倉嶋厚先生と(2010年)
倉嶋厚先生と(2010年)

 8月3日、倉嶋厚先生が逝去されました。

 私にとって、生前は御手を触れることもためらわれるほどの雲の上の人でしたが、御葬儀に参列し、最期の荼毘に付されるお別れのときに、頬を触れさせていただいたときは涙がこぼれてしかたありませんでした。

 倉嶋先生と初めてお会いしたのは、40年ほど前です。

 お会いしたと言うと語弊があります。正確に言うと気象庁のロビーでお見かけして、勝手に会釈しただけでした。それまでに、倉嶋先生の御本を何冊か読んでいましたので「あっ!倉嶋さんだ」と、思ったのを覚えています。

 その後、倉嶋先生のお姿は気象庁で何度かお見かけしましたが、私にとっては恒に遠くから仰ぎ見る存在でした。

 その倉嶋先生から、私として認識されてお声掛けいただいたのは、1985年頃だと思います。

 気象庁ロビー(旧天気相談所前)で、倉嶋先生から「あっ、森田さん。あなた面白いね」と、おっしゃっていただいたのが凄く嬉しくて、その状況もはっきりと覚えています。

 その経験から私は現在、若い人と同席した時には出来るだけ声を掛けるようにしています。

 当時、倉嶋先生はNHKの「ニュースセンター9時」という番組を担当なさっていて、大きな身振りで大きく書かれた天気図を解説なさっていました。その姿を「倉嶋体操」とか、動作が大きすぎるとか、気象関係者の中では賛否両論がありました。

 しかし、いま思うと、これが日本の天気解説を変えた原点だと思います。それまでは、気象解説者というのは目立たないというのが鉄則で、テレビ草創期の頃は指し棒しか画面に出ないという時期もありました。

 その状況を倉嶋先生が画期的な方法で殻を破り、ご自身のお言葉を借りれば「風流気象学」を始められたのです。

たぶん私は、倉嶋先生の追っかけでした。

 私自身、テレビに出るようになって、倉嶋先生の御本を参考(パクリとも云う)にさせていただいた事が多々あり、それで評価を得たような所があります。

 最初に夕方のニュース番組に出演したとき、「天に三つの廊下あり。照ろうか、降ろうか、曇ろうか」とオンエアしたところ、番組を見た多数の方から「あの表現はいいね」とお褒めをいただいて、実はそれが倉嶋先生からヒントを得た言葉だと、ついぞ言えませんでした。

 その後、倉嶋先生と何となくご交流をさせていただいて、倉嶋先生のご自宅にも何度かお邪魔させていただくようになりました。貴重なお話を、いっぱいお聞きしました。

 書ききれないほど思い出があるのですが、一つだけ紹介するとすれば、「光の春」という言葉でしょうか。

 倉嶋先生は「熱帯夜」をはじめ、いろんな表現を考案されたり、外国の言葉を日本に紹介されたりしています。その中でも、私は「光の春」という表現が好きだったので、倉嶋先生と対談(『文藝春秋』1994年7月号)したときに、その由来についてお聞きしました。

少しだけ引用させていただくと、

「”光の春”には思い出があるんです。結核を患ったときに、独学でロシア語をやったんですね。あるとき、シベリアの季節学の文献を読んでいたら、シベリアのマガダンでは二月十五日に”光の春”が始まり、その後で本格的な春が来る、と書いてあった。

二月十五日の気象表を調べると、氷点下十五度とある。これで春とはいったいどういうことなんだろうと思ったんですね。・・・・・・」

出典:『文藝春秋』1994年7月号「お天気キャスター ”照る日くもる日”」

 その後、気象庁の出張でモスクワの中央気象台にいったときに、女性予報官に「光の春とはどういうことか」と訊いたそうです。その女性予報官曰く、冬至を過ぎると光が強まり、・・・つららの先から解けた水滴が日に輝きながらポツリと落ちる。・・・そうすると遠くから近づく春を感じる。との表現に、倉嶋先生はいたく感激したそうです。

 また、「熱帯夜」についても、どういう経緯で言葉を造られたのですかとお訊ねすると、

 「あれは私が朝日新聞の解説を書いていたときに、使ったんですよ。そしたら朝日新聞が、この言葉は昔からあるのか、要するに、権威があるのかと言うから、”倉嶋厚が権威なんだ”って(笑)」

 とのことだったそうです。このあたりに、倉嶋先生の矜持と言うか権威に対しての考え方がうかがわれて大変感心いたしました。

八月三日は「熱帯夜忌」に

 倉嶋先生と、最後にお話しさせていただいたのは今年の3月です。

 ちょっとしたことをお聞きしようと、先生の携帯電話にお電話したのですが、出られませんでした。すると、ほどなくして折り返しのお電話をいただき、お話しさせていただくことができました。お声はしっかりとしていましたが、体力が弱っておられる感じがしましたので、近いうちにお見舞いに伺おうと思っていた矢先の訃報でした。

 御葬儀で、喪主の方の御説明によると、倉嶋先生は二年前に腎盂(じんう)がんになり、御自身の選択で手術をしないと決めたとのことです。今回、腎盂がんのため亡くなられた と発表されましたが、実際には老衰に近い感じで安らかに御眠りになったそうです。

 出棺の際、棺の中に生前倉嶋先生がお好きだったどら焼きと、本が二冊(『風と雲のことば辞典』『お天気博士の気象ノート』)入れられました。

 俳句の世界では、亡くなった方を偲ぶために「***忌」と名付け後世にその業績を伝えようとします。

 私は倉嶋先生が亡くなられた八月三日を、「熱帯夜忌」として、記憶に留めようと思います。

 倉嶋厚先生のご冥福をお祈りします。