「あまちゃん」は史上最高の朝ドラ!? なんてったって「テレビ的」なのだ

「三代前からのマーメイド・・・ 親譲りのマーメイド・・・」

9月25日放送の「あまちゃん」。

最終週「おらたち熱いよね」の第153回。

この回は抜群に良かった。

北三陸で「潮騒のメモリー」を歌う鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)のシーンを繰り返し見ている。

それにしても「三途の川の」を「三代前からの」に変容するとは良い意味で視聴者の期待を裏切った。 

何度見ても良い。

何度見ても泣ける。

まるで牛の反芻のように見ているが、本当に最後の最後まで引っ張られる。鈴鹿ひろ美が元の歌詞「三途の川のマーメイド」(なんてふざけた歌詞だ!)を変えて、夏、春子、アキの3世代の女性たちへ捧げる歌に仕立て直した。

「あまちゃん」がもうじき終わる。早くも「あまちゃんロス症候群」続出も予想されている。間違いなく私もその1人になる。

さて、少し前までテレビ制作の現場に身を置き、現在はテレビ批評を仕事の一部にしている人間からすると、「あまちゃん」は「テレビ」というメディアの魅力を再発見させてくれた画期的な番組だった。

「あまちゃん」が歴代最高かどうかは人によって判断が違うかもしれないが、私の中では最高点に近い。その要素として、これまでの朝ドラとは決定的に違うところがあるので指摘しておきたい。

「なんてったって”テレビ的”」という革命性

「あまちゃん」はこれまでの連続テレビ小説とは比べものにならないほど、「テレビ的」であり、「テレビ」として優れている。

・・・などと言われても、テレビ関係者じゃないと、あんまりピンと来ないですよね。

テレビなんだから、テレビ的だなんて、当たり前でしょうと。

はい、そうですね。以下、ちゃんと説明します。

テレビ制作者や批評家が集まると、よくこんな議論をする。

「テレビの特徴って何だろう?」

「テレビの魅力って何だろう?」

「今のテレビはそうした魅力が失われているのではないか?」

特に、ドラマについて、こんな話が出る。

「映画じゃなくて、テレビドラマでやる意味は何だ?」

「なぜ、わざわざテレビでやるのか? 映画でやった方が良いでのは?」

この議論には正解はない。

正解がないけれどもテレビ屋たちが漠然とイメージしていることがある。

テレビと映画は決定的に「違う」ということだ。

映画は、作品として、自己完結している。

閉じている、と表現しても良い。映画が終われば、そこで物語も完結する。

ところが、テレビでは作品の終わりは物語の完結ではない。

完成した作品になっていても、どこかで「なんちゃって」という気恥ずかしい感じ、スタジオコメントで茶々を入れて語りたい感じ、別の番組で後から感想を言い合ったりする余地が残る。自己完結せずに視聴者ともつながっている。お茶の間とスタジオがつながっているイメージを、少なくとも制作者側は持っている。

つまり「テレビ的」という形容は、「ライブ感」とか「生っぽさ」と言い換えられるかもしれない。

「未完成」「現在も進行中」。 そんなイメージだ。

閉じていなくて、作品としては完結せずに未完成だけれども、それこそがテレビだ、だって今だもの、というような時にテレビ業界の人は「テレビ的」という言い方をする。

たとえば、同じ小泉今日子という役者が演じていても、映画では観ている側は彼女が演じる「役柄」に没頭・集中して観るのが普通だろう。

そこでは小泉今日子がかつてタレントだったか、どんな言動があったか、私生活がどうか、などということは意識されない。

通常は映画の中でネタにもならない。本人がどうか、というよりも、むしろ、その「役柄」が際立ってこないと観る側がストーリーに集中できないので、俳優も制作スタッフも必死に役づくりに励む。つまり、ふだんテレビのスタジオなどに出てくる小泉今日子の「実物」と、映画に出てくる小泉今日子は完全に「別物」なのだ。

テレビで出てくる彼女の他の仕事や私生活ともまったく異なる人物というのは映画だ。

ところがテレビは違う。

テレビでは「実物」が透けてみえてしまう

「別物」にならない。

「実物」が持つ雑多なイメージを引きずってしまうのだ。

バラエティ番組のスタジオトークなどで出る女優の姿が典型的なように、視聴者は小泉自身の私生活や「なんてたってアイドル」を歌っていたアイドル時代などを思い出しながら見てしまう。

歌番組でも、歌っている部分だけでなく、視聴者はその歌手の「素」の部分が出てくるのを面白いと感じる。つまり演じている部分と「素」の部分が連続し、つながっているのだ。

テレビでは、虚構の世界であるドラマの場合にも、どこかそうした性質が残ってしまい、過去の仕事や役柄、私生活などが二重写しになる面がある。

同じテレビという箱から、アイドル時代の歌う姿や私生活をめぐるトーク、ドラマでの女優としての演技までが時間差で出てしまうのでテレビの宿命といえる。さらに「生で」あることに最大の強みを発揮するので、視聴者の側もドラマを見ていても、小泉今日子その人をどこかで感じながら見る、というのがテレビ。

テレビとは、見る側が<人間の“素の部分”を透かして見る>メディア

で、「あまちゃん」に話を戻すと、

そのライブ感、「素の部分」の投影の加減が他のドラマに比べて半端じゃない。

とんでもなく「テレビ的」なドラマなのだ。

小泉今日子の実物との二重性

元祖「自分を主張する」アイドルで「なんてったってアイドル」の小泉今日子と、彼女が演じる天野春子=若い頃にアイドルを目指したが、夢を実現できずに田舎に戻ってきた中年の母親=がダブって見える仕掛けのドラマだった。

相当に意図的なキャスティングだ。

ドラマの天野春子を見ながら「芸能界の汚い面に触れてアイドルになれなかった役を『なんてったってアイドル』のキョンキョンはどんな思いで演じているんだろう?」などとつい考えてしまった。

薬師丸ひろ子の実物との二重性

薬師丸ひろ子についてもそうだ。

アイドル女優・歌手として鮮烈だった時代から30年以上も経って中年女優としての円熟味を感じさせる現在、ドラマの中での女優役、しかも主演映画の歌が大ヒットするという「まるでかつての薬師丸ひろ子そのまま」の役だ。彼女にとって女優という仕事はどんなイメージなのだろう? どんな思いで演じたのだろう?と想像してしまう。

最終週「おらたち熱いよね」第154回、9月26日放送では、ドラマの中で鈴鹿ひろ美本人が初めて人前で「潮騒のメモリー」を歌うシーン。歌詞が字幕で出てきて、はっきりと読ませる演出だった。流れる声は影武者だった小泉今日子の声でなく、薬師丸ひろ子本人だ。

「置いて行くのね、さよならも言わずに。再び会うための約束もしないで」

若い頃に薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を聞いていた世代には「ツボ」にはまる歌詞に目が止まる。

「セーラー服と機関銃」は出だしの歌詞は

「さよならは別れの言葉じゃなくて再び逢うまでの遠い約束」

というフレーズだ。

そうか、この歌詞は薬師丸ひろ子に捧げるオマージュだったのだと気づかされる。

それを薬師丸ひろ子本人が歌うのだ。

これには思わず聞き入った。

「セーラー服と機関銃」の頃の透明な伸びやかな声は変わりなかった。

こうなると歌っているのが、役の中の鈴鹿ひろ美でもあるが、むしろ、薬師丸ひろ子という実在の女優であることの方が視聴者にとっては重い意味を持ってくる。

しかも、薬師丸ひろ子のドラマの中での役は「女優」だ。

単に彼女は実物も「女優」で「歌手」であるという二重性だけではない。

さらに別の映画のイメージがダブる。

薬師丸ひろ子がアイドル女優全盛期の頃に主演した映画「Wの悲劇」。

そこでの決め台詞は

「私、女優だから」

TVコマーシャルで何度も流されて一世を風靡した。

女優という言葉は実物の薬師丸ひろ子にとって特別な意味を持つ。

それがドラマの中の彼女の役柄と二重写し、三重写しになるのだ。

記憶によるタイムスリップ

見ている側は、まるで青春時代にタイムスリップしてかつての自分に再会したような、そんな不思議な気持ちになる。

そうしたタイムスリップの仕掛けが効力を発揮するのは私のような50代だけではない。

実名で出てくる橋幸夫の登場シーンでは70代、80代の世代が記憶を取り戻し、共有する。

橋幸夫は、7、80代の人たちにとって「アイドル」なのだ。

そういう高齢の視聴者はリアルな橋幸夫その人や自分の青春時代を重ねながら、「あまちゃん」を見ているのだろう。

歌の記憶、テレビの記憶で、人はつながっているのだ、ということを実感させられる。

そして青春期の夢に再び出会うと、人は、人生もうちょいがんばってみるか、という気持ちになってくる。

この日の「潮騒のメモリー」の歌詞が「セーラー服と機関銃」のオマージュであることは「あまちゃん」に続く「あさイチ」の中でイノッチこと井ノ原快彦がすぐに解説していた。

生放送でそのまま出演者が受ける「あさイチ」のコメントも「あまちゃん」人気に効力を発揮したと思う。もちろん、「あさイチ」の連ドラの受けトークは今回始まったことではない。しかし、さきほどの「潮騒のメモリー」の歌詞の秘密などについて、さりげなく「あさイチ」がヒントを与えてくれた。それが多くの人の「あまちゃん視聴」の楽しみになったことは想像に難くない。

私は「あまちゃん」は「あさイチ」の受けコメントまで一連の番組として見るようにしている。テレビの「こっち側」と「むこう側」がつながる一体感。これこそ、テレビの特徴としてかつて存在し、かつ現在の多くのテレビ番組が失いつつあるものと言えるかもしれない。

なんてったって、“つながる感が”ある

時代を超えてー。

地域を超えてー。

虚像と実像がー。

テレビの「向こう側」と「こっち側」がー。

「あまちゃん」には、今の日本人が失いつつある”つながり感”が生々しく存在する。

東日本大震災以降、妙に上から目線だったり偽善的だったりする「つながろう」キャンペーンには抵抗感が強い私のような天の邪鬼も少なくない。私にも問題があるかもしれないが、そういう言葉を口にするキャスターたちの表情や言い方が「真面目に言うのを演じている」みたいに白々しさが鼻についてしまう。

ところが「あまちゃん」を見ると、やっぱり、人間同士、日本人同士、同じ記憶や同じ歌、同じ郷里などでつながっているものなんだな、と素直に感じることが多かった。

それに大きく寄与したのが、前述した「テレビ的」という部分だろう。透けて見える役者たちの実物の顔。

ドラマの中の登場人物とそれを演じるリアルな歌手や俳優たちに連続性があって、見ている側のイメージが行ったり来たりできる。虚と実が混ざる。二重写しになって、ドラマの中にも役者たちの人生や思いを感じることができる。

「お前はただの現在にすぎない」

これはテレビ草創期の優れた制作者たちがテレビに向かって言い放った言葉だ。

テレビというメディアはしょせん「現在」「今という時間」を映し出してしまうものという本質的な性格がある。

宮藤官九郎を始めとして「あまちゃん」のスタッフは、ある意味で居直って、そうした「テレビの原点」に帰ろうとしたような気がする。

ドラマだけで作品は完結するのではない。

完結せずにその後も物語が続いていく。それこそが「テレビ」

「あまちゃん」の制作者たちがそのことを強く意識していた証拠の一つがナレーションだ。

ナレーションは、その時々で夏がしゃべったり、春子がしゃべったり、アキがしゃべったり、語り手がころころ変わる。

この日のアキのナレーションで

「(結婚式シーンを)関係ない人には退屈なだけでしょうからダイジェストでお見せしますね」

というのがあった。

まるでスポーツ中継などの生中継のスタジオコメントのような視聴者目線に立ったナレーションだった。

これによって、テレビの「こっち側」(視聴者側)と「あっち側」(制作者・出演者側)が「つながる」のだ。

ドラマの作品性だけでなく、役者たちの私生活も含めて「つっこみどころ」がたくさんあるのもかつての「テレビ的」手法だ。

様々なオマージュを読み解く楽しみ

今回の「あまちゃん」には、宮藤官九郎が仕掛けた、様々なオマージュやパロディ、小ネタがあるが、それを読み解くのも視聴者の楽しみになった。

前述の「潮騒のメモリー」の歌詞は、「セーラー服と機関銃」の他、「小麦色のマーメード」(松田聖子)、「北の宿」(都はるみ)、「ジョニーへの伝言」(高橋真梨子)などかつてのヒット曲のオマージュやパロディだし、キャスティングや役の設定、シーンなども、いろいろなところにオマージュやパロディが隠されていて、それを読み解くのはドラマを何回も繰り返し見ることにつながる。

「一粒で何度もおいしい」のだ。

ネット上では、そうした読み解きをブログなどでやっている人たちが続出している。

一方的に放送を流して終わり、ではなく、視聴者がもう一度、番組を見て「発見」する喜びが隠されているのだ。

'''きっと「『あまちゃん』に隠されたパロディ、オマージュ大全集」なんて本を出したら、間違いなく売れるだろう'。''

かつてのテレビはお茶の間で、テレビにむかって「おいバカだなあ」とつっこむオヤジが大勢いた。テレビもそうした人たちの声を演出で取り入れようと、スタジオに見物客を集めて、生で放送した。

そうした臨場感、ライブ感は今のテレビにはない。

どこか計算され尽くされて、管理されてしまっている。

どこか制作している人間たちが心底で面白がっていない。

「あまちゃん」には、そうしたライブ感を取り戻そうとするような試みが随所にある。

鈴鹿ひろ美が「三代前からのマーメイド」と歌うシーンで、聞いているおばさん海女たちがこうつぶやく。

「あの野郎、最初から決めてたべ」

鈴鹿ひろ美は直前まで「三途の川のマーメイド」という歌詞を被災地にはふさわしくないと変えるために四苦八苦して良い言葉が浮かばなかったはず。

ところが本番では堂々とした歌手ぶりを発揮したので、驚くほどで見ていても疑問が湧いたが、その思いを登場人物が代弁してくれた。

このつっこみ、まさに見ている視聴者の声そのものだ。

直接やりとりをするのではなくても、制作者が仕掛けた謎を見つけて、視聴者が後でクスリと笑う。

そんなことができるテレビ番組は最近、きわめて珍しい。

他のテレビ番組が「テレビ的」じゃない時代

「あまちゃん」の爆発的な人気。

それはとりも直さず、今のテレビがあまりテレビ的でなくなり、面白くなくなった反動だ。

バラエティにいたるまで、刹那的な笑いばかりを追求して、視聴者側から「つっこみ」を入れたり、後から何度も見返して、新な「発見」をできるような番組は他にない。

それが人と人がつながっている実感になって、見てる人の生活を少しは明るいものにしてくれる。

「本当の娯楽番組ってどんなものですか?」

先日、授業の後で大学生に質問されて、とっさに浮かんだのが「あまちゃん」だった。

学者タレントのさかなクンが北三陸のあまカフェにやってきたシーンもあった。

ドラマの中では橋幸夫と同様に「さかなクン」本人が「さかなクン」を演じている。アキと一緒に幼児向け教育番組の司会をやっているという設定なので、北三陸に応援に来るのはある意味、自然な流れだ。

しかし、それだけではない。さかなクンは子どもたちのために魚を満たした水槽をプレゼントすると約束する。

実は実物のさかなクンも3・11以降、大震災で水槽が壊れてしまった東北の水族館などに水槽や魚を配布する支援を活発に行っている。

さかなクンのシーンは実話がドラマに重なって、見ている者を感動させる。

彼の活動をそれまで全然知らず、「あさイチ」で後で知っった。

それを知った後でもう一度「あまちゃん」のあのシーンを見返すと目頭が熱くなる。

そんな「テレビ的」な作り方、実像も透けて見せていく、というドラマの作り方にはもう脱帽するしかない。

今という瞬間を切り取るのが得意なテレビにとっては、リアルに勝る素材はない。

演出も実はすごい

ついでに言えば、「あまちゃん」は宮藤官九郎の脚本と出演者の演技ばかり注目されている。でも、テレビ屋的な視点で見ると「演出」も優れている。毎回毎回、感心させられる。

演出とは、どんな芝居をし、どんなカメラアングルにし、どんな編集や音付けをするかという、脚本を具体的な映像に仕上げるプロセスのことで、その責任者は「ディレクター」や「演出」というふうにテロップで表示される。映画であれば「監督」だ。

場面、場面での芝居やカメラアングル。音のつけ方。1カットごとの計算された切り取り方がとてもうまい。

鈴鹿ひろ美が初めて人前で歌った日(9月25日)の放送では、若き日の春子が太巻からマイクを受け取って走り、舞台袖で影武者としてスタンバイする現在の春子に届けようとするが、途中でマイクの電池が抜け落ちて、太巻の額に命中する。スローモーションと大げさな表情で倒れる古田新太の姿などバラエティ的な演出だ。古田新太の表情は痛快なほど可笑しく、笑うしかない。しかし、その後でしっかり歌っている鈴鹿をみつめながら、若き日の春子は涙を一筋だけ流したかと思うと笑顔で消えていく。

このあたりのカットのつなぎは、絶妙なのだ。

涙が流れ落ちたかというタイミングで次のカットに移るが、印象がとても強い。 

なぜか、死んでもいないのに幽霊のような若き日の春子がなぜか目の前で登場していたが、ずっと「影武者」として生きてきた春子の無念が生き霊になったような存在だったと視聴者が気づく。

ところどころに茶々を入れるようなナレーションが入るおせっかいな作りが基本なのに、鈴鹿ひろ美が初めて人前で歌ったシーンでは、最後まできっちり歌わせ、余計なナレーションを入れない。歌い切り、ほっとする表情の鈴鹿、舞台袖で拍手するアキや春子も表情だけで演じさせた。

その時の拍手の余韻が、見ている側は涙が零れ落ちる。

なんと人間の生理に合った演出だろう。

視聴者が喜ぶコツを心得ている演出だ。

'''見ている側を喜ばせる「サービス精神」が至る所にあふれている。''

'

視聴率主義で、労務管理やコストカットも厳しくなるばかりのテレビの制作現場。予め視聴率が計算できるような以前どこでやったと同じような刹那的な笑いを追い求める制作傾向が強まるばかりだが、まだまだこうした制作スタッフが存在するという事実に勇気づけられる。

サービス精神といえば、鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)がいよいよ歌うというそのバックでギターを演奏しているのは主題曲などを担当した大友良英だった。こうした発見する喜びはあちこちに散りばめられている。

26日の放送は、鈴鹿ひろ美がアンコールに応えるシーンが中心だ。

急に歌がうまくなった鈴鹿ひろ美の本心が語られる。

「自分の意思でステージに立って、歌を。ずっーと封印してきた歌を歌いたい。みなさんに笑顔を届けたいと思って来ました」

歌が終わった後で彼女のパートナーである太巻が自分の両脇を抑えながら

「うまく行ったから良かったものの。脇汗ひどいよ。抑えていないとあふれちゃう」

とつぶやく台詞は、「あまちゃん」の後に放送される「あさイチ」での悪意ある視聴者からのいじめのような「脇汗批判」を平然と受け流す有働由美子アナへのオマージュなのだろう。世の中全体がギスギスしてきてることへの批判がチクリとある。

この日は、鈴鹿ひろ美の歌う「潮騒のメモリー」に乗せて、いろいろな夫婦の形が見え隠れする。

「北へ行くのね ここも北なのに 寒さこらえて 波止場で待つわ」

この歌詞とともに夏の元から去っていく忠兵衛。

「人生を航海にたとえるなら2回目の方が危険なんだ」

と忠兵衛から忠告される正宗。

「きずな」が再び結ばれ、別れた夫婦の「より」も戻るが、何か日本全体に対して「油断はするな」と言っているようで暗示的だ。

元気をなくした夏を励まそうと、鈴鹿ひろ美と太巻の結婚式、あんべちゃんと駅長の結婚式と一緒に式を挙げることになる春子と正宗。

3組の結婚式で夏にも笑顔が戻る

神父役を琥珀掘りの「勉さん」が務める。指輪交換のシーンで指輪はアップにならない。しかし、よく見ると勉さんが掘った琥珀の指輪なのが分かる。

台座もウニの形だ。

なんでもテレビを「分かりやすく」と、アップを多用し、「こうでしょ?」と傲慢に、一方的に見せるテレビ番組が多いなかで、見ている側の想像力をかき立て、テレビの側がアップにせずに、見たい視聴者に画面を注視させる演出。

いやあ、細かい。

本当に細かい。

でも制作スタッフの細かいサービス精神、しっかり心に届いている。

あと1日。存分に楽しみたい。

最後のお座敷列車。「なまっている方」と「可愛い方」の2人による潮騒のメモリーズの活躍も気になるが、個人的には橋幸夫が乗り込んでくるのかがとっても気になる。

でも、本当にもう終わっちゃうの?