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冒険者はリスクを冒さない

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

冒険者とは、読んで字のごとく、危険を冒す人のことでしょうから、冒険者がリスクを冒さないとは、さて、どういうことか。それは、冒険者の自覚では、リスクは完全に制御可能なものとして認識されており、リスクに対する姿勢において、リスクを冒すという表現が不適切であるような境地に、冒険者は立っているということです。

冒険者の確信と計算

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大航海時代に、未知の世界へ向けて出帆した冒険者は、航海の成功を信じ、生きて港に帰ることに、少しの疑念も抱かなかったに違いありません。もちろん、危険であることは承知していたでしょう。しかし、いかなる危険も克服できるとの自己の能力に対する自信のもとでは、危険の存在は、少しも出帆を妨げる要因ではなかったはずです。

未知の世界への航海は、冒険者にとって、それ自体が目的だったのではありません。巨額な経済的利潤が強い誘因として働いたことは、間違いないのです。ならば、そこには、計算があったはずです。予想される危険もまた、計算されていたに違いないのです。そして、計算の合理性は確信を強め、自信と計算が融合したとき、危険は完全に制御下におかれたものとなったのです。

危険といっても、それは不確実なものです。起こることが事前に確実なものとして知られている事故や災害は、もはや、事故でも災害でもなく、その対策費は予定に組み込まれた費用となり、完全な制御下におかれます。逆に、危険が完全な制御下におかれたならば、それは、もはや危険ではないでしょう。故に、冒険者は危険を冒さないのです。

さて、ここでいう危険は、多くの場合、リスクと呼ばれています。敢えて、片仮名でいう実益を考えるに、危険は単なる危険ですが、リスクは制禦された危険ということです。そこで、危険に替えてリスクという言葉を用いるならば、冒険者はリスクを冒さない、という表題になります。

冒険者本人の決断

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とはいえ、冒険者はリスクを冒さないというのは、客観的に存在するリスクを、主観的には、認識していないだけのことで、はたから見れば、明らかにリスクを冒しているとも考えられます。しかし、冒険をするのは冒険者本人ですから、他人には関係ないことではないでしょうか。航海という行為の実践が問題であるとき、傍観者の立場に何の意味がありましょうか。

航海が実行されたからこそ、世界経済は成長したのです。成長の原動力は、冒険、まさにベンチャーにあったのです。いうまでもなく、起業という意味のベンチャーは、冒険という意味のベンチャーと同じものです。

起業家は、大航海時代の冒険者と同じく、確信に満ち溢れていて、事業構想という計算に基づいて行動するのですから、リスクを冒すという自覚など全くないはずであり、周辺の傍観者の心配や皮肉や嘲笑などは耳に入らないはずなのです。そうでなければ、起業などできない。

信念の共同体

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では、冒険者も起業家も、一人の力では、何もできないはずで、多くの人の協力や参画が必要でしょうが、さて、そのような周りの利害関係者にとっては、やはり、リスクを冒しているという自覚があるのではないか。

冒険者はリスクを冒さない、しかし、冒険者に資金供与する人、例えば、大航海時代の王侯貴族や、航海に付き従った配下の人は、リスクを冒している、起業家はリスクを冒さない、しかし、起業家に資金供与する人、例えば、ベンチャーキャピタルや、一緒に働く同僚や部下は、リスクを冒している、確かに、そのように考えるのが自然です。

しかし、ここも、論点は、確信と計算ではないでしょうか。冒険者や起業家には、自己のもつ確信に他人を引き摺り込むといいますか、他人のなかにも同じ確信を作り出すような人間的な力があるはずです。また、緻密な計算は、他人に対して、強い説得力をもちます。

個人の信念だけでは、業は起こせませんが、個人の信念を核にした共同体ができれば、業は起こせるはずです。その信念の共同体のなかでは、誰もリスクを冒しているとの自覚はもたないでしょう。

リスク管理の専門家

しかし、それは、信念を共有する共同体というよりも、リスクを共有する共同体ではないかとも考えらます。ただし、リスクを共有するというよりも、参画者が各自の立場で管理すべきリスクを分有する共同体というべきですが。

実際、航海だろうが、他の何かの事業であろうが、業を起こすには、複数の専門家の組み合わせが必要です。資金を出すことも、一つの専門性であり、そこに固有のリスク管理の技法がなくてはなりません。つまり、固有に管理すべきリスクの数だけ、そのリスク管理の専門家が必要だともいえるでしょう。

そのように専門家を適材適所に配置することで、共同体の内部ではリスクが適正に管理されることを通じて、結果的に、経営者、即ち業を起こすことの指導者は、リスクを冒さずに業に専念できるというのが、航海にしろ、起業にしろ、リスクをとることの現実のあり方であるはずです。

要は、危険を冒せるのは、危険はリスクとして制御下にあるとの信念、故に危険はないとの信念のもとでのみ可能だということであり、その信念は、危険をリスクとして制御できるだけの技術等の必要資源の裏付けがあってこそ、成り立つということなのです。

信念と盲信の違い

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信念は、思い込みではなく、無反省な安心でもありません。確かな技術や経験に裏打ちされ、また人的資源やその他の諸資源の適正な構成によって支持されてこそ、信念として成立するものです。その信念のなかでは、リスクは、単なる危険としては認識されず、可能性として計算され、専門技術によって制御されるのです。ですから、リスクは冒されていないのです。

信念の共同体自身の立場においても、それを外部から客観的にみたときにも、リスクは冒されていないのです。リスクを冒さないことによって成り立つ起業は、科学の地平にあり、社会的に是認されるものです。

ところが、危険が制御されていない起業、危険を冒すことによってなりたつ起業は、偶然性を避け得ない。ここでは、危険がリスクとして計算されておらず、故に事前にリスク管理の対応がとられていないので、信念は単なる経営者の盲信(多くの場合、根拠のない自信、というよりも幻想か夢か、に基づく妄想ですらありましょう)にすぎないものなってしまいます。

逆にいえば、そのような盲信のもとでは信念の共同体を形成することができないが故に、リスク管理に必要な人的資源、資金、その他の経営資源の調達ができず、危険を科学的に制御できる体制を構築できないのです。ですから、そこでは、起業家は危険を冒すのです。危険を冒せば、成功は単なる偶然にすぎなくなります。

日本のベンチャーの問題点

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残念ながら、日本では、ベンチャーとは危険を冒すことだと考えている人が多いようにみえます。起業家精神の不在とか、大胆な挑戦する心意気ある人材の少なさとか、資金調達の難しさとか、特に米国との比較において、多くの論評がなされていますが、私は、日本の起業の多くは、危険を冒すものにすぎず、金融の社会的機能としての投資の立場からは、到底、取り組み得ない対象であろうと考えてきました。

ベンチャー投資が投資として成り立つためには、起業にかかわる危険がリスクとして制御されていなければならない。制御できるだけの、人的資源や、その他資源の構成が整えられていなければならない。そこに、最後の要素として、資金の投入が検討されるからこそ、投資の可能性が科学の地平で成立するのです。

未知の世界への航海は、しっかりした準備のもとに行われてこそ、成功するのです。まさか、気合と根性と無謀な冒険心のもとで、小舟で船出しても、成功するはずもない。これは、当然ではないでしょうか。

起業の成功の重要な要素の一つは、確かに、信念の共同体の求心力の核としての起業家の人間力にあるのでしょう。ですから、そこで、起業家精神のような形で、起業家の人的資質を論じることに意味がないわけではありませんが、より重要な要素は、信念の共同体を構成する諸資源の編成、即ち、合理的な事業構想のもとでの科学的計算に基づく緻密な準備であり、その諸資源の調達です。

ですから、未知の世界への航海は、それなりの規模の船を用い、それなりの数の技術力ある乗組員を伴って、それなりの資金力のもとでのみ、出帆し得たのであり、だからこそ、成功もできたということでしょう。

ベンチャー投資だけでなく、そもそも、投資とは、リスクを冒さないことです。投資とは、危険が科学的にリスクとして制御されていることを前提にしてのみ、成り立つ行為です。そこでは、リスクは冒されているのではなく、制禦されている、あるいは管理されているのです。故に、リスクを冒すことは、投資における最大の誤謬です。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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