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高校サッカー決勝の明暗を分けたハーフタイム 静岡学園に引き継がれた井田イズム

元川悦子スポーツジャーナリスト
選手権単独制覇を果たし、胴上げされる静学・川口修監督(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

「清々しい青空、満員の観客の中で、学園らしい人々を魅了する美しく華麗なサッカーを見せて選手権を獲る。それが俺の夢なんだ」

 96年1月8日に東京・国立競技場で行われた第74回高校サッカー選手権大会決勝戦。鹿児島実業との両校優勝というほろ苦い結果に終わった静岡学園の井田勝通監督(当時)は次なる野望を口にした。その大願は自身が指揮を執っていた2008年までの間には叶わなかったものの、弟子の川口修監督らが引き継ぎ、24年越しでついに成就させた。

24年前の両校優勝は雨だった(当時の雑誌より)=筆者撮影
24年前の両校優勝は雨だった(当時の雑誌より)=筆者撮影

 2020年1月13日、雲一つない快晴に恵まれた埼玉スタジアム。選手権決勝史上最多となる5万6025人という大観衆が押し寄せる中、高円宮杯プレミアリーグ王者・青森山田に静岡学園は持てる力をぶつけようとした。

 過去3年間で8度も埼玉で戦っている「絶対王者」の青森山田とは違い、プリンスリーグ東海1部の静学にとっては初の大舞台。鹿島アントラーズ入団内定の10番・松村優太を筆頭にこれまで全国大会に出たことのない選手も多く、独特な熱気と緊張感に飲まれたところがあったのだろう。重苦しい出足を強いられ、ハイプレスを仕掛けてくる青森山田に主導権を握られる。

青森山田に主導権を握られた前半

 こうした流れを決定づけたのが、前半11分の青森山田の先制点。横浜FC入りするボランチ・古宿理久のFKをU-17日本代表DF藤原優大が合わせたこの1点が静学に大きなダメージを与えた。さらに前半33分には浦和レッズ内定の武田英寿に2点目を奪われ、彼らは絶体絶命の窮地に追い込まれた。

「前半はみっともない試合でヤバいなと思った。セットプレー2本でやられて」と77歳の名将・井田総監督も苛立ちながら試合を見守っていた。傍らにいる川口監督は不満を通り越して怒りを覚えた。「なんで自分たちのサッカーをしないのか。山田さんのプレッシャーが厳しいのかもしれないけど、DFに隠れてボールを受けようともしない。学園はどんな状況でもボールを受けまくって、触りまくって初めて持ち味が出るのに、どうしてそれをしないのか」と頭に血が上っていた。選手たちも奮起し、前半終了間際にリスタートから中谷颯辰が1点を返して、何とか1-2で試合を折り返したものの、彼らコーチングスタッフの憤りは収まらなかった。

井田総監督が語気を強めたハーフタイム

井田勝通総監督(筆者撮影)
井田勝通総監督(筆者撮影)

「お前らには魂がない。ガッカリだよ」

 井田総監督は選手がロッカールームに入って来るや否や、声を荒げた。現場を退いて10年。公式戦では必ずベンチに入っていたが、選手起用や指示は全て川口監督や齊藤興龍コーチらに任せてきた。にもかかわらず、全国の頂点を目前に萎縮する子供たちを見て黙っていられなかったのだろう。松村も「井田さんがあんなに怒鳴ったのは初めて見た」と神妙な面持ちで口にした。

 川口監督も「この大舞台でやらなきゃいつやるんだ」と語気を強めた。相手の強固な守備ブロックをゴリゴリとドリブルやパスワークを使いながらこじ開けるのが静学だ。スタイルを貫かなければ一生悔いが残る。選手たちにそんな思いだけはさせたくない。74回大会の両校優勝、その翌年の75回大会のベスト4敗退を選手として経験している齊藤コーチも同じ気持ちだったに違いない。

目の色が変わった松村ら選手たち

「もう最後だし、泣いても笑ってもラスト45。やるしかないとピッチに立ちました」

 松村が言うように、後半の選手たちは目の色が違っていた。中盤を1枚増やしてリスク覚悟でボールを握りに行ったのも奏功し、彼らは一方的に押し込むようになる。静学3年間で最も成長したと指揮官に評された浅倉廉を筆頭に高度なテクニックが冴えわたり、彼らのサッカーは確実に人々を魅了した。そして後半16分には左をドリブルで打開した途中出場の草柳佑介のパスを、今大会初先発の2年生エースFW加納大が巧みな反転から左足シュート。井田総監督が「センス抜群」と称賛する男のゴールで同点に追いついた。

 完全に勢いに乗った静学の個人技にスタジアム中が沸き返る中、彼らはラスト5分で決勝弾を奪う。起点は左サイドからのFK。今大会中盤を献身的に支えた井堀二昭のキックをファーサイドで仕留めたのは1点目を挙げた中谷。「中谷とキャプテンの阿部(健人)は大事なところでよく点を取っていた」と井田総監督も言う通り、頼みの得点源が最後の最後で結果を出した。

名将が24年前に思い描いた理想通りの頂点

 4分間のロスタイムを経て、タイムアップの笛。井田総監督がかつて思い描いた通りの形で静学は悲願の選手権単独優勝を達成した。川口監督は齊藤コーチらスタッフと歓喜の抱擁を交わし、井田総監督に歩み寄った。

「修、ホントにお前は男になったな。いい恩返しをしてくれた。ありがとう」

 96年12月にコーチに就任してから偉大な恩師と12年間ともに戦い、チームを引き継いで10年。地道な努力を続けてきた川口監督はそんな言葉を耳にして感極まったという。

 実際、この10年間は困難の連続だった。井田監督退任前後には進学校化を推進すべくサッカー部廃部の動きも表面化。それを川口監督や齊藤コーチらが必死に食い止め、文武両道路線への転換を図ったのだ。学校が静岡市草薙から東鷹匠町に移転した後は、近隣住民との共生を重視し、名物の朝練習の回数を減らして音の出ないリフティングなどを中心にメニューを組むなどの配慮も図った。

東鷹匠町に移転した現在の学校(筆者撮影)
東鷹匠町に移転した現在の学校(筆者撮影)

 部員数が急増し、260人の大所帯となった今は、人工芝1面しかない谷田グランドで全員が練習するため、16~18時半頃までA~Dチーム、19~21時までE~Gチームといった具合で7チームを回している。スタッフは中学・高校を含めて10人程度いるが、彼らは全てのトレーニングを見るから、労働時間は凄まじい。齊藤コーチは「1週間に授業を17時間持っているので、朝から晩まで働き通しです」と苦笑していたほどだ。加えて、井田総監督との定期的な「飲みニケーション」もある。それも静学スタイルを継承するための重要な場となっている。

静学の練習拠点・谷田グランド(筆者撮影)
静学の練習拠点・谷田グランド(筆者撮影)

教え子たちが井田イズムを見事に継承

 つまり、スタッフのたゆまぬ努力がなかったら、井田総監督の築き上げた哲学を貫き、実践し続け、選手権の頂点に立つことはあり得なかったのだ。

「今、チームに関わっているのは全員が教え子。学園のベースは変わらないし、みんなDNAを持ってる。しばらくは大丈夫だ」

 腰を痛めながらも胴上げで3度中を舞い、「地球は青かった」の明言を残した「ガガーリンの気分だよ」と笑った井田総監督は後継者たちに太鼓判を押したが、川口監督らはこれからさらに静学スタイルを研ぎ澄ませ、世界に通じる選手を育てていくはず。

 今回の単独優勝は最初の一歩でしかない。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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