地下鉄サリン事件25年 若者たちの“先生役”だった高橋シズヱさんへ ありがとう 

3月20日(金)NHK『ニュースウォッチ9』筆者が画面を撮影

「どうかバトンを受け取って」

地下鉄サリン事件・がんばり続けた25年、遺族の高橋シズヱさん「どうかバトンを受け取って」

出典:ヤフーニュース個人(江川紹子)「地下鉄サリン事件・がんばり続けた25年、遺族の高橋シズヱさん『どうかバトンを受け取って』」

 1995年、3月20日の地下鉄サリン事件で最愛の夫を失って以来、長いこと"遺族の代表”“事件の顔”としてメディアの前に立ち続けてきた高橋シズヱさん(73)がこの日、各社のニュースに登場した。

 25年が過ぎたこの日を最後に、地下鉄サリン事件をめぐる活動の表舞台から身を引くと公表したのだ。

 地下鉄サリン事件と高橋シズヱさんについてくわしいことは事件を長くフォローしているジャーナリストの江川紹子さんの記事に委ねることにしたい。

 筆者は大学教員という立場で高橋シズヱさんとかかわった者だが、高橋さんが学生のために果たしてくれた役割を伝えることは意味があると考え、この文章を書いている。

 高橋さんがバトンを手渡したい相手は、日本の政府、とりわけ公安関係者や司法関係者、メディア関係者、教育界など幅広いはずだが、それだけではない。その中には「若者」というイメージがあったことは間違いない。高橋さんには、これからメディアの世界に進んでいく学生たちにとって、“よき先生役”だったという一面があったからだ。

 「地下鉄サリン事件代表世話人」として高橋シズヱさんが警鐘を鳴らしたきたことで、その後に日本社会が姿勢を改めるに至った点は少なくない。

 オウム真理教のようなカルト集団に対してしっかり監視することができず化学兵器による無差別テロを防止できなかった公安や警察のありよう。

 大きな事件のたびにメディアが被害者の元を押し寄せて関係者の"悲しみの声”を執拗に狙う「メディア・スクラム」のようなメディアの姿勢。

 「被害を受けた側」の人たちが刑事事件の裁判などに立ち合うこともできなかった司法のありかた。 

 「被害者」という立場で、その背中に数多くの被害者やその家族や遺族の存在を背負いながら、高橋シズヱさんは時に毅然と、時に厳しく、言葉を発してきた。そのことで社会は少しずつであっても、「前に」進んできた。「改善」されてきた。 

 だが、高橋さんはその一方で若い世代には"別の顔”も見せていた。それが"先生のような役割”だった。

 筆者は数年前から、高橋シズヱさんが毎年3月に行ってきた「地下鉄サリン事件の集い」に学生を連れて参加するようになった。 

 連れていった学生たちの中から高橋さんを取材対象としてドキュメンタリーを撮りたいと言う声が上がったのは3年前の春だった。

 学生が連絡を取ると高橋さんは「何でも聞いていいのよ」と気さくな感じで応じてくれた。

 学生たちが完成させた10数分のドキュメンタリーはコンクールでも入賞したほか、オウム真理教受刑者の死刑執行が迫っていた状況もあって学生たちも新聞やテレビ各社の取材攻勢を受けた。

2018年3月の東京新聞の記事(筆者が撮影)
2018年3月の東京新聞の記事(筆者が撮影)

 映像作品の一部はNHK「ニュース7」やNHK「ニュースウォッチ9」でも放送された。 

 ドキュメンタリーの制作後も学生たちと高橋さんとの交流は続いていたが、地下鉄サリン事件から25年となったこの日、「ニュースウォッチ9」はそうした交流の一幕を放映した。

3月20日(金)のNHK「ニュースウォッチ9」

(ナレーション)

「(高橋シズヱさんは)『これからは他の人たちにも事件のことを語り継いでほしい』と願っています」

(高橋さんとの待ち合わせた喫茶店にやってきた3人の女子学生たち)

「お久しぶりです」「こんにちは」

(ナレーション)

「この日、シズヱさんがうれしい出来事がありました」

(高橋シズヱさん)

「なんか素敵じゃない?」

(女子学生)

「本当ですか? ありがとうございます」

(ナレーション)

「シズヱさんの活動に関心を持ち、3年にわたり交流を重ねてきた学生たちと久しぶりの再会です」

(高橋シズヱさん)

「関心を持ってくれたのはすごくうれしい」

(女子学生)

「シズヱさんと会って

(地下鉄サリン事件の被害が)『いつ』『何が』というのは

もしかしたら自分だったかもしれないと・・・」 

(ナレーション)

「事件の後に生まれた若い世代。

それでも自分だったらと考える姿を見て、シズヱさんは"伝え続ける”という思いを改めて強くしました」

(高橋シズヱさん)

「まだまざ被害者遺族の気持ちの中では終わっていないわけですから

『こんな事件があった』と。

今の若い人たちが同じような事を繰り返さないためにも

私たちの役目は何だろうと考えたら

やっぱり"伝えていくこと”だと」

 VTRの後で有馬嘉男キャスターは「この事件、私たちメディアも伝え続けなければならないと思います」とコメントした。

 高橋さんの存在がメディアの人間にとっても事件を考えさせる「きっかけ」を与えてきたことは確かだろう。

 実際に多くのジャーナリストが高橋さんに刺激を受けてこの問題を伝える努力をしてきたことは、高橋さんが毎年続けてきた「地下鉄サリン事件の集い」での様子から筆者も垣間見ることができた。

 学生たちは高橋さんのことを「シズヱさん」と気安く下の名前で呼ぶ。

 彼女らは地下鉄サリン事件が起きた1995年当時はまだ生まれていない。

 学生たちがドキュメンタリーを取材した3年前、最初からトラブルに見舞われた。

 一家がかつて住んだ地域をシズヱさんとともに訪れてインタビューを終えた後に撮影の失敗が判明したのだ。

 映像を見ると音声がまったく入ってなかった。

 学生にとって初めてのビデオカメラでの撮影。撮影担当の学生がマイクのスイッチを入れ忘れていたことが原因だった。

 「もう一度撮影させてほしい」とダメ元でお願いした学生たち。

 当時まだオウム関連の裁判が続行中で多忙を極めたはずの高橋さんは、しかし嫌な顔ひとつ見せることなく聞き入れてくれた。

 災い転じて福となす。むしろ2回目以降は「これ一度きりかも」と真剣に考えるようになって、トラブルが元で学生たちと高橋さんとの距離が一気に縮まったという。

 ドキュメンタリー取材という形で高橋さんと接することになった学生たちが気がついた高橋さんの"素顔”がある。

 それは「亡き夫」の存在である。

 以前、学生たちは以下のように書いている。

シズヱさんにとって、一正さんは決して過去の人ではない。一正さんの話をする時は、当時に戻ったかのように目がキラキラしていて、茶目っ気もたっぷりだ。「私ね、若い頃はとーってもわがままだったのよ。怒って主人に何日も口をきかなかったこともあるわ」と言われて、思わず「え、意外! 嘘だぁ」と大声を出してしまった。

シズヱさんはけらけら笑いながら続ける。「でもね、主人に『君は自分のことを世界の中心だと思ってない?』って言われたの。そこからですねぇ、人の話を聞くようになったのは」。だからこそ、事件後もふさぎ込んでしまうことなく、いろんな人の意見を聞いて、自分を見つめ直す。そういうことができているのだという。

「主人がいなかったら……今みたいな活動はできてないと思います」。かみしめるように話すシズヱさんの目はほんのり赤く、私は何も言えなかった。「やだ……泣けてきちゃった」。お墓になびく風の音だけが響く

「……主人にも聞こえてたんじゃない? こんなことする性格じゃなかったから……驚いてると思うわ」とまた笑顔が戻ったシズヱさん。「でも、喜んでいらっしゃると思います」と伝えると、照れくさそうな表情でお墓を後にした。

「私にできたんだから、誰だってこの立場になればできるのよ」。そんなことを言われても、取材する前の私だったら絶対に信じられなかった。だけど、今ならわかる。シズヱさんだって当たり前の毎日を送ってきた、ごくごく普通の女性なのだ。突然の事件で夫を亡くし、被害者になってしまっても「何も知らない、何もわからない」。誰だってそうだろう。しかし、彼女はそこで終わりにしなかった。

一正さんの言葉を思い出しながら「いろんな人に出会って、そういう人に学んで」生きてきた。その1つひとつの積み重ねが、代表としての彼女を支え続けてきた。

「今日も頑張るからね。見守っててね」。妻の顔でそう語りかけ、現在も彼女は被害者の会代表として壇上に立つ。

出典:東洋経済オンライン 「地下鉄サリン事件『被害者の会代表』の真実 妻として犯罪被害者として…高橋さんの32年」(栗原海柚・向島櫻)

 

 大手メディアの「ニュース」「記事」などではあまり報道されない高橋シズヱさんの「人間」としての側面を的確に捉えた文章だと思う。

 

 地下鉄サリン事件は多くの人たちの命や健康を奪った事件だけに、被害者の会・代表である高橋さんの「人間」としての面にスポットを当てた報道をすることは大手メディアではなかなかできなかったのだが、学生たちは自分たちが感じたままの高橋シズヱ像を新鮮な視点で描いた。

 ちなみに学生たちが制作したドキュメンタリー動画は以下のURLで視聴することが可能だ。

 学生が制作したドキュメンタリー「今日もあなたと一緒に。」

 先述の「ニュースウォッチ9」で取材を担当した馬渕安代記者も「NHK NEWS WEB」に"新たな希望”という小見出しで学生たちと高橋さんとの交流を書いている。

集会の中止が決まって、2週間余りがたった3月中旬。都内のカフェで、シズヱさんは3人の女子大学生たちに囲まれていました。

事件の後に生まれた彼女たちは、3年前、大学のゼミの先生の紹介でシズヱさんと知り合い、その思いを映像で伝えるドキュメンタリー作品を作りました。タイトルは「今日もあなたと一緒に。」 夫との思い出や、これまでの活動を穏やかなトーンで伝える作品です。すっかり3人と打ち解けたシズヱさんは、その後も交流を続けてきました。

この日は、4月から社会人になり、なかなか会えなくなる3人と、久しぶりにお茶を飲みました。3人はシズヱさんに感謝の気持ちとともに、花束を贈りました。事件のことをどうやって語り継いでいくのか、彼女たちも考えているようでした。

3人のうちの1人は、「シズヱさんのことを何も伝えられてないかも」と言って、泣きそうになるのをこらえながら、こう話していました。

「自分の行動だけでも変えて、『そうだね』と言ってくれる仲間に伝えて、それが連鎖していって、ちょっとずつシズヱさんと同じ気持ちの人が増えていったらいいし、自分はちゃんと行動に反映させていこうと思います」

出典:NHK NEWS WEB「私たちが伝えたかった言葉 地下鉄サリン事件25年」

 取材した馬渕安代記者にしても、経歴を見たら2005年入局だから地下鉄サリン事件当時はまだ10代だろう。

 これまで25年間も「記者」という存在から取材を受けてきたシズヱさんから見たら相当に"若い世代”の「記者」と言えるだろう。

 

 筆者は学生たちの活動につきあいながら、高橋シズヱさんを継続して取材し続ける記者たちとも会ってきたが、そこには"シズヱ学校”とでも言うべき、会社を超えて"伝えたい”という思いを持った人たちがいた。

 

 馬渕記者もきっとそうした思いを持つ人なのだろう。

 学生たちにも高橋さんは「こうしろ」とも「ああしろ」とも説経がましいことは言わなかったはずだ。

 ただ、いろいろな場に若者たちを誘ってくれてその背中を見せてくれた。

 姿勢を見せてくれた。

 被害者や弁護士、公安関係者、報道記者などを紹介してくれて「社会」に触れさせてくれた。 

 誰もができることではない。

 その姿を見て感じること。考えること。

 そして"伝えること”

 それこそが「バトン」なのだと思う。

 言葉で簡単には表現できないものだ。

 高橋シズヱさんと交流した若者たちもまもなく社会に出る。

 それぞれなんらかの意味で伝えることにかかわる仕事をする。

 シズヱさん、ありがとうございます。

 「バトン」はしっかりと受け止められています。

「地下鉄サリン事件から23年の集い」で高橋シズヱさんを手伝う学生たち(左側3人・2018年3月筆者が撮影)
「地下鉄サリン事件から23年の集い」で高橋シズヱさんを手伝う学生たち(左側3人・2018年3月筆者が撮影)