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"メディア王者" 羽生結弦が「報われなかった」北京五輪で輝き続けた理由

森田浩之ジャーナリスト
北京五輪のエキシビションで演技する羽生(写真:ロイター/アフロ)

「本当に、みなさんにこうやって見ていただきながら、見ていただけるからこそ、僕は滑ってこられたと思います」

演技を終えて、まだ息の荒い羽生結弦はそう語りはじめた。

「見ていただけるからこそ、僕の演技に何かしらの意味が生まれると思うので。本当にみなさんに感謝したいって思ってます」

2月20日、北京五輪の最後を飾るフィギュアスケート・エキシビション。滑り終えてテレビカメラの前で語る羽生の口から出た言葉は、ここでも「みなさん」と「感謝」という謙虚なものだった。

この日、主役は紛れもなく羽生だった。演技終了後に参加選手全員がリンクに登場したときも、テレビカメラはほぼ羽生を中心に捉えていた。すべてが終わった後で、観客席に向かって「ありがとうございました! 謝謝(シエシエ)!」と叫ぶ羽生の姿も、テレビにしっかり映し出された。

この10日前にフィギュア男子フリーが終わったとき、羽生は五輪3連覇を果たせず、表彰台も逃し、北京での戦いを4位で終えていた。それなのに彼は、大会の後半戦を伝える日本のメディアで大きな存在感を放ち続けた。もちろん、その間には他の競技でも多くの日本選手がメダルを獲得し、それぞれ素晴らしい活躍を見せていたのだが、メディアにはつねに羽生の影がちらついていた。

大会最終日のエキシビションが近づくと、ツイッター上では各メディアの記者たちが「羽生結弦選手がサブリンクのリンクサイドに姿を見せました」などと、練習する彼の動きを逐一伝えた。エキシビション2日前の18日には、これまでのキャリアで演じた計9曲を滑ったことを、スポーツ紙などが大きく報じた。

そしてエキシビションの夜、テレビ番組は羽生の見事な演技をMVP級の扱いで報じた。

不運なハプニングと前人未到のジャンプ

言ってしまえば、羽生はメダルを取れなかった選手のひとりでしかない。それなのに、なぜ五輪閉幕まで注目を集められたのか。

大きな要因のひとつは、羽生の「メディアジェニック(mediagenic)」な力だ。「メディア映えする」といった意味の英語だが、誰もが知るとおり羽生はこの力が実に高い。リンクに入るときの何げないお辞儀から、テレビカメラの前で口にする数々の言葉まで、彼のメディア力は北京でも存分に発揮された。稀代のスケーターである羽生は競技で敗れたものの、メディアヒーローとしての彼は一段と大きな存在になった。

北京五輪での羽生のパフォーマンスを語るうえで確認しておくべきなのは、4位という成績に終わるまでの過程で彼にミスはなかったということだ。前半のショートプログラム(SP)では最初のジャンプを失敗したことが響き、8位に沈んだ。しかしそれは、リンク上にあった穴にはまるという不運な要因によるものだった。

それが、物語の始まりだった。2日後のフリーで、羽生はまだ誰も成功させたことのないクワッドアクセル(4回転半ジャンプ)に挑戦した。転倒はしたものの、国際スケート連盟(ISU)公認大会で初めてクワッドアクセルを跳んだと認定された。

不運なハプニングと、誰も知らない世界への飛翔。羽生の北京でのドラマは、そんな相反するふたつの要因の絶妙なバランスの上に成立していた。

メダルは逃したものの、不可能とも言われていたクワッドアクセルに挑んだことで、彼はこれまでよりさらにしっかりと、歴史にその名を刻み込んだ。羽生を応援する人たちはSPの成績に落胆したかもしれないが、彼の言う「死にに行くようなジャンプ」への挑戦に大いに勇気づけられた。

4位まで追い上げたという流れと、クワッドアクセルへの挑戦・認定は、ある意味で「完璧」な展開だったと言える。そこで人々が得た感動は、羽生が3連覇を果たしていた場合とは異質だが、もしかすると3連覇を果たしたときと同じくらい大きなものだったかもしれない。

「絶対王者」から「最高の挑戦者」への変身

競技が終わっても、メディアヒーローとしての羽生の物語は始まったばかりだった。フリーの演技を終えた直後のインタビューで、羽生は白いマスクの上に見える目を少し潤ませながら語った。

「いや、もう一生懸命、頑張りました。正直、これ以上ないくらい頑張ったと思います。報われない努力だったかもしれないですけど。でも一生懸命、頑張りました」

この「報われない努力」という言葉が、大きな反響を持って受け止められた。SNS上では「この言葉刺さった」「自分史上最大に響いた言葉かも」といった個人的な感想から、「五輪史に残る名言」などと評価するコメントまで、さまざまな反応が見られた。

なぜ刺さったのか。まず、この言葉には多くの人が単純に驚きを覚えたはずだ。「え、羽生結弦もこんなこと言っちゃうんだ」と。

確かに「報われない努力」という言葉は、「絶対王者」と呼ばれた羽生とは最も縁遠いものに思える。何しろ、五輪を2度制しているアスリートだ。そんな彼に「報われない努力」などというものがあったのか、と思わざるをえない。

おそらくこの言葉は羽生という存在を、スーパーアスリートから「人間」に変えたのだ。「絶対王者」と呼ばれ続けていた彼はこの言葉によって、自分を「努力が報われなかった敗者」と位置づけた。だが羽生はただ負けたわけではなく、前人未到のクワッドアクセルを果敢に試みた挑戦者だった。

別次元にいた「絶対王者」から、等身大の弱さも隠すことのない「最高の挑戦者」への変身。「報われない努力」という発言が多くの人々を引きつけた大きな要因は、そこではなかったか。

整氷スタッフへの感謝の言葉

メディアヒーローとしての羽生の北京における第2幕は、競技から4日後の2月14日に開かれた記者会見だった。「引退発表ではないか」という憶測が広まり、それを打ち消すために日本オリンピック委員会(JOC)が「メディアからの取材申請が多く、個別に対応することが困難なため実施するもので、羽生選手からの発表会見ではない」と補足したほどだった。

ほとんどのテレビ局で少なくとも一部が生中継されたほか、各局のYouTubeチャンネルでも生配信されたこの会見で、羽生は冒頭から全開だった。

「それでは質問のある方……」という司会者の言葉に、真っ先に手を挙げたのは羽生本人だった。「すみません。質問が来ない(ポイント)かと思って」と前置きし、まず金メダルに輝いたネイサン・チェン(アメリカ)を祝福した。

「やっぱりオリンピックの金メダルって本当にすごいことなんです。僕も金メダルを目指してずっと頑張ってきましたし、ネイサン選手もたくさん努力したと思います。彼には4年前に(平昌五輪のSPで失敗したという)悔しさがあって、それを克服した今があって、本当に素晴らしいことだと思っています」

次に羽生は「氷を作ってくださった方々」に感謝を述べた。

「もちろんSPのときは不運なミスというか、悔しかった部分もあります。けど、本当に滑りやすくて、跳びやすくて、気持ちのいい会場、気持ちのいいリンクでした。この場を借りて感謝したいと思います」。SPで氷の穴にはまって失敗したのは、決して整氷スタッフのせいではないという念押しだった。

今後について聞かれると、「このオリンピックが最後かと聞かれたら、ちょっとわかんないです。てへへへへ」と発言。「やっぱりオリンピックは特別だなって思いました。けがしていても立ち上がって挑戦するべき舞台って、フィギュアスケーターにはほかにないので。すごく幸せな気持ちになっていたので、また滑ってみたいなという気持ちはもちろんあります」と語った。この言葉を受けて翌日、一部の新聞は「羽生、現役続行」と報じた。

質問を聞き届けて答えに入る前に、羽生は「ありがとうございます」と言い、答え終えると「ありがとうございました」と結んだ。会見を終えてからフォトセッションに入るときには、前に置かれていたペットボトルを自分の手で片づけた。35分ほどの記者会見は、まさにメディアヒーローの独壇場だった。

「ありがとうございました。またどこかで!」

こうして迎えた五輪最終日のエキシビション。羽生は名プログラム「春よ、来い」のピアノの旋律に合わせ、優雅なパフォーマンスを披露した。終了後のインタビューで「改めて北京五輪はどんな経験、大会になったか」と聞かれ、羽生は再び「報われなかった」という言葉を使った。

「僕はここまで競技を続けるにあたって、自分の中のどん底を何回も何回も見てきました。そういった意味でもまた、今回、人生って報われることがすべてじゃないんだな、と。ただ、報われなかった今は、報われなかった今で幸せだなと。不条理なことはたくさんありますけど、少しでも前を向いて歩いていけるように頑張っていきたいと思います」。そして、また「ありがとうございました」と口にした。

インタビューが終わると、記者たちが拍手でたたえた。メディアに優しい羽生には、メディアの側も優しい。

「ありがとうございました。またどこかで、お願いします!」と、羽生は言った。

またどこかで──それが3月の世界選手権なのか、ほかの大会なのか、あるいは競技以外の場なのかはわからない。ただひとつ確かなのは、次に私たちの前に姿を見せるとき、羽生結弦はメディアの中でひときわ輝きを増しているだろうということだ。

ジャーナリスト

メディアやスポーツ、さらにはこの両者の関係を中心テーマとして執筆している。NHK記者、『Newsweek日本版』副編集長を経てフリーランスに。早稲田大学政治経済学部卒、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)メディア学修士。著書に『メディアスポーツ解体』『スポーツニュースは恐い』、訳書にサイモン・クーパーほか『「ジャパン」はなぜ負けるのか──経済学が解明するサッカーの不条理』、コリン・ジョイス『新「ニッポン社会」入門』などがある。

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