜を最後にピッチを去った前田遼一(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 2009・2010年のJリーグ得点王に輝き、J1通算154ゴールという歴代5位の偉大な成績を残し、シーズン初得点を奪った対戦相手がJ2に降格する「デスゴール」でも名をはせた元日本代表・前田遼一が14日に現役引退を発表した。2020年12月20日にJ3・FC岐阜のリーグ最終戦・ガンバ大阪U-23戦を迎える直前に「(引退は)まだ踏ん切りがつかない」と偽らざる本音を語ってから3週間。彼はいかにして21年のキャリアに終止符を打つ決断を下したのか……。

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契約満了からの葛藤の日々

 1つ上の中村憲剛、同期の佐藤寿人が相次いで引退を決断した2020年。プロ21年目にして初のJ3で戦っていた前田遼一の胸中は揺れ動いていた。J2昇格に全力を注ぎ続けてきたが、チームはまさかの6位に終わり、彼自身も12月26日で契約満了となった。

 現役続行か、それとも引退か……。

 彼の葛藤の日々が始まった。

――契約満了を通告されてから、まずどんな動きをしたのですか?

「2000年のプロ入りから15年間お世話になったジュビロ磐田の強化部長をされている(鈴木)秀人さんに電話を入れました。すると『現役への思いがあるのであれば、やれるまでやった方がいい。引退の決断が遅くなっても、それでも待ってるから』という温かい言葉をいただいた。本当にうれしく感じました」

――その時点では指導者転身を決めたわけではないんですよね?

「はい。ありがたいことにオファーもいくつかいただいたんです。まず連絡をしてきてくれたのが、同い年のモニ(茂庭照幸)。彼のいるJFL(ジャパン・フットボール・リーグ=4部相当)のマルヤス岡崎が『僕をほしい』と言っていると聞き、北村隆二監督からも直々に打診を受けました。モニとはユース代表時代からの仲間。もう1回、一緒に戦ってみたいと思う気持ちは少なからずありました」

――それ以外は?

「同じJFLですけど、高知ユナイテッドからも誘っていただきました。僕がU-20日本代表として2001年ワールドユース(アルゼンチン)に出場した時の監督である西村昭宏さんがGM兼トップチーム監督を務めていて、やはり直々に連絡をくださったんです。『俺はおまえのことをもちろんフォワードだと考えているけど、もう1つポジションを下げてのプレーも視野に入れている』という言葉には惹かれるものがありましたね。若い頃、お世話になった西村さんと、これまでとは異なるサッカー観の中、高知という未知なる環境で新しいチャレンジをしてみたいという気持ちがすごく高まりました。

 もう1つ、これは正式オファーではないんですが、カンボジアのチームからも興味を持っていただきました。以前、岐阜の監督を務められていた行徳浩二さんが今、カンボジアサッカー連盟U-19代表監督兼アカデミーUー18監督を務められていて、岐阜関係者を通じて『どうですか』と言われました。岐阜に行かなければ、そういう話は来なかった。この縁には感謝しかないと感じましたし、複数の選択肢に正直、迷いました」

ジュビロ磐田時代は2年連続得点王に輝いた(写真:アフロスポーツ)
ジュビロ磐田時代は2年連続得点王に輝いた(写真:アフロスポーツ)

指導者ライセンス講習会で受けた衝撃

 それでも、現役続行ではなく、指導者として新境地を開拓したいという思いの方が勝った。かつて磐田の黄金期をともに築いた鈴木秀人氏からの誘いももちろん大きかったが、ここ数年間、指導者ライセンス取得の勉強を重ね、「人に教えることの奥深さ」を痛感したことも決め手の1つになったという。

――指導者に転身しようと決めた最大のポイントは?

「現役選手を続けるよりも、指導者の道に進んだ方がやりがいがあるんじゃないかと感じたことが大きいですね。

 これまで僕はJFA公認C級・B級の指導者ライセンスを取得したんですが、実際に選手に教えるという『指導実践』をFC東京U-15むさしでやらせてもらったんです。インストラクターはクラブレジェンドの奥原崇さん(育成部長)が務めてくれたんですが、奥原さんが中学生に教えると目に見えて動きがよくなるのに対し、僕がやると全然そうはならない。『奥原さんと俺はこんなに差があるのか』と(苦笑)。ホントに愕然としたし、自分の力不足を痛感しました」

――それはショックですね。

「でも『俺はもうダメだ』という気持ちにはならなくて、ここから1つ1つ学んで成長していきたいと思ったんです。

 これも今だから話せることですが、2020年はA級ライセンス取得を岐阜にお願いしていました。選手をしながら、指導者講習会に参加するとなると、トレーニングを休まなければいけなくなる状況も出てくる。結果的にはコロナで講習会がキャンセルになり、チームに迷惑をかけなくて済んだんですが、そういう話をしていた自分を振り返ると『そろそろ指導者に本腰を入れよう』と心のどこかで考えていたんでしょうね」

日本代表時代は「貪欲さが足りなかった」と吐露する(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
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磐田黄金期の先輩たちとの再出発を決意

――大きく気持ちが傾いたのは?

「年が明けてから、1月9日に秀人さんに電話を入れた時です。『選手はもうやめようと思います』と言うと、その日のうちに『こういう話でどうだ』と具体的な話をしてくれました。『いつまでも待ってるから』という言葉に加え、それだけの熱意を示されたのなら、僕としても『お願いします』となりますよね。12日にジュビロとの間で詰めが行われて最終決定し、14日の発表となりました」

 2014年12月以来、約6年ぶりに復帰する古巣では、かつての恩師である鈴木政一監督がトップチーム監督を務め、尊敬する中山雅史氏のヘッドコーチ就任も決定。育成部門も服部年宏・アカデミーヘッドオブコーチや川口信男U-18コーチなど、共闘してきた先輩たちがズラリと並んでいる。新たなキャリアを踏み出す前田遼一にとっては、非常に入りやすい環境であることは間違いない。

――今の磐田には慣れ親しんだ人が多いですね。

「ゼロから再スタートを切る僕にとってはすごくありがたいことですし、学びも多いと思います。ただ、トップチームにヤット(遠藤保仁)さんやコンちゃん(今野泰幸)が現役プレーヤーとしていることはちょっと悔しさも感じます(苦笑)。年上のヤットさんと1つ下のコンちゃんがまだ戦い続けていることに思うところはありましたけど、これからは近くで彼らからも学びながら、指導者として少しずつ成長していければいいと考えています」

――新天地での仕事は?

「1月26日から練習に加わることになっています。家族は学校とかもあるんで、最初は単身赴任になる予定です。今の自分に何ができるかは全く分からないけど、一生懸命やっていくつもりです」

サックスブルーのユニフォームで活躍する次世代を育ててほしい(写真:アフロスポーツ)
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暁星高校時代の恩師・林先生の言葉を糧に第2の人生を

――ユース年代の指導という意味では、暁星高校時代の恩師・林義規先生(現東京都サッカー協会会長)の教えが参考になりますね。

「本当にその通りです。林先生は『人は努力をしてもすぐに上向かないし、結果が出るもんじゃない。停滞したり、下降線を辿ることも多い。そこでだいたいの人間はやめたり、諦めたりするけど、苦しい時にがんばり続けた人間がグッと伸びていくんだ』と口癖のように言っていました。

 僕はジュビロに行ってから中山さんやタカ(高原直泰=沖縄SV)さんという壁があり、なかなか試合に出られなかった。出ても結果を残せず苦しみました。代表でもU-20の後は、2004年のアテネ五輪に落選してますし、A代表にもなかなか定着できなかった。アルベルト・ザッケローニ監督の頃はもう30歳近かったですからね。そうやって低空飛行をしている時もずっと林先生の言葉を頭に刻み付けながらがんばってきました。そうやってきた僕がユース年代の選手に何かをもたらせる存在になれるようにがんばります」

 J1・154点、J2・22点、J3・1点とJリーグキャリア全体で177ゴールを挙げ、日本代表としても33試合出場10得点という実績を残した点取り屋には、傑出した経験値とゴール感覚がある。それを生かして、次世代を担うストライカーを育ててほしい。それが我々の願いだ。少し前にユニフォームを脱いだ佐藤寿人も「フォワードを育てたい」と意欲を示していたが、彼らのようなレジェンドたちが世界基準のゴールハンターを輩出してくれれば、必ずや日本サッカーはワールドカップベスト8の壁を破れるはず。そういう仕事に邁進(まいしん)し、この先も輝きを増していく前田遼一を楽しみに待ちたい。

重大な決心を固めた本人は清々しい表情だった(筆者撮影)
重大な決心を固めた本人は清々しい表情だった(筆者撮影)

■前田遼一(まえだ・りょういち)

1981年10月9日生まれ。兵庫県神戸市出身。小学3年生でサッカーを始める。暁星高校卒業後の2000年にジュビロ磐田入団。2009、2010シーズンにJリーグ得点王を獲得した。磐田退団後の2015年にFC東京に移籍。2019年からはFC岐阜に移籍したが、2020年12月に契約満了により退団。2021年1月14日に現役引退を発表した。日本代表では2007年にA代表初選出。2011年のアジアカップでは全試合に先発出場して、優勝に貢献した。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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