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遠藤保仁が追いかけたライバルの背中 切磋琢磨してきた親友・中村俊輔との共通点

元川悦子スポーツジャーナリスト
かつて代表をけん引していた中村俊輔と遠藤保仁 写真:アフロスポーツ

Jリーグデビューした場所で大記録を達成

 2020年J1開幕節を飾った23日の横浜F・マリノス対ガンバ大阪戦。40歳の遠藤保仁が楢崎正剛(名古屋アカデミーGKコーチ)の持つJ1通算631試合出場の最多記録に並ぶという偉業を達成した。舞台である日産スタジアムは、鹿児島実業高校から横浜フリューゲルス入りしたルーキーイヤーの98年3月21日にプロデビューを飾った場所。相手も同じ横浜マリノス(当時)というから、何か因縁めいたものが感じられる。

「これだけ試合に出るっていう大変さはたぶん僕と正剛さんしか分からないところがあると思うんで。フリューゲルス時代の先輩ですし、正剛さんの記録に並ぶことができて光栄です。(試合会場も)第一歩を踏み出した場所ですし、めぐり合わせがいいのか、運がいいのか分からないですけど、今日勝利で飾れたのでよかったなと思います」とメディアから祝福の言葉を贈られた彼はしみじみと喜びを噛み締めた。

「もうすごいっすね」と倉田秋も脱帽

 加えて言うと、遠藤はこの日、21年連続開幕スタメンという驚異的な記録も作った。ガンバの10番をつける倉田秋は「いや、もうすごいっすね…」と舌を巻いたが、誰もが同じ感想を抱いたに違いない。

 奇しくも同日、1つ年上の中村俊輔が41歳7か月30日でヴィッセル神戸戦に先発。J1開幕最年長出場記録を作った。2人は2000年シドニー五輪時代からの親友でライバル。遠藤は「経験豊富な選手がピッチに立って躍動したり、活躍しているのを見ると、いい刺激にもなりますし。実際、負けたくないっていうのは対戦した時だけですけど、元気な姿を見ると嬉しく思うので、まだまだ負けないように頑張っていきます」とエールを送った。この40代コンビが健在なのは、日本サッカー界にとっても朗報と言っていい。

中村俊輔とともに歩み始めたトルシエジャパン時代

 フィリップ・トルシエ監督(現U-18ベトナム代表監督)が日本代表とシドニー五輪代表を率いていた98年以降、2人はピッチ内外で時間を共有することが多くなった。遠藤は小野伸二(琉球)や高原直泰(沖縄SV)、稲本潤一(相模原)ら「黄金世代」の一員だが、遠藤の兄・彰弘さんが横浜のチームメートだった関係もあって1学年上の中村と非常に仲が良かった。

 筆者の印象に強く残っているのは、シドニー五輪準々決勝・アメリカ戦で中田英寿のPK失敗が引き金になって日本がまさかの敗戦を喫した翌日に、中村、遠藤、曽ヶ端準(鹿島)の3人が揃ってアデレード街中のマクドナルドにやってきたこと。「店内で食べるか、持ち帰りか?」のオージーイングリッシュが分からず困惑している3人をたまたま見かけて手助けし、大量の豪ドル札を財布に入れていた遠藤にビッグマックセットを奢ってもらうことになった。大会を通して同部屋だった遠藤は、中村にとって「何でも話せるいい後輩」だったのだろう。当時、中村はエースナンバー10をつける絶対的主力で、遠藤は予備登録という明確な序列があった。傍目から見ると損な役回りにも映るが、遠藤はそれを特に気にすることなく自然体で引き受けていたのだ。

背中を追いかけた2006年ドイツワールドカップまでの日々

 中村がイタリア・レッジーナに移籍した後も同様の関係性が続いた。「シュンは時間に関係なく電話してくるから…」と遠藤がボヤいていたのを聞いたことがあるが、インターネット時代前の異国にいた中村にしてみれば、遠藤は心の癒しだったに違いない。そういった間柄は2006年ドイツワールドカップの頃まで変わらなかった。ジーコ監督(現鹿島テクニカルディレクター)から絶大な信頼を寄せられ、10番を背負った中村に対し、遠藤はサブで出場なし。鹿児島の両親や兄がドイツに駆け付けたのに、雄姿を見せることさえ叶わない。その悔しさを黙って1人、噛み締めていたのではないか。

遅咲きの男が評価され始めたオシム時代以降

 そんな遠藤の存在感が一気に高まったのはそこからだ。2006年夏に代表の指揮を執り始めたイビチャ・オシム監督は彼を大黒柱の1人に指名。中村とともに攻撃的MFに並べてコンビを組ませた。2人が代表で対等な立場に立ったのはこれが初めてかもしれない。さらに2008年に岡田武史監督(現FC今治代表)が就任すると、遠藤はボランチにコンバートされることになる。「お互いのイメージがピッタリ合う」と中村はかつて語っていたことがあったが、タテ関係になったことでそれぞれのよさを一層、引き出し合えるようになった。

 遠藤自身は2006年と2008年に2度のウイルス性感染症に見舞われ、サッカー選手のキャリアの危機に瀕したが、それも乗り越えてガンバ大阪での2008年AFCチャンピオンズリーグ制覇やAFC年間最優秀選手という栄冠を手にしている。遅咲きの男の評価は20代後半になって一気に高まったのだ。

南アで共闘するはずだったが……

 そして迎えた2010年南アフリカワールドカップ。トルシエ時代から10年がかりで手にした大舞台で、長年ともに戦ってきた中村がまさかの先発落ちを強いられ、遠藤は絶対的主力として日本をベスト16へと導くことになったのはご存じの通りだ。代表における2人の立ち位置がついに逆転したと言ってもいいだろう。揃ってピッチに立ったのは、オランダ戦の26分間だけ。この事実に対して遠藤は何らコメントしたことはないが、盟友と一緒に世界に挑めなかったことに、どこか複雑な思いを抱いていたのではないか。

代表キャップ数は前人未踏の152試合。そしてJでもMVPに

 その後、中村は代表引退を宣言し、Jリーグでのプレーに専念。遠藤はアルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ(現レガネス監督)両指揮官の下でも戦い続けてキャップ数を152まで伸ばし、前人未踏の代表最多出場記録を樹立するに至った。ヴァイッド・ハリルホジッチ監督(現モロッコ代表監督)があえて代表から外さなかったら、キャップ数は160、170と伸びていたかもしれない。手術を伴う大ケガを一度もしたことのない遠藤にはそれだけの心身両面の資質があった。そこは特筆すべき点だろう。

 Jリーグでも中村が2013年に2度目のMVPに輝くと、今度は遠藤が翌2014年のMVPを獲得。やはり俊輔の背中を追いかけ、追いつき、出場数など数字で上回るというしぶとさと粘り強さを見せつけた。本人は特に意識していたわけではないだろうが、結果的に20年超も切磋琢磨し続けた。そういった長い長い歴史があるからこそ、2人は40代に突入した今もお互いに敬意を払い、認め合える最高の関係を築いているのだ。

40代コンビの共通点はサッカーIQの高さ

 2人にはトップリーグで長いキャリアを持続できている共通点がある。1つは卓越した技術と戦術眼を備えていること。どんな選手も年齢を重ねればフィジカル的には落ちていくが、スキルや頭脳は経験を重ねれば重ねるほど研ぎ澄まされていく。「ヤットさんのサッカーIQはホンマ、ズバ抜けて高い。天才やと思う」と称賛していたが、それは中村にも言えること。巧みに人を動かし、ゲームをコントロールできる能力はまさに非凡。彼らを超える選手はそうそういないだろう。

 もう1つは生粋のサッカー小僧という点。「自分の原動力? サッカーが好きってことと、前の前に敵がいる限りはその敵に負けたくないってこと。それが大きい」と遠藤も語っていた。彼らの幼少期は今の時代のように海外サッカーが当たり前に見られる環境ではなく、情報も少なかったから、自分から高いものを追い求めて、想像しながら自己研鑽に励んでいた。自ら貪欲につかみに行くという姿勢があってこそ、これだけの大記録を打ち立てることができたのだ。

いくつになっても生粋のサッカー小僧

 遠藤は3月1日の次節・ベガルタ仙台戦に出場すれば、単独J1最多記録に手が届く。そうなるのは時間の問題だが、それはあくまで通過点でしかない。それは中村の方も同じ。彼は彼で来年のJ1開幕戦での最年長記録を更新しに行くだろう。そうやって2人がしのぎを削り続けることで、Jリーグはより魅力あるものになる。遠藤、中村両選手にはベテランの価値を示し続けてほしいものだ。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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