企業年金の資産運用におけるフィデュシャリーの責任

フィデュシャリーというのは、いうなれば、何かを信じられて託された人のことです。何かを信じて託した人と、信じられて託された人は、特別な信認関係(フィデュシャリー関係)にあるわけです。この関係を基礎に、企業年金の資産運用責任のあるべき姿を検討しようということです。

曖昧な「受託者責任」

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フィデュシャリーは、Fiduciaryであって、英米法の概念です。しかし、最近では、日本でも、主に企業年金の資産運用を舞台に、フィデュシャリーの責任のあり方が論じられます。そして、多くの場合、このフィデュシャリーの責任に、「受託者責任」という訳語があてられています。

受託者というのは、法律用語としては、信託の受託者のことです。企業年金の資産運用には、信託銀行が大きな役割を演じていますが、企業年金の資産運用を論じているときに、曖昧に「受託者責任」などというと、狭い意味で、信託法上の信託銀行の受託者としての地位にかかわる責任なのか、広い意味で、企業年金の資産運用の関係者のフィデュシャリーとしての責任なのか、わからなくなってしまい、混乱のもととなります。

同じようなことは、受益者についてもいえます。受益者というとき、信託法上の受益者を意味するのか、企業年金制度の受益者としての加入員と受給者をいうのか、そこにも多少の混乱があるように思えます。

実のところ、こうした用語法の普及の意味するところは、信託銀行を中心にして、信託法に基づき、法律上の委託者・受託者・受益者関係が論じられる一方で、企業年金制度を中心にして、企業年金制度を律する法律に基づき、信託法の概念を比喩的に援用しながら、法律上の信託を擬制した形で、実質的な委託者・受託者・受益者関係が論じられているのだと思われます。

米国法の援用

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企業年金を論じるときに、よく参照されるのは米国の制度です。米国では、実際に、企業年金制度のなかにも、その資産運用のあり方のなかにも、同じTrustの法理が働き、関係者には、同じFiduciaryとしての責任が課せられているのです。

いうまでもなく、企業年金の資産運用にかかわるフィデュシャリーの責任が日本で論じられる背景には、米国の企業年金制度におけるTrustと、そのTrust関係のもとにおけるFiduciaryの責任の構造を、比喩的に、もしくは、立法論的に、参照する論者が多いからです。

当然のことながら、日本と米国では、法律の構造が全く違います。企業年金制度における資産運用を律する法律の構造も全く違います。全く違うにもかかわらず、米国法が参照されるのは、おそらくは、米国型の規制と日本型の規制を比較したとき、立法論的に、日本法の一つの改善の指針として、米国法が援用されているのだろうと思われます。

しかしながら、裁判実務において、いかに米国法の理念をもちだしても、効果は極めて限定的なものになります。というよりも、ここは日本なのですから、日本法が支配するということで、終わってしまうでしょう。故に、米国法の参照は、あくまでも、立法論の次元にとどまるのです。

さて、その立法論ですが、核心部は、日本の企業年金の資産運用の責任者に課せられる責任が、米国のTrustのもとのFiduciaryの責任と比較したとき、曖昧にすぎて、実効性に乏しいのではないかという懸念に帰着するのだろうと思われます。

加えて、日本においては、資産管理業務を行う信託銀行が負う信託法上の受託者としての責任と比較したとき、企業年金基金自身の内部における比喩的意味における「受託者」の責任は、その意味自体も必ずしも明瞭でないだけでなく、信託銀行が負う法律上の受託者責任との関連も不明確であるという問題があるのです。

故に、一方では、立法論として、米国法と比較したときの日本法の不備がいわれ、他方では、現実の訴訟実務において、日本法の解釈にできるだけ米国法の理念を持ち込もうとする努力が続けられることになるのです。これが、日本の企業年金において、ことさらに米国法のFiduciaryの責任が論じられる背景です。

なお、日本法との関連で米国法が引用されるのは、それほど普通のことではなく、稀なことのような気がしますが、それは、日本の信託法が、日本法としては珍しく、英米法を接受したものだからだろうと思われます。

防げたはずの九州石油業厚生年金基金訴訟

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事実、九州石油業厚生年金基金の訴訟においても、判決のなかに、米国法との違いに言及したところがあります。

この訴訟は、自ら逸脱した資産運用の判断を行い、その結果、巨額な損失を受けた基金が、資産管理を受託していた信託銀行に対して、信託銀行には基金の暴走逸脱を止める助言義務があったとして、損害賠償を求めた裁判です。いうなれば、自己の不適切な行為を棚上げし、その不適切な行為を止めなかった信託銀行を訴えるという、醜悪な裁判です。

一審では基金の全面敗訴ですが、判決は、米国の制度においては、そのような助言義務が受託者にあることに言及したうえで、日本の制度は異なるとしていました。

米国法では、Fiduciary間の一種の連帯責任が認められることから、Fiduciaryとしての信託銀行も、Fiduciaryとしての基金の資産運用管理責任者と同等の義務を負い、故に、基金の暴走を止める責任が信託銀行にもあったということになるのです。

しかし、もしも、そうならば、そもそも、今回の基金のような事態は、事前の信託銀行からの牽制によって未然に防止されたはずであり、ましてや、このように連帯責任を負うFiduciary間で争うというような醜い訴訟も起き得なかったのです。ここに、今後の課題として、立法論的に、米国法が参照される意味があるのです。

立法論的には、規制の機能として、不適切な行為を関係者間の相互監視のもとで未然に防止することが重要なわけで、そのためには、関係当事者間の関係を、米国流の連帯責任的なものにするかどうかは別として、日本にも、当事者間の責任関係を明確にするような手当てが必要であることは明らかでしょう。そのことを、九州石油業厚生年金基金の訴訟は、示唆していると思われます。

米国法を参照することは、日本の制度の改革にとって非常に有意義だということです。もちろん、米国流を日本に輸入する必要もないわけですが、それでも、米国のTrustの理念は、立法の経緯からして、日本の信託法の信託の理念にも通底するはずで、その理念に基づいて、日本の企業年金制度のあるべき姿を提言するとすれば、どうなるか、これは、非常に意味のある議論だと思います。

米国のTrustのおけるFiduciaryの責任

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では、米国の企業年金制度におけるTrustの仕組みはどうなっているのでしょうか。

要点は、企業年金制度(公的年金制度も同じです)自体のなかに、Trustの関係を認めることです。つまり、企業年金等の資産運用には、多くの関係者が関与するわけですが、それら広範囲の関係者は、全てFiduciaryとみなされるということです。このことの意味は、日本人には、極めてわかりにくい。

そもそも、Trustは、一定の要件を備えた信認関係にある人の間に適用される法理(Equity、即ち、衡平の法理)であって、日本の信託のような実定法に規定される契約関係から帰結する当事者間の関係ではないのです。

このTrustのもとで、信認関係によって拘束されるのがFiduciaryです。日本の信託では、受託者に該当しますが、概念として、全く違うものです。日本の受託者は、信託契約で具体的に定められた人であり、その責任も具体的に規定されています。ところが、Fiduciaryは、Trustの関係が認められたときに、そのTrustの本旨に拘束されるものです。

さて、米国では、企業年金や公的年金等の資産運用に携わるものにつき、法律により、Trustの法理に拘束される、つまり、重い注意義務と忠実義務を課せられるFiduciaryの範囲を具体的に定めています。そのなかには、制度の内部の資産運用管理責任者だけでなく、資産管理を受託した信託会社や、外部の運用会社も含みます。

要は、資産管理につき、裁量権をもって資産の管理処分に携わるものは、名称の如何を問わず、全て重い責任を負うFiduciaryとみなされるのです。逆に、裁量権をもたないFiduciaryもあるわけで、例えば、アクチュアリーとかコンサルタントは、Fiduciaryには違いなく、それなりの責任を負うわけですが、その責任は、裁量権をもつFiduciaryに課せられる重い責任とは、基準を異にしているのです。

ところで、これらのFiduciaryたちを拘束するTrustは、理念的なものですから、そこに具体的な信託契約のようなものがなくとも、委託者・受託者・受益者の関係を観念できるわけです。このとき、委託者は年金制度、受益者は制度の加入員と受給者であることは自明として、受託者は誰かといえば、年金制度の内部ついてみると、それは年金制度自体であり、委託者と受託者とは同一になるわけです。故に、このTrustは、日本でいえば、自己信託とみなせます。

そして、年金制度の外部者(資産運用会社等)は、受託者としての年金制度自身と連帯して受託者となっているとみなされ、そこに共同受託的関係が構成されているということです。

日本法への示唆

それでは、日本法への示唆として、どのようなことが考えられるでしょうか。

直接的に米国式を取り入れるならば、企業年金制度、具体的には確定給付企業年金基金と厚生年金基金の内部組織のなかに、信託法上の自己信託として、委託者と受託者の関係を擬制、もしくは明示的に確立することでしょう。

つまり、理事は、委託者として、自らを受託者とする信託の契約を結んでいるとみなす、あるいは、本当に信託契約をする、即ち、理事に就任するということは、信託契約の受託者に就任することと同じことだということを、法律の文言上、明示するということです。

いうまでもなく、この信託において、受益者は、制度の加入員と受給者です。そうすることで、加入員と受給者は、まさに制度の目的となっている利害関係者として、自らの利益を守るために、当事者として登場し得ることになります。

それでは、機関をもたない規約型の確定給付企業年金基金については、どうなるかといえば、それは、はるかに、単純になるのではないでしょうか。基金型の確定給付企業年金基金と厚生年金基金の場合、法人格をもつが故に、法人内部に、法人類似の信託を設定するという、いささか高度な技巧を凝らすことにならざるを得ません。しかし、規約型の場合は、制度自体を信託とみなすことで、重畳的関係を回避できます。

要は、規約型の場合、母体企業の自己信託として、自らを委託者兼受託者とし、受益者を加入員と受給者にすればいいのです。私は、確定給付企業年金基金は、規約型に統一すべきであるとすら、考えています。もともと、基金型の確定給付企業年金基金は、厚生年金基金から代行返上によって移行したものなので、その歴史的経緯を引きずって、独立法人型になったにすぎないわけです。今となっては、規約型と基金型を並立させる意味もないと思われます。

また、運用機関等の基金外部のフィデュシャリーの責任については、年金基金という一つの信託のなかにおける諸フィデュシャリー間の関係というふうに統一的に理解されることが重要です。

例えば、投資運用業者について、米国型のように、共同受託者的な連帯性を求めるのも一つの考え方ですし、日本の現在の法律関係を維持するならば、委任契約における運用指図代理人として、信託の業務の一部を代行する受任者として位置づけることもできます。

また、現在の信託銀行の位置も、その相当部分が、資産運用にかかわる事務代行であることを考えれば、それらの機能も、信託の業務の一部委任とすることができるでしょう。

要は、法政策の問題ですので、実情に合った制度を工夫すればいいことです。ただし、大切なことは、年金基金を一つの信託とし、その信託の第一義的な受託者である年金基金自身の資産運用管理責任を中核として、他の運用機関や事務代行者等のフィデュシャリーの責任を、そのもとに統合することです。