金メダルが絶対的武器にならない職場での7年 43歳・里谷多英の引退後の人生

フジテレビでイキイキと働く里谷さん(撮影・矢内耕平)

 自国開催だった1998年長野五輪での金メダルで日本中に衝撃を与え、2002年ソルトレークシティ五輪でも銅メダルを獲得。冬季五輪2大会連続メダリストとして一世を風靡したのが、女子モーグルの里谷多英さん(43)だ。2013年まで現役を続け、5度の五輪に挑んだ彼女だが、数々の栄光の傍らで、プライベートの話題がスキャンダラスに報じられるなどの紆余曲折も味わった。しかし、今は頂点を追い求めた競技者としての鋭い目線も、メディアを賑わせた奔放さもない。「スキーをするのは年に1回くらいかな。特別に体を鍛えたりもしていません」。あっけらかんと言う彼女は「金メダリスト」という鎧を脱ぎ捨て、長野五輪直後に入社したフジテレビでイベント運営の仕事に携わりながら、伸び伸びと自然体の人生を送っている。 

重圧ではなくパワーになった自国開催の五輪

――自国開催の東京五輪が来夏に迫っています。その空気を1998年の長野で体験し、金メダルを獲得しました。

「5回の冬季五輪に出ていますが、観客が圧倒的に多かったのが長野でした。2万人と言われていましたが、ほとんどが日本人で、みんなが私のことを応援してくれている感じがものすごく伝わってきました」

――それは心強い感じですか?

「すごく心強い。あんなたくさんの人に『里谷、頑張れ』と思われることは滅多にないから、すごくパワーをもらえましたし、重圧に感じることも全くなかった。(金メダルという)成績で返せて良かったです」

――4年後の2002年ソルトレークシティ五輪でも銅メダル。本番に強いですよね。

「長野とソルトレーク、2006年のトリノに共通するのは、本番2週間前からすごく集中力が高まったこと。スキーが目に見えて速くなる感じもあったし、できなかったことが、どんどんできるようになったんですよね。何年も前からオリンピックに合わせて頑張ってはいますが、2週間くらい前から集中力が高まって一切後悔しないようにきっちりやれた。だから『この1本の滑りで死んでもいいや』っていうくらいの心境になれましたし、本番のスタート地点に立った時には『絶対大丈夫』と自信を持てた。最高に気持ちのいい瞬間でしたね」

日本女子で冬季五輪史上初となる金メダルを獲得した(写真:アフロスポーツ)
日本女子で冬季五輪史上初となる金メダルを獲得した(写真:アフロスポーツ)

――高度な集中力の原動力は?

「長野の時は前年に亡くなった父が勝たせてくれたところもあると思いますが、もともと負けん気が強かったと思うんです。『結果を出すために何が何でも大会に合わせよう』としていたのかな。どんなことをしても踏ん張る、結果を出すという思いは今の仕事にも生きています。イベントの協賛のために相手の求めているものを探ったり、メリットを強調する書類を作るために先輩や後輩と食事に行ってアドバイスをもらったりしています。1つでも仕事が決まった時はうれしくて朝早く起きて走っちゃうこともありますね(笑)」

――来年は東京五輪があります。5大会連続出場した里谷さんからメダル候補者たちにメッセージは?

「東京でオリンピックに出られるのは、すごいことですよね。オリンピックに取り憑かれていた身としては、うらやましいなと思います。長野オリンピックの時もたくさんの声援を感じられたので、東京に出る人たちは、ものすごい経験をするんでしょうね。とにかく、選手のみなさんに頑張ってほしいです」

「メディアが嫌いと思ったこともなかった」

 生粋の勝負師だった里谷さんのエネルギーは凄まじかった。そのエネルギーが時に「破天荒さ」を招いたケースも皆無ではなかった。そのような報道がでると、世間は彼女の大きなギャップに驚かされた。メディアを通して描かれる自分について、本人は「全然違う」と憤りを覚えた時期もあったようだが、時間が経つにつれて「逆に面白い」と感じるようになったというから驚きだ。

――金メダリストは周囲が騒がしくなります。メディアとはどう向き合ったのですか?

「試合当日や練習の時は気を取られたくなくて、一切、話しませんでした。でも遠征の時や大会後は記者の方と飲みに行ったりもしていましたよ。さまざまな記事を目にして『これは絶対に違う』という内容や反論したかった時もありました。辛かったのは家族や仲間にも迷惑がかかってしまったこと。親の方が傷ついている感じがあって、申し訳なかったですね」

柔らかな笑みをのぞかせる里谷さん(撮影:矢内耕平)
柔らかな笑みをのぞかせる里谷さん(撮影:矢内耕平)

――女性アスリートが叩かれることは、今の時代でもありますよね。

「私自身は生きづらいと感じたことはないです。記者の方はお話が上手で、自分の話もよく聞いてくれたので、友達と会話しているみたいで楽しかったです。プライベートのことをいろいろ書かれたソルトレーク後も特に落ち込んだりはしなかったし、メディアが嫌いと思ったこともなかった。途中からは『見出しが面白い』『こういう書き方になるんだ』と思っていました」

――本当に強心臓。後輩の上村愛子さんがアイドル的に扱われた時はどう感じました?

「今でも一緒に旅行するほど仲良しです。モーグルと言っても誰も分からない時代に愛子が注目されて、競技の認知度が上がったことはすごく有難かったですね。『モーグルって何』って言われて、説明するのが面倒になって『スキーの一種でちょっとコブがあったりする』みたいに話していたんですよ。名前も『モーグリ―』と間違われたり。それが愛子の登場であんなに話題になったのは衝撃でしたし、モーグルが知られるようになって本当にうれしいなと思いました」

2013年の引退会見では上村愛子(右)から花束を受け取った(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
2013年の引退会見では上村愛子(右)から花束を受け取った(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

金メダルがプラスにならない場所。あえて選んだ会社員の道

 後輩の上村さんより2年早く、2012-13シーズンを最後に現役を退いた里谷さん。第2の人生は所属先のフジテレビで社業に専念することにしたのだ。36歳にして改めて新入社員と一緒に研修を受け、現在のイベント事業局への配属を希望した。そこでは主にイベントの協賛を集めたり、チケットを販売する仕事に携わってきたという。

――引退後のことは考えていたのですか?

「準備はできていなかったと思います。でも、社員として在籍していたので、ここで働きたいなとは思っていました。スキーしかしてこなくて、バイトも一度もしたことがなかったから、社会の一部というか、会社の一部として働くことがなかった。そういう感じだったので、会社に通おうと決めていました。働くと決めてからはパソコン教室に通ったりもしたんですよ」

――会社員生活は慣れましたか?

「最初は毎日電車に乗って通勤することになかなか慣れませんでした。アスリート生活とのギャップはかなり大きかったですが、『決めた以上、3年はちゃんと頑張ろう』と覚悟を決めて取り組みました。分からない言葉を全て書き留めて、秘密ノートで勉強したり。そのノートを1回、コピー機の前に忘れたことがありました。届いた時はすっごく恥ずかしかった(苦笑)。最初は何ひとつできなくて『お荷物だな』って申し訳ない思いでいっぱいでしたが、あれから7年が経過して、自分に任される仕事が増えたのをうれしく思います」

――取引先から「金メダリストの里谷さんだ」って言われることはありませんか?

「30代前半以下の担当者は私のことを知らないです。それ以上の年齢の方は『あー、あの里谷さん』という感じになりますが、若い方はポカーンと。『金メダル見せて』と言われることもありますが、自分が金メダリストだと感じる瞬間はそれくらい。日常ではほとんどないですね」

現在の仕事に対するやりがいを語る(撮影:矢内耕平)
現在の仕事に対するやりがいを語る(撮影:矢内耕平)

――仕事にやりがいは?

「営業の仕事は金額が数字ではっきり出るので、大きな協賛が決まった時はすごく達成感があります。やっぱり会社に入って、良かったなと思います。世界が変わりました。競技を辞めるのは勇気がいるじゃないですか。でも、次の世界に行って、いろんな人に会えて充実感があります」

――引退後の人生に点数をつけるなら?

「まだまだ学ぶことが多いので55点です。マイペースなのでいつも真面目にできる性格ではないから。金メダルがプラスになったこともあったとは思いますが、いろんなことを勉強しながらここまでコツコツ積み上げてきた感じです」

――今後、挑戦したいことは?

「何だろうな。これからも私らしく『のほほん』と生きていければいいですね」

43歳の現在は充実した日々だ。(撮影:矢内耕平)
43歳の現在は充実した日々だ。(撮影:矢内耕平)

■里谷多英(さとや たえ)

1976年6月12日生まれ(43歳)。北海道札幌市出身。小学5年生からモーグルを始め、6年生で初出場した全日本選手権で初優勝。五輪には、1994年のリレハンメル五輪から5大会連続で出場した。1998年の長野五輪では、日本女子で冬季五輪史上初となる金メダルを獲得。国民的なスターとなる。2002年のソルトレークシティ五輪でも銅メダルを手にし、日本選手では初めて冬季五輪の個人種目で、2大会連続でメダルを獲得する快挙を達成。その後は、怪我に苦しむも、2006年トリノ五輪、2010年バンクーバー五輪に出場。2013年に現役引退を表明。競技生活終了後は、所属先のフジテレビで社員としてイベント事業に携わっている。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】