「あまちゃん」が描いた3・11 その見事さと対照的なテレビ報道の貧弱さ

9月2日(月)朝のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」をドキドキしながら見たのは日本中でいったい何人いたのだろう。

前の週からドラマは大きく展開していた。能年玲奈演じる天野アキは念願だった映画「潮騒のメモリー」で主役の座を射止め、撮影は無事に終了。主題歌をアキが収録するスタジオで、母・天野春子(小泉今日子)が手本の歌声を示したことで、女優・鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)は春子が長く自分の影武者として歌っていた事実をつきつけられる。冷徹な敏腕プロデューサー荒巻太一(古田新太)も、かつて使い捨てにした春子に対して初めて謝罪する。鈴鹿ひろ美も春子にわびて三者は和解した。わだかまりがすべて解けてハッピーエンド。特に前週後半2日は涙なしには見られない展開だった。

アキは古巣のアイドルグループGMTと合同のライブコンサートの練習に励んでいた。すべてが幸福だった。コンサートの日付は、2011年3月12日。その前日の11日、昼まではアキのまわりでも幸福な時間が流れていた。

ここまでが前週の放送。そして、9月2日(月)からの今週。いよいよ3・11、運命の大震災が・・・という流れで、アキの故郷、北三陸を大震災が襲う! 

誰もが展開を予想しつつ見た「あまちゃん」。大きな揺れ。そして巨大津波をどのように描くのだろうかと本当にドキドキしながらテレビを見た。

「あまちゃん」の直前番組の「おはよう日本」の阿部渉アナは番組の最後に「このあと・・・ドキドキします」と言って自分の番組を締めくくった。NHKのニュース番組では異例のことだ。

また、毎回、その直前の「あまちゃん」についての感想を受けてから番組をスタートさせる「あさイチ」では司会・有働由美子アナと井ノ原快彦はドラマの中での「夏ばっぱ」(宮本信子)の安否を気遣うコメントから始めた。

それほどに、多くの視聴者が注目した「あまちゃん」の3・11だった。

さて、3・11はどのように描かれたのか。

脚本の宮藤官九郎もNHKの演出陣も、実際の揺れの映像や津波の映像を一切使わなかった。

東京で練習に励んで大きな揺れに見舞われたアキたちの周囲をひたすら描く。

アキの親友で北三陸鉄道の車両に乗って東京に向かっていた足立ユイ(橋本愛)のシーンがもっとも被災現場に近いが、それも津波が襲う海辺そのものではない。

この日の「あまちゃん」は、東京にいるアキたちと北三陸鉄道に乗って移動中のユイらの視線で、被災を描く。北三陸にいるはずの多くの人々の安否は分からない。 

津波が押し寄せるテレビを東京で見ているアキたち。しかし、そのテレビで流されているはずの実際の津波映像を見せることはない。つまりニュース映像をいっさい使わなかった。

津波については、リアルな映像を使う代わりに、家々や地域の模型の上に、青いガラス片を撒いて表現した。

人々の表情と鉄道や地形の再現模型のイメージショットだけで、3・11を表現した見事な演出だった。

「あまちゃん」はドラマだ。だからこそ、大きな揺れや津波は模型などで描いてリアルには見せずともあの瞬間の恐さを十二分に伝えることができた。当時の映像をあえて使わずに、視聴者の想像力に委ねて「恐さ」を表現する手法だ。見事なほどにドラマに引き込まれた。東京にいて心配するアキたちの目線で、なかなか連絡が取れない故郷を見せずに描いたため、登場人物たちはどうなっているのだろう、アキの肉親や友人たち、海女仲間たち、お節介なおじさん、おばさんたちは・・・と心配になってくる。

ひるがえって、ふだん3・11について描くニュースやドキュメンタリーなどの報道番組はどうだったろうか、と思い起こした。3・11の瞬間や津波などの過去を振り返る時、どういうふうに表現されていたのか、これほどのリアルさがないのではと気になった。

よく考えてみれば、ほとんどの番組で過去のニュース映像を使っている。津波の映像などは、「これから津波の映像が流れます」という字幕まで入れて繰り返し放送している。3・11の3か月後も半年後も、1年後も2年後も、報道ドキュメンタリーの多くがその有様だった。

津波や揺れそのものが問題になっているドキュメンタリーならばそれも仕方ないが、そうではない、ある人の人生を振り返る番組でもそんな感じなのだ。

たとえば津波で肉親や家を失った人たちの物語ならば津波映像が必ずというほど出てくる。

福島第一原発の事故で避難を余儀なくされた人たちの生活ぶりを紹介する時には原発が水素爆発した時の映像や原発を津波が飲み込む映像が繰り返される。

こうした報道番組の「そのものずばり」路線は、テレビ番組の制作においてはごく当たり前ように繰り広げられるが、見ていて「またこの映像か」という既視感・違和感をもたらすのも事実だ。本物の映像でも、何度も見せられることで視聴する側に逆にリアルさが薄れてしまい、表現として薄っぺらく受け止めてしまう。また何度見ている映像でも実際に津波を体験したり、津波映像がトラウマになってしまった人にとっては当時の映像を見るのはつらい体験だという問題もある。

そうした本物のニュース映像をいっさい使わず、しかし、視聴者にあの日の恐ろしさを思い起こさせた「あまちゃん」。

名手・宮藤官九郎の脚本とNHKスタッフの演出。その表現の見事さは本当に歴史に残るものだった。

他方で、リアルなはずのドキュメンタリーやニュースで実際の映像を多用し、かえってリアルに伝えることができない今のテレビ全体の薄っぺらさが対照的に浮き彫りになった。テレビ報道では、実際に存在する映像は使うということが習い性になっている。映像があっても使わない、という表現をするケースは稀だ。

実際の映像を使えばリアルに伝わる、ということではないのだ。かえって逆効果の場合も多い。

テレビ番組も、一種の「表現」であるならば、「あまちゃん」のように実際の映像をあえて使わないで、当時の恐ろしさを描く方法もある。特に報道ドキュメンタリー番組やニュース番組で、繰り返し使われ、かえって安直な印象しか与えない実際のニュース映像の軽さはどうだろう。

テレビの報道にかかわる人たちは「あまちゃん」での描き方の研ぎ澄まされ方をよく見習ってほしい。

どんなシーンでもあっという間に映像がネットなどに氾濫し、リアルさを失っていく、今という時代のリアルさとは何か。

私自身、テレビ報道に長く携わってきた人間として、リアルに表現するというのはどんなことなのかをおおいに考えさせられた。反省させられた。それほどに「あまちゃん」の3・11の表現は際だっていた。

大震災の哀しみやつらさをどうやって表現するか。報道の現場ももっと悩むべきだ。

報道屋として、ジャーナリストとして、リアルさを追い求める者は、この日の「あまちゃん」を見るがよい。