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原爆・黒い雨から75年

森田正光気象解説者/気象予報士/ウェザーマップ会長
平和公園と原爆ドーム 2020年1月25日著者撮影

 日本に原爆が落とされて明日で75年。先日(7月29日)、原爆直後に降った黒い雨で被爆した人達が起こした裁判、いわゆる「黒い雨訴訟」の判決がでました。結果は原告側の全面勝訴ということで、原告側84名全員の被爆者健康手帳交付を、広島地裁は認めました。国の控訴期限は8月12日で、まだ判決が確定したわけではありませんが、それ以前に、黒い雨はなぜ降ったのでしょう。

黒い雨が降るまで

当時の気象台職員が書いた図 爆発によって発生した風の流れや火災旋風(つむじ風)が生じたことがわかる 江波山気象館(旧広島地方気象台)提供
当時の気象台職員が書いた図 爆発によって発生した風の流れや火災旋風(つむじ風)が生じたことがわかる 江波山気象館(旧広島地方気象台)提供

 1945年8月6日、サイパン島の南にあるテニアン島から飛び立ったB-29爆撃機(エノラ・ゲイ号)が、午前8時15分、リトルボーイと呼ばれる新型爆弾を広島市上空で破裂させました。人類が初めて使った核兵器、原子爆弾です。この原子爆弾はそれまでの爆弾と何が違うかというと、とてつもない熱を発生させることです。

 柳田邦夫著「空白の天気図」によると、

「原爆は上空577mで炸裂、火球の大きさは、炸裂直後の1/10000秒のときに半径17mで摂氏約40万℃、火球が直径100mになるとき摂氏9000℃~11000℃、爆心直下で摂氏6000℃、爆風の風速は680m/s」とあります。

 爆弾直下に居た人々はこのような数千度の熱線と爆風、放射線を浴び即死、中心から数キロ離れた地点でもやけどを負ったと伝えられています。

 さらに上空に沸きあがったキノコ雲から降ってくる雨がありました。黒い雨です。この雨は放射能性の粉塵を大量に含んでおり、雨に当たれば健康被害が起こります。今回の訴訟の争点は、まさに原告がこの黒い雨を浴びたのかどうか、そして健康被害があったことを国に認めて欲しいというのが原告の主張でした。

 では黒い雨はなぜ降ったのか?いや降らされたのか?

 実は黒い雨は、究極の人工降雨だったと考えられます。

そもそも人工降雨とは何か

 大昔から、人間は大雨より干ばつが起こることを恐れていました。干ばつは穀物などの凶作によって、大規模な飢えを引き起こし、場合によっては食料の奪い合いで戦争になることもあったからです。したがって、農耕民族の間では世界中に雨を祈る儀式があります。そして日本各地の雨乞いでは、煙を焚いたり火を起こしたり、音(雷の真似)を出したりすることも行われていました。昔の人は現代のような気象の知識があったわけではありませんが、直観として上昇気流が雲を作り、雨を降らせることを知っていたのでしょう。

 現代では水不足が続くと、人工降雨をやればいいという発想になりますが、実は人工降雨というのはそう簡単ではありません。ともかく雲が無いと話にならないからです。

 雲は目に見えない水蒸気が何かのきっかけで上昇し、上空で冷やされることによって発生します。その空気を持ち上げることが通常、人工ではできないのです。

 北京オリンピックで競歩の時、中国政府は人工降雨弾を雨雲の中に打ち込み、雨を強制的に降らせて晴れさせたという実例がありますが、これは雨雲を部分的に消したのであって、雲の無いところに雨を降らせたわけではありません。現在、世界で成功しているものも、ある程度発達した雲があるところに薬剤などを散布して雨雲を成長させて降らせたもので、全く雲の無いところに雨を降らせることはできていません。

広島原爆の日、もし原爆が落ちなければ

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 キノコ雲は原爆が作り出した積乱雲です。通常、積乱雲は対流圏と成層圏の間、つまり1万数千メートルくらいが雲の成長できる限界の高さで、自然にできる積乱雲の形成速度は20分~1時間くらい。ところが原爆によるキノコ雲は、あまりの高温で上昇気流の勢いが強く、わずか10分ほどで雲頂高度が1万5千~1万7千メートルにも達したとされ、さらに10分後には黒い雨が降り出したと言われています。

 そして雨量も爆心地の北西部を中心に総雨量が120ミリと、土砂降りになりました。生き残った人は、のどの渇きでこの黒い雨を飲んだとの証言もあります。

 この黒い雨、もし原爆が落ちていなかったら、それでも雨は降ったでしょうか?

1945年8月6日午前6時の天気図 デジタル台風提供
1945年8月6日午前6時の天気図 デジタル台風提供

 当日朝の広島は快晴、地上気圧は1018hpa(当時764mHg)、10時には気温が30℃を超え、気圧配置はクジラの尾型と呼ばれる典型的な夏型でした。この条件に近いものを過去10年の8月の天気図や気象条件に合わせて調べると、広島で雨が降ったのは24日中4日。そのうち、1日は台風の影響とみられ、残りの3日は日中の気温上昇によるにわか雨(夕立)と考えられます。しかしながら、そのにわか雨も夜20時前後でわずか0.0ミリでした。

 さらに、当日の天気図をよく見ると中国地方に小さな高気圧が解析され、広島は山越えの下降気流であったことが想像できます。

 そしてもうひとつ、黒い雨の降り始めた時間は、原爆投下(午前8時15分)後、20分~1時間が最も多かったとの証言から、午前8時半頃から9時半頃と推測されるので、この時間帯だと夏特有の夕立という事も考えにくいでしょう。

 以上のことから、黒い雨は、もし原爆が落ちていなかったら降らなかった、あるいは降ったとしてもごくわずかだったと考えられます。

 つまり、黒い雨は完全なる人工降雨だったと言えるのです。ただし、それは大昔の人々も望んだ恵みの雨では無く、計り知れない代償をもたらす死の雨でした。

 原爆投下の候補地として広島の他に、小倉、新潟があげられていたことは知られていますが、当時のアメリカの公式文書をみると、実は小倉や新潟よりも「横浜」が有力なターゲットとされていたときがありました。直前で対象から外れ、その理由は定かではありませんが、横浜に黒い雨が降っていた可能性もあったということです。

 ちょっとした偶然で世界の景色は変わってしまうことを我々は忘れてはいけないと思います。

 本稿を書くにあたって、気象予報士会東京支部長の田家康氏にアドバイスをいただきました。ありがとうございました。

追記:原告の人数を修正しました。

参考

増田善信著 広島原爆後の“黒い雨”はどこまで降ったか「天気」36.2日本気象協会刊行

広島市江波山気象館

長崎被爆体験者・広島黒い雨訴訟支援 原子雲はいかにしてできたか 矢ケ崎克馬著

Atomic Bomb: Decision Target Committee、May 10-11、1945

気象解説者/気象予報士/ウェザーマップ会長

1950年名古屋市生まれ。日本気象協会に入り、東海本部、東京本部勤務を経て41歳で独立、フリーのお天気キャスターとなる。1992年、民間気象会社ウェザーマップを設立。テレビやラジオでの気象解説のほか講演活動、執筆などを行っている。天気と社会現象の関わりについて、見聞きしたこと、思うことを述べていきたい。2017年8月『天気のしくみ ―雲のでき方からオーロラの正体まで― 』(共立出版)という本を出版しました。

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