ベルリンの壁崩壊から30年「私はそこにいた!」の光景で思い出すこと

今でも一部が残されている「ベルリンの壁」(写真:アフロ)

”Ich war da ! "(イッヒ・ヴァー・ダー!)

「私はそこにいた!」

 この言葉ほど、あの日あの場にいた人間の興奮と感激を表す言葉はないだろう。その直後、この言葉をプリントしたTシャツがベルリンのあちこちで自然発生的に売られていた。「私はそこにいた!」という言葉のTシャツは、背景にそれまでのぼろうものならば即座に射殺されていた「ベルリンの壁」によじのぼり、肩を組んで立つ人々のシルエットが映し出されていた。それほど、あの日あの場にいた人間だけが共有できる””気持ち”があった。

1989年11月9日。

 「ベルリンの壁」が崩壊した。

 テレビの特派員として駐在先のロンドンから駆けつけた私はその時の光景が今も忘れられない。

 人類の祭り、とでも表現するしかない光景だった。

 人々があちこちで抱き合い、キスして握手を交わしていた。

 東側の社会主義体制から西側の資本主義体制へと越えていくことは脱出することは命がけで実弾を装備する国境警備兵が監視していた。

 それが市民の間で自由を求めるデモが続いて何十万人、何百万人へと連日増え続けて、体制側が

 「東」からやってきた人々に、「西」の人々が拍手し、花束を渡していた。

 あれほど多くの人が笑顔で、涙を流しているのを見たことはなかった。

 あれほど人々が「やさしさ」を交わし合う瞬間はなかった。

壁の崩壊から30年経った。

 今ならきっと、北朝鮮が突然、体制崩壊して南に人が往来できるようになったようなものだろうか。

 あの瞬間の興奮。あの瞬間を伝える喜び。

 テレビでその喜びを伝えるために、自分も周囲にいた人たちの助けを借りてブランデンブルク門の手前の「壁」の上によじのぼって、「壁」の上から記者レポートをした。自分も30過ぎで働き盛りのテレビ記者だった。

 レポートのコメントをしゃべり終えたタイミングでそばにいたドイツ人の女性が突然、私の頬にキスしてくれた。

 その年が終わって、新しい年(1990年)に替わる瞬間も私は、またもや周囲にいた人たちに押し上げてもらって、ブランデンブルク門の前の「壁」によじのぼり、「壁」の上からレポートした。確かに89年から、91年のソ連の崩壊まで東欧を中心に「民主化」は一気に進み、「社会主義体制」の国家は数えるほどになった。

 90年のニューイヤーも、ベルリンの壁の上では、この時、この日会ったばかりという東西ドイツ人の若い男女が「壁」の上で熱烈なキスをしていた。

人類にとってのお祭り

 歴史というものが垣間見せてくれる奇跡の瞬間。

 そうなのだと感じながら無我夢中で取材した。

  

 そのときの感激を再び味わいたくて、自分は報道の仕事を続けて、できるだけ長く現場にいたいと「ジャーナリスト」の看板は下ろさずに生きてきた。

 だが、その後、東西ドイツの通貨統合。さらに国家の再統一(1990年)を取材したが、あの「ベルリンの壁」の崩壊のときと同じような見ている者すべてが喜んでいるような光景にはその後は出会うことができなかった。

 もちろん、体制が崩壊して代わる歴史的な瞬間というのは他の国でも何度か立ち会うことができた。

 チェコのビロード革命。ソ連邦の崩壊。旧ユーゴスラビアの崩壊と地域紛争。セルビアのミロシェビッチ政権の崩壊。

アフガン戦争でタリバン政権の崩壊。イラク戦争とサダム・フセイン政権の崩壊・・・。

 しかし、体制崩壊の瞬間に喜びがあったとしても、すぐその後で内戦状態になるなどで「喜びの時間」は長く続かなかった。

 その後に起きたことがあまりハッピーなことばかりではなかったからだ。

 強権政治の権力が去ると、権力の空白を生んだり、新たな強権政治を生んだりと新たな混乱や社会的な問題を残した。

1999年11月9日。「ベルリンの壁」崩壊から10年

 このとき、私は民放テレビのベルリン支局長として10年目の節目を駐在先で迎え、記者として取材する機会を得た。もうベルリンの街には「ベルリンの壁」は歴史的モニュメントとして意図して残した部分を除いてはほとんどなくなっていた。

 旧東ドイツとして旅行の自由化を決めて、事実上「ベルリンの壁」崩壊につなげた最高指導者のエゴン・クレンツ元書記長や旧東独政府のスポークスマンとして旅行の自由化を発表したシャボフスキーらにインタビューするなど「壁崩壊から10年」という特集を放送した。

 この頃、旧西ドイツに比べて産業的には遅れが目立っていた旧東ドイツでは仕事がない若者たちがネオナチと呼ばれるグループでさかんにデモ活動をしていた。私はそれを折に触れて取材していたが、あるとき、そうしたネオナチ思想の影響を受けた若者によってアフリカ系の黒人男性を殺害するという事件が起きた。

”Trelanz”(寛容)

 人種差別が背景になったこの事件のしばらく後で人種差別を許さないというデモがブランデンブルク門のそばでも行われた。

 大勢の市民の先頭に立っていたのは、当時のシュレーダー政権でナンバー2の副首相を務めた副首相兼外相のヨシュカ・フィッシャーだった。「寛容」、人種などが異なる人間同士が共存して生きて行こうというメッセージを人々は掲げていた。

「こうした人種差別による犠牲者を二度と出してはならない」

 その様子を記者として取材しながら、ナチスドイツの悲劇を経験したドイツという国が、政権中枢の幹部から一般市民まで一つの気持ちにまとまるドイツ国民の決意を見た思いがした。

2019年11月9日。きょう「ベルリンの壁」崩壊から30年を迎えた

 さて、その後、アメリカでも自国第一主義と移民排斥を唱える大統領が出現し、「寛容」が社会的な合い言葉だったヨーロッパでも移民を敵対視する極右政党が議会で躍進する光景が各国で見られるようになっている。

 30年前のこの日。あの場にいたすべての人たちが同じ人類であることを喜び、祝い合った瞬間。

 そのときの光景は今でも忘れられないほど強烈な体験になっている。

 だが、そのときも、その後の10年でも大事にしようとされた「寛容」の精神が今は崩れ去って、「分断」の時代にどんどん進んでしまっている。

 人類にとって共通する価値とは何なのだろうか。

 人類の歴史はどこへ向かっているのだろう。

 ヨーロッパは?

 

 アメリカは?

 中国は?

 香港は?

 北朝鮮は?

そして日本は・・・?

 11月9日は、30年前のあの日の感動を思い起こしながら、歴史を振り返る日にしたい。

私たちは「寛容さ」を今も持っているのだろうか

あのときの共感をまだ想い出すことができるのだろうか