「池上彰さん、最後のチャンスありがとう!」もし朝日新聞の社長だったらそう言うけど。

 

この2日ほど、気が気ではなかった。

 朝日新聞の記事のなかで、私が一番読みごたえがあるとかんじていた池上彰さんの連載コラム「新聞ななめ読み」がもう読めなくなるかもしれないと思ったからだ。

 

 この連載は、当代一のジャーナリストで解説者の池上彰さんが同じ出来事についての新聞各紙の記事を読み比べ、それぞれの長所や短所を指摘し、新聞ジャーナリズムの理想としてどんな報道をすべきかを検証するコラムだ。

 同じ出来事について同じような現場で取材して書いた記事でもそれぞれの新聞社の書きっぷりは微妙に違う。

「なぜ読売新聞はこう書いたのか」

「毎日はこれが良かった」

「朝日新聞の記事はここが分かりにくかった」

 

池上さんの解説で、個々の記事が言い回しやデータの挿入の仕方などで、より分かりやすいものになったり、逆に本質を見落としてしまうものになっていたりするのが分かる。

 さすがに「現役記者」が長かっただけあって、分かりやすい。

「ジャーナリズム」を研究対象にしている私にとっても読んでいて「なるほど!」と膝を打つようなことも多い。

 池上さんのコラムでは、原稿を載せている朝日新聞自身の記事を俎上にして他紙の記事に比べて「分かりにくかった」「勉強不足では?」などと批評していた。さすがクォリティペーパーとしての余裕、日本のジャーナリズム全体の向上を視野に入れている新聞らしい連載だと感じていた。

 ところが、2日ほど前にこのコラムのために池上さんが書いた原稿について朝日新聞が掲載を拒否、池上さんが連載打ち切りを申し入れたという報道が流れた。

 朝日新聞が「従軍慰安婦」について過去の記事が間違っていたとして取り消した検証記事について、池上さんが「お詫びがなければ、試みは台無しです」と書いていたため、朝日新聞が掲載を見合わせたという。

 これに対して、ソーシャルメディアなどで批判が殺到。

 私自身も「朝日新聞もついに落ちるところまで落ちたのか」と感じた。

 記事を間違ったという事実を指して「落ちた」と言っているのではない。

 

検証記事の書き方が間違っているのではないか、という指摘に耳を貸さない、そうした不寛容に対して「落ちた」と感じたのだ。

 今朝(9月4日)、朝日新聞は「いったん、このコラムの掲載を見合わせましたが、適切ではありませんでした」とおわびを一面に載せて、19面に池上さんのコラムを掲載した。

過ちがあったなら、訂正するのは当然。でも、遅きに失したのではないか。過ちがあれば、率直に認めること。でも、潔くないのではないか。過ちを訂正するなら、謝罪もするべきではないか。

出典:朝日新聞デジタル「池上彰の新聞ななめ読み」

 

 詳しくは池上さんの文章をじっくり読んでほしい。

 朝日新聞が間違いに「気づいていた」のは、もっと以前(93年時点)であったのに、なぜその時点で訂正を出さなかったかと疑問を呈し、他紙も(混同や虚偽を)報じたと書いたことを「問題は朝日の報道の過ちです。他社を引き合いに出すのは潔くありません」と指摘している。

 

 もっともな指摘だと思う。

 私自身も朝日新聞の「従軍慰安婦」検証記事を読んだ時に同じような違和感を持った。

 

 

どこか他人事のようなニュアンス。

 他の新聞も同じような間違いをしていた、と潔くない書き方だった。

 だから、私の周囲のテレビ関係者や新聞関係者などと顔を合わせると、「朝日はいったいどうするつもりだろうね」と話題になった。

 池上さんの書き方のトーンは、一部の新聞や週刊誌のように「朝日バッシング」で感情的になっているわけではない。

 ただ、事実をきちんと書いてほしい、という報道の「根幹」を求めている。

でも、新聞記者は、事実の前で謙虚になるべきです。過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか。

出典:朝日新聞デジタル「池上彰の新聞ななめ読み」

 その通りだと思う。

 朝日新聞が間違いを認めたからと言って、従軍慰安婦問題そのものがなかったかのような主張や政治への責任追及などまで朝日新聞だけの生、とするような論調には違和感を覚える。現在のメディアの状況は、政治や一部メディアによる過剰なほどの「朝日叩き」という状況になってしまっていると思う。

 でも、だからと言って、朝日新聞が謝罪しなくていい、という理屈にはならない。

 池上さんが言う通り、間違った報道をしていたことについては謝罪をすべきだと思う。

 池上彰さんのコラムをけっきょく今朝になって掲載したことは朝日新聞自身にとっても良かったと思う。

 もし私が朝日新聞の経営者だったら、「池上さん、もうちょっとで大変な間違いをするところでした。気づかせてくれてありがとう」と感謝しただろうと思う。

 池上さんの連載コラムの担当のデスクか部長かあるいはその上の局長なのか誰の判断か分からないが、もし、池上さんの連載を中止したままにしておいたら、朝日新聞というメディアの名声は二度と回復できないほど地に墜ちていただろう。それは日本のジャーナリズムにとっても「死」を意味する。

 

 池上さんは、朝日新聞の社内が報道機関としての体をなしていないことを今回の出来事を知らせてくれた。

 そして、ギリギリのところで気づかせてくれた。

 朝日新聞における池上さんのコラム掲載中止問題を詳しく報じている毎日新聞の記事によると、掲載見送りの判断を朝日の記者たちが実名でシーシャルメディアで内部批判したことが大きかったらしい。

 

 そのことを報じた毎日新聞の記者たちも、あるいは、そこに登場するツイッターなどで自社批判を展開した朝日の記者たちも、同じような「ジャーナリズムの死」への危機感があったのだろうと思う。 

◇朝日記者が社の対応批判 実名ツイートで

 今回のコラム掲載拒否の問題をめぐっては、短文投稿サイト・ツイッターに朝日新聞記者による実名ツイートが複数投稿され、同社の対応を批判する声が相次いだ。

 朝日新聞社は、社が公式に認証している実名記者アカウントを、同社のウェブサイトで紹介している(http://www.asahi.com/sns/reporter/)。記者のツイートによると、掲載拒否問題が各紙で報じられた後、「従軍慰安婦問題は知識皆無なので言及しなかったのですが、自社の対応がこの報道通りとすれば、心挫(くじ)けかける。池上さんはじめ、読者や様々な方に、所属記者として心底申し訳ない思いです」(デジタル編集部記者)などと批判があがった。同記者のツイートは520回転載され(3日午後7時現在)、反響を呼んだ。

 同種の発言は相次ぎ、他の記者も「報道の通りとすれば池上彰さんの原稿を掲載できないと判断した人はぜひ、紙面の信用が何に起因するのか、考えてほしい。恥ずかしく、悲しい」「夕方、このニュースを聞いて、はらわたが煮えくりかえる思いでした。極めて残念です」などと書き込んだ。発言は朝日新聞社のサイト上でも見ることができる。

出典:毎日新聞 ホームページ

 こうした記事を読んでから池上彰さんの今朝のコラムを読み返してみると、もっともな文章だ。

 文章全体を読めば、池上さんの朝日新聞の記事に対する愛情も伝わってくる。だからこそあえて厳しい論調で書いている。 

 今回、池上さんにまで匙を投げられるようなら、このコラムが終わってしまうのなら、私も朝日の購読をやめようと思っていた。

組織内の「内部的自由」があってこその健全な報道。

 上司の顔色をうかがって、部下が忖度して行動したら、報道機関はおしまいだ。

 今回の池上さんのコラム掲載中止は、そんな経緯はなかったのだろうか?

 報道のあり方に完璧はない。

 

 報道のあり方に絶対的な正解もない。

 だからこそ議論が必要だ。

 

 そんなことは記者として取材を重ねれば重ねるほど自明のことだ。

 ところが朝日新聞の幹部は(たとえ一時的にせよ)そうした議論を封殺して、「自分たちは正しい。以上終わり!」と批判的な原稿を載せないように傾いた。

 

 報道人としての「原点」「根幹」を棚上げしかけた朝日新聞は、最後の最後に、かろうじて踏み止まった。

 残念だけど、これほど間違った判断をしようとした経営者や幹部は辞職すべきだろう。読者を不安に陥らせ、自社の、あるいは自分自身の保身に走った責任は重い。

 私は池上彰さんの「新聞ななめ読み」を今後も読むことができることを願っている。

 もちろん池上さん自身も続けることの重み、このまま終わってしまうことのツケの大きさは重々理解していると思う。

 ただし、それには条件がある。

 

まず、今回の「新聞ななめ読み」の掲載中止などの判断がどういう経緯で起きたのか。そして判断の変更がどのようにして行われたのか。

 それを読者の前に明らかにしてほしい。

 そして責任者はその責任を取ってほしい。

 その上で、今回の「従軍慰安婦報道」検証の不十分な点や疑問点を明らかにして、読者に謝罪して責任者は責任を取ってほしい。

「朝日新聞」というメディア全体への信頼失墜ならば、経営トップが責任を取るのが筋だろう。

 その責任は、今朝の一面にあったような新聞協会賞を何十回獲ったとしても不十分なほど大きな責任だ。

 朝日新聞よ、潔くあってほしい。