投資信託については、投資教育がいわれるなかで、つい技術的側面が強調されてしまうわけですが、投資は、投資自体が目的ではなくて、いずれは投資した資金を現金に換えて消費することが目的であることを忘れてはなりません。長期投資が重要だとはいっても、長期とは消費計画との関連で決まる時間の長さなのです。上手に消費することに教育がいるはずもなく、ならば投資教育とは何なのか。

投資信託を購入する目的

 金融庁は、6月29日に公表した「投資信託の販売会社における比較可能な共通KPIについて」のなかで、次のように述べています。

 「顧客が投資信託を購入する目的は、基本的にはリターンを得るためであると考えられることから、長期的にリスクや手数料等に見合ったリターンがどの程度生じているかを「見える化」することが、顧客が良質な金融事業者を選ぶ上で、有益であると考えられる。」

 まさに金融庁のいう通りではありますが、ここには、金融庁のみならず、投資信託の普及に努めている人、投資教育に携わる人の多くに共通する根強い固定観念を明瞭にみてとることができます。固定観念という表現が否定的印象を与えるのならば、暗黙の前提といってもいいのですが、要は、投資の目的は投資そのものであるということと、投資は長期のものだという二つの前提です。

 しかし、「顧客が投資信託を購入する目的は、基本的にはリターンを得るためである」、これは正しい前提ですが、「リターンを得る」のは何のためでしょうか。「リターンを得る」こと、そのこと自体が目的だというのなら、それはゲームであって、金融の社会的機能とは関係のないことですし、ゲーム性を強くしていけば、投機性が強くなることはいうまでもありません。

 投資が金融の社会的機能ならば、というよりも、社会的機能としての投資だけについて語るのならば、金融の本質に従って、投資は時間のずれの調整に帰着するのですから、時間が問題になるのは当然のことではありますが、それが常に長期であるはずもありません。

投資の真の目的

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 投資は資金の運用ですが、資金自体に意味はなく、資金は消費されたときに意味を生みます。その消費の時点が現在ではなくて将来のどこかにあるとき、時間の利益を生かして資金の増殖を図るのが投資なのです。従って、投資とは、将来時点に予定された消費目的に対して、その定められた期間との関係において最適な方法により、合理的に期待される投資収益を稼得することになります。

 そもそも、投資収益を消費するのではなくて、投資元本を消費するわけですから、消費原資である投資元本を投資収益によって増殖させようと努力することの意味が問われなくてはなりません。

 いうまでもなく、基本的な動機は購買力の保存です。消費計画を期待通りに実現させるためには、少なくとも物価上昇分だけは投資収益で補う必要があるわけですが、このことは、むしろ逆に、投資が可能なのは、生きた経済の活動のなかに資金を投じれば、少なくとも物価上昇分だけは資金が増殖すると考えることに十分な合理性があるからだと説明したほうがいいでしょう。ちなみに、生きた経済に資金を投じるから、投資というのです。

 実際、日本の現実が見事に証明しているように、物価の上昇がないところでは、投資収益率の基礎となる金利もないのです。金利がなくても、購買力を保存する必要もない、即ち、投資する必要もない、それが日本の現実です。ここに、おそらくは、投資信託の普及を妨げている最大の原因があるのです。

金融庁のいう好循環

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 日本の金利がなくても、投資は全世界の広い領域に開かれていて、投資の機会は存在するわけですから、積極的に購買力の増大を図ることもできます。そして、まさに、これこそ金融庁の施策の目指すことなのです。

 金融庁としては、購買力を保存する必要がなくとも、購買力を増大させる目的で投資信託を普及させたいわけです。これは、金融行政の目的として、経済の持続的成長と国民の安定的資産形成とが併記させているところに顕著に表れています。しかし、金融庁の施策が最終的に効果を発揮するためには、増大された資金が消費されなければなりません。

 消費が刺激されることで経済成長を実現し、経済成長が実現すれば、緩やかな金利上昇と堅調な株式市場の動向が期待されることから資産が増殖し、そのことが更に消費を刺激する、これが金融庁の目指す好循環の実現なのであって、この好循環を必ず起動させること、そこに現下の金融行政の最大の課題があるのです。

投資のゲーム化

 もちろん、投資にはリスクがありますから、購買力が減少してしまう可能性もあります。しかし、投資のリスクを論じることは重要ですが、投資自体を目的として、より上手な投資を行うための技術的な問題としてのみ論じることには、投資をゲーム化する危険があります。

 ゲームは、それ自体として楽しいわけですが、修行して腕前をあげたいという思いは、実益もあることであり、ゲームとしての魅力を高めていきます。世のなかには、投資ブロガーとか、投信ブロガーという人がいるそうですが、その周辺に集まるような人たちがゲームとしての投資の独特の世界を作っているのでしょう。

 確かに、投資信託の普及には、投資に魅力のあることは大切ですけれども、ゲームとしての魅力では、逆に、多くに人にとって、仮想通貨やFXなどの投機的行為との連続性を印象つけてしまいかねません。ここにも、投資信託の真の普及を妨げている原因があるように思えます。

 投資のリスクは、ゲームとしての投資においてではなく、投資の社会的機能において考えられねばならないのです。つまり、投資した資金が最終的には消費されるのならば、投資のリスクではなくて、むしろ、消費のリスク、より正確には、消費計画の実現度のリスクが問題であるはずだということです。

消費計画と投資

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 手元に500万円の預金があるのですが、いずれ住宅を購入する計画があって、そのときに頭金として消費される予定であるとしたときに、その500万円を投資すべきか、投資するとして何に投資すべきか、この検討こそが投資のリスクについて考えることにほかなりません。このとき決定的に重要な論点は、「いずれ」という時間の具体的な長さです。

 まさか、数か月後に住宅を購入するというときに、投資信託での運用を考える人などいないでしょう。仮に株式市場の急落があったとして、短期的な反発が見込まれると信じて、全額を株式の投資信託にすることは妙味のあることですけども、それは投資というよりも投機と呼ぶべきことであって、冒すべきではないリスクを冒すことではないでしょうか。

 しかし、住宅を購入する計画に具体性がなく、実のところ賃貸で満足していて、逆に、仮に500万円が大きくなったら住宅を買ってもいいなというような心持のときは、投資信託の運用を検討したらいいでしょう。その際、どれだけのリスクをとっていいのかは、心持の決めることであって、投資の技術の問題ではありません。

リスク管理よりも家計規律

 住宅ローンの頭金として用意していた資金を下手に運用して家が建たなくなるとしたら、それは投資のリスクのとり方が稚拙だからではなくて、家計規律が欠如しているからです。消費が確定している資金は投資しない、この家計規律がリスク管理の基本であるわけです。

 金融庁は資産形成という言葉を用いますけれども、投資によって資産が形成される以前に、投資は投資元本としての資金が形成されない限り始まり得ないということが重要であって、住宅ローンの頭金の例でいえば、その頭金は投資によって生まれたのではなく、家計規律によって所得の一部を取り除けておくことによって形成されたわけです。この頭金の形成における家計規律の習得があるからこそ、頭金の運用についてのリスク管理が機能するのです。

 老後生活資金の形成において、自助努力の必要性が強調されるようになってきて、そこに金融庁の重点施策である積立NISAが位置づけられるわけですけれども、積立は半ば強制的に家計規律を働かせる仕組みであって、家計規律が働くからこそ、老後という遠い先まで消費されることのない資金の運用計画が長期の視点において立案され得て、そこに合理的なリスクのもとで元本を増殖させる可能性が開けるからこそ、豊かな老後生活への期待も生じるわけです。

消費のリスク

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 家計規律による資産形成は、リスクをとらないことが合理的であるときに、うまく機能するわけですが、合理的なリスクをとるべきときには、うまく機能しません。つまり、家計規律が規律として禁欲的、もしくは硬直的になりやすいのです。ここにも、投資信託の普及を妨げる原因があるようです。

 そこで、先ほどの例のように、住宅ローンの頭金としても使えるけれども、住宅購入の具体的計画がない場合において、投資信託による運用を実践してみて、成果が生まれたことで住宅購入が促されるというような経験が必要なのでしょう。金融庁もいうように、合理的なリスクのもとでの投資信託の運用を普及させるためには、成功体験の積み重ねがなくてはならないのです。

 しかし、実践しないかぎり成功しませんが、どうしたら実践が始まるのか。投資のリスクをとるということは、消費のリスクをとるということですから、消費のリスクをとっても構わない資金の投資から始めるべきでしょう。実際、資金が変動しても、変動した資金に合わせて消費すればいいような場合は多いのではないでしょうか、例えば、旅行、車の購入などです。

投資の楽しみ

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 投資がうまくいけば、より良いものが買える、うまくいかなくても、最低限のものは買える、だからこそ投資が楽しいのです。そして、投資信託は生活の役にたってこそ、社会的意味があるのであり、楽しいから普及するのです。その楽しさは、生活の外のゲームの楽しさとは違って、生活の楽しさであり、見えない長期の先にあるものではなく、生きている今、このときに、享受するものです

 また、この楽しさは、巷の投資教育といわれるものには完全に欠落しています。しかも、投資のリスクに関しては、理論よりも理論的にわかりやすい構造になっています。許容できるリスクとは、最低限これだけの資金は確保したいという限界の設定にほかならないからです。

 実は、老後生活資金ですら、最低生活保障分が年金等で確保されているのなら、自助努力分は消費のリスクをとっても構わないはずなのです。老後生活保障に代替するものとして、投資信託による自助努力を促そうとすることは、政策の完全な誤りというほかありません。

 最低生活保障があるからこそ、自助努力分については、リスクをとって豊かな生活を目指すことができるのであって、そこに老後の楽しみがあるのです。老後の不安を煽ることによっては、決して投資信託は普及しません。

 この問題を主題としてとりあげるのが金融庁のいうフィナンシャルジェロントロジー、あまりに長たらしい片仮名なので金融老年学と訳すらしいですけれども、とにかく、その長たらしいものの本質ですが、要は、長たらしくて難しそうで楽しそうでないものを、楽しいものに変えることが大切なのです。