バンカブルというのは、銀行の融資対象になるという意味です。原子力発電事業は、原理的にはバンカブルではないが、制度的に工夫をすることで、バンカブルなものにしてきた。その工夫こそが、産業金融の王道であったわけですが、脱原子力は、電気を生まないわけだから、そもそも産業金融の対象にすらならないのです。

ですから、原子力発電を止めるということは、金融的には、非常に困難な大問題であるわけです。なにしろ、廃炉というのは、長い時間のかかる大事業であり、大きな金額の費用もかかるのですが、電気が生まれるわけでもなく、売上げが全くないわけですから、金融的に支援のしようがない。原子力発電所をもつ電力会社が、余裕資金を使って廃炉作業を行うしかないと思われます。

しかしながら、構造的赤字体質に転落してしまった今の電力会社に資金的余裕などあるはずもないのです。加えて、脱原子力の方向に進むということは、代替電源開発のために大きな投資をしなければならないわけですから、なおさら、資金的余裕などあるわけがないのです。さて、どうするのか。

廃炉原資の問題については、何らかの金融的側面からの工夫が必要なはずです。そうでなければ、廃炉自体が不可能です。といって、まさか、危険な原子炉を廃墟として放棄しておくこともできないでしょう。

また、原子力発電を続けるにしても、立地の地質学的再調査の結果によっては、廃炉になる施設ができるのかもしれません。安全基準の厳格化に伴う改修費用の著しい増加も見込まれるでしょう。さらには、現状のように、精密な点検のための停止期間が長くなれば、それも実質的な費用増につながります。原子力発電は、続けるにしても止めるにしても、経済的には困難なものになってしまいました。

もはや原子力事業はバンカブルではないということです。しかし、現に原子力発電は行われているのだし、仮に原子力発電を止めるにしても、完全な廃炉終了までは、廃炉作業を含めた原子力事業の全体をバンカブルに維持しておかないといけません。

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まずは、どのような仕組みで原子力事業をバンカブルなものに維持してきたのか、その根本を再確認しておきましょう。

原子力事業だけでなく、電気事業については、巨大な装置産業であることから当然に帰結する設備投資資金の確保の問題に関し、国策としての工夫が凝らされてきました。原子力事業を含めて、電気事業の全体は、一方で民間事業として推進されるとともに、他方で育成と保護のための諸規制が国策として実施されてきたのです。とりわけ、資金調達の仕組みには、手厚い保護措置が講じられてきました。

金融の立場からいえば、収益が安定していて赤字になる可能性のない会社が最もバンカブルであるわけです。当然ですね。電力会社は、事実、規制によって赤字になることがないように保護されてきました。その仕組みが、地域独占と総括原価方式です。

地域独占により、10社の電力会社が相互に競合することのないように地域割りを定めてあるのですから、競争相手がないわけで、売上は保証されているようなものです。総括原価方式とは原価に基づいて電気料金を決める仕組みですから、論理的に赤字になることがない。この二つの仕組みによって、電力会社は最もバンカブルな企業となっていたので、巨額な設備投資のための資金調達が極めて簡単にできてきたのです。

それでも、原子力発電事業だけは、その特殊な危険性のためにバンカブルではなかったので、政府は、「原子力損害の賠償に関する法律」を作って、「異常に巨大な天災地変」による免責や免責が排除されたときの政府の支援義務を定めて、原子力事業もバンカブルにしてきたのです。ゆえに、原子力事故後も、東京電力向けの金融債権は全額正常債権にとどまり、東京電力が原子力事故にもかかわらずバンカブルであることを実証したのです。

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念のためですが、原子力事業を含む電気事業の全体について、制度的には何らの変更も加えられていないのですから、仕組み上は、電気事業者はバンカブルです。しかしながら、将来に向かって制度が根本的に変わってしまう可能性を否定し得ない状況が生まれているので、電気事業者は絶対的にバンカブルであるとの神話が大きく揺らいでいるのです。

なかでも問題の焦点は、脱原子力に要する費用、あるいは原子力発電を継続するにしても、安全基準の厳格化に伴う追加費用(地質学的に存置を否定された施設の廃炉費を含む)が、電気の原価を構成するかどうか、また、原価を構成するにしても電気料金への転嫁が認められるかどうか、という総括原価方式の見直しをも含む大きな問題に絞られます。

実は、原子力発電施設に関連する費用が、廃炉費も含めて、電気の原価になるのであれば、電気事業の構造は全く変わらないわけで、電力会社は完全にバンカブルなのです。総括原価方式の考え方からいえば、発電施設費は全て原価です。改修費はもちろん、設備の除却費も原価です。電気安定供給体制は、計画的な新施設の建設、現存施設の維持管理、老朽施設の除却更新の総合的な体系を意味しているので、その体制維持のための費用の総体が原価であることになるのです。

どの原子力発電所も老朽化による自然廃炉は予定されているわけで、それに要する費用は計画的に計上されていて、いままでも原価を形成していました。逆にいえば、従来の安全基準、従来の地質学的知見、従来の地震や津波の危険についての知見、従来の予定耐用年数を前提とし、そして何よりも原子力発電の半永久的継続を前提としたうえで、科学的に見積もられた廃炉費用だけが原価として計上されてきたということです。これ以外の費用は見積もられていないし、その原価性については必ずしも明確ではありません。なにしろ、政府の指針も方針も明らかにされていない。ここに、問題があるのです。

原子力発電の継続か廃止かにかかわらず、著しく費用が増加したと考えられるのに、その増加費用の負担のあり方が不透明なのですね。ですから、そのような不確実性を抱えた電力会社がバンカブルではなくなってしまったのです。

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電力会社の立場からいえば、国策としての原子力政策の転換によって、前提条件が大きく変動したのですから、そのことに伴う費用増は、政府責任で補償してもらうか、当然に原価性を認めてもらって電気料金に反映させるか、そのどちらか(もしくは二つの適当な組み合わせ)でなければならないでしょう。

継続か廃止かにかかわらず、程度の差こそあれ、原子力発電について国民負担を求めるということですが、何となく、到底、理解を得られそうもない感じがしますね。しかし、ここは、政治責任で決着をつけるしかないところです。旧民主党政権では決められなかったことですが、さて、新自民党政権では決められるのか。よくわかりませんね。困ったことです。

国民感情の視点は、わからないわけではないのですが、原子力発電は、表面的には民間の電力会社の事業として行われてきましたが、もともと電源構成の多様化という国策として認められてきたものですから、その政策による利益が国民のものだったとしたら、その政策の変更による費用も国民のものではないでしょうか。

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一番簡単な政治責任の果たし方は、原子力発電施設の国有化です。国有化すれば、廃炉費や施設維持管理費の全てが、政府負担となります。これが一番いい。そういう方向での検討は、とうに政府内部で行われているのではないでしょうか。とにかく、原子力発電をめぐる不確実性を確定的に断ち切り、電力会社を完全にバンカブルなものにしなければいけないのです。なぜなら、電気事業は産業の基盤であり、国民の生活の基盤なのであって、その大規模な構造改革が必須で行われなければならないときには、当然に巨大な設備投資のための資金需要が発生するのですから、その資金調達を円滑化ならしめることが社会的に絶対に必要だからです。そのためには、原子力国有化が一番いい。国有化しかない。

原子力国有化が必要なのには、他にも理由があります。第一に、原子力発電施設の資産計上の方法をめぐる困難な問題、第二に、原子力事業に関する技術者の確保と効率化の問題、この二つの理由です。

仮に計画廃炉ということになれば、原子力発電関連資産の再評価は不可避です。また、廃炉費用の事前計上も必要になります。完全廃炉までの期限の切り方にもよりますが、資産価値の減損の程度によっては、原子力発電施設をもつ電力会社は、債務超過に陥る可能性が高いのではないでしょうか。いずれにしても、実質的な意味での債務超過は避けられないと思われます。そうなれば、資金調達は事実上不可能です。それを回避する策は、原子力施設の簿価による政府への移転しかない。

また、原子力事業の縮小もしくは完全廃止という条件のなかでは、原子力技術者を確保するのが難しくなると予想されます。安全な廃炉には、原子力発電の継続拡大と同じように、多数の技術者が必要です。さて、その要員をどう確保するのか。到底、各電力会社単位では、確保できないのではないでしょうか。しかも、収益を生まない廃炉だけに、効率化も必要です。必要最低限の要員で効率的な廃炉作業を行うためには、施設管理を政府に集中させるほかないのではないでしょうか。

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新政権は、電力自由化の方向です。自由化は競争を意味しているのでしょうから、その意味では、既存の電力会社から原子力発電という重荷を取り除く必要もあります。競争は、既成勢力も新勢力も、同じ条件の上でないと不公平ですから。

もっとも、このようにいうと、国民感情の反発を受けそうですね。しかし、送電網の公共化が自由化の前提だというのならば、原子力発電の国有化もまた、自由化の前提だと思われます。ここも、政治の決断です。

ところで、原点に返って考えてみると、自由化は電気事業をバンカブルでなくしてしまうかもしれませんね。なにしろ、これまでは、規制によってバンカブルにしてきたのだから、その規制がなくなると困るでしょう。

ただし、正確にいえば、電気事業の総体は、自由化によってもバンカブルです。電気という社会的必要性に裏付けされた産業においては、総体としての収益性は確かですから。しかし、自由化によって生まれる多数の電気事業者の個々についてみると、競争が収益の安定性を損なうでしょうから、バンカブルではないものもたくさんできるでしょうね。一方で、どの事業者も大きな設備投資のために資金を必要とするのだから、これは、困ったことですね。

自由化によって効率化と革新を図るというなら、多数の参入電気事業者の資金調達を容易にする仕組み、つまり個々の電気事業者をバンカブルにする仕組みを作ることが先決です。事実、「再生可能エネルギー法(電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法)」は、固定価格買取り制度によって、事業者の資金調達を容易にするための法律です。結局、新たなる国民負担を導入する規制なのです。他にも高度な工夫がないと、自由化は、事業者破綻の危険を大きくすることで金融面での行き詰まりを招き、電気安定供給を危機に陥れかねないのです。

自由化は必要かもしれない。しかし、冷静に原点の問題を考えていただきたい。電気事業は巨額な資金調達を必要とする産業であり、しかも社会的に絶対に必要な基盤を形成する産業です。ですから、これまでは、制度的に資金調達を安定化する工夫がなされてきたのです。それが規制や保護の背景です。自由化によっても、資金調達を安定化させる工夫は絶対に必要です。それを新たなる規制や保護と呼ぶかどうかは、言葉遊びです。

民間の金融機関の論理では、自由化後も電気事業の総体がバンカブルであったとしても、電気事業者の相当数はバンカブルなものとして認め得なくなる。これまでの規制では、地域独占等の工夫により、電気事業の総体がバンカブルなのは当然とし、かつ、個々の電気事業者も完全にバンカブルにしてきたのです。自由化は、金融の論理からいうと、大変な変革を意味することになります。さて、どうするのだ。