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一夜の情事動画を拡散された女性の恐怖と並走した廣田朋菜。心がけたのは「私たちを映し出す鏡になること」

水上賢治映画ライター
「VIDEOPHOBIA」 主演を務めた廣田朋菜 筆者撮影

 現在公開中の宮崎大祐監督作「VIDEOPHOBIA」の主人公は、女優になる夢に破れ、東京から地元・大阪に戻った29歳の愛。まだ夢を諦められず、バイトをしながら演劇ワークショップに通う彼女は、ある晩、クラブで出会った男と一夜を共に。すると、その情事の動画がネット上にアップされ瞬く間に拡散されてしまう。

 ネット社会の闇に翻弄され、凌駕される――この罠に陥ったヒロインを演じたのは、インディーズ映画を中心に活躍する廣田朋菜。今年公開された「クシナ」では娘の将来に思いをさせる愛情深い母役に取り組んだ彼女だが、ここでは心に支障をきたす現代女性の心理をいい意味で大げさになることなく自然に演じ切った。

 本作のはじまりを彼女はこう振り返る。

「2018年の大阪アジアン映画祭に、私は速水萌巴督の『クシナ』で、宮崎監督は『TOURISM』で参加されていた。宮崎監督とは顔見知りではありましたがきちんとお話をしたことはなく、流れで映画祭の打ち上げで一緒に飲むことになりました。

 そのとき、『VIDEOPHOBIA』のプロデューサーを務めることになる西尾(孔志)さんもいらっしゃって、宮崎監督と3者で話すことになって。そのうちに『大阪で映画を撮るのですが廣田さん出ませんか』という話になったんです。

 そのときから宮崎さんは、私の顔に『興味がある』とおっしゃっていて。で、撮るにあたっては私を研究しなくてはいけないということで、『しばらくの間、観察させてくれないか』と(笑)。その後、何度かお会いしていろいろとお話したり癖や歩き方を観察されてました。それが『VIDEOPHOBIA』でした。だから、飲み会の席で始まったことといっていいです(笑)」

 最初の脚本を読んだ印象をこう明かす。

あまりこういう経験はないんですけど、宮崎さんのヴィジョンを感じられたというか。ここはカメラがひくとか、ここはズームとか、なんか感覚としてわかったんですよね。

 脚本を喫茶店でお茶をしながら、私が感じたことを宮崎さんに率直にぶつけて、それに対して宮崎さんが返す。なら、ここはこうしようと、つめていくことができた。積極的に自分が関わっていける環境を作ってくれましたね」

廣田朋菜 筆者撮影
廣田朋菜 筆者撮影

愛をわかった気になりたくなかった。愛と並走することで、私自身が彼女を知っていきたかった

 情事の動画の拡散をどうにか止めたい愛だが、問題の男は姿をくらます。勇気を出して警察に申し出るが、なかなか信じてもらえない。終わりの見えない状況に愛の不安と恐怖は募っていく。この徐々に心を蝕まれていく愛を、演じる上ではひとつ決めたことがあったという。

「たとえば泣いたりとか、叫んだりとか、愛が感情を爆発させて一瞬でも気持ちが楽になってしまうのは違うんじゃないかと思って。そういう感情の発露に寄せた演技はしないと決めました。

 見ている側も主人公が気持ちを解放してしまうと、ひと息つけて楽になってしまうと思うんです。もしかしたら、気持ちを解放して、ここは怒っているとか、ここは悲しいとか、きちんと見せる方が、見ている側もわかりやすく気持ちがすっきりして愛に共感してくれるかもしれない。でも、それはずるいというか。今回の作品に関しては愛の気持ちを感じて消化してしまうのは違うんじゃないかと思ったんです。

 人の奥底にある感情なんてそう簡単にわかるものでもないし、必ずしも表にでるわけではない。複雑で常に揺れ動く。ましてやこういう不測の事態に直面したら、心は発狂しそうでも、表向きは平静を装ったりする。泣いたり、笑ったりすることで簡単には気持ちが回収できるわけではない。

 それをわかりやすい感情表現に置き換えるのはどうかなと。そうすることで、愛という人間が安易にわかった気になってしまってはいけないと思ったんです。

 見てくれるみなさんもそうですけど、なにより私自身が愛をわかった気になりたくなかったんですよね。

 わからない中で愛と並走することで、私自身が彼女を知っていきたかった。見てくださる方にもそういうふうに感じてもらえたらなと思ったんです」

監督からは「鏡になってほしい」

 そこには宮崎監督からのこうした助言もあったという。

「宮崎さんに『鏡になってほしい』と言われたんです。この考えは合致したというか、腑に落ちた。愛は自分とはまったく関係のない人間ではない。なにかしら見てくれた方々の自分を映し出している存在として感じてもらえればと思ったんです。

 なぜ、『鏡に』という考えが納得できたかというと、私の考えですが愛には『自己』がないように一見するとみえる。主体性があるようでないんですよね。女優になりたいという夢はありますが夢がなくてはいけないみたいな概念に縛られている気もする。でも、愛は周りに流されてる。いかようにも変化してしまう。その自分の存在意義が感じられない、所在のない感じは現代を生きる私たちにけっこう当てはまっているのではないかと。そういう意味で、いまをふつうに生きている私たちを映し出す鏡のような存在になればいいかなと思いました」

映画「VIDEOPHOBIA」より
映画「VIDEOPHOBIA」より

なにかがひっかかって消化できないまま家までもっていってもらいたい

 同時にこんな気持ちもあったという。

「わかりやすいことは悪いことではない。ただ、その場で消化してしまってなにも残らない可能性がある。

 その場で終わってしまうのはちょっと寂しいというか。それよりもなにかひっかかって、消化できないで家までもっていってもらえたらなと

 振り返ると、私が好きな映画は、子どものころから変わっていなくて、物語でも俳優さんでもキャラクターでもいいんですけど、どこか自分につっかかってくるなと思える作品なんですよね。気づくと物語や登場人物が自分にひっかかっていてそれを家にまで持ち帰ることができる。

 最近、自分が大人になってしまったからかなのか、そう思える作品になかなか出合えないというか。なにかその場では楽しくても、家に帰るとなにも残っていなくて、突き放されて寂しくなることが多いんです。

 だから、できるかどうかわからないけど、今回は、なにか家にまで持ち帰ってもらえる作品になればなと。愛にひっかかってもらえるように演じたところはあります」

 こうした考えのもと、オーバーアクションな表現は封印したという。それは自身の演技を見つめ直す作業でもあったそうだ。

「台詞がちゃんと言えてるか不安になると伝えなきゃいけないという気持ちが強くなって、芝居の動きがオーバーになっている時がありました。自分で、『なんでここで手の動きをいれるかな。いらないじゃん』とか思うことがあったんですね。

 そういうことを宮崎さんに見透かされたというか。『余計なことをしないほうが映画の中で、伝わることがある。そのほうが際立つことがある』と指摘されたんですよね。

 人に伝わらないことへの怯えが自分の中にあったんだと思います。それが今回でちょっと払拭できたかもしれません」

 愛は女優志望。どこか自分と重なる部分もあると思うが?

「実は、それも考えることはやめました。そこを考えちゃうと廣田朋菜になってしまう、これはこれで自我が崩壊してしまうというか。設定にとらわれないようにしました。

 特に女優だからどうこうとか、大阪出身だからとか、在日であることとか、重要な背景ではあるんですけど、意識しすぎない。愛というひとりの人間として立っていればいいのではないかと」

ネット世界はもうひとつの争いの場を生んでしまったのかも

 作品は、誰の身にもふりかかるかもしれないリベンジポルノの危険や、情報が独り歩きしていくネットの在り様などを提示。そこには、いまという時代が色濃く映し出される。このネット世界の恐怖をどう受け止めただろうか?

「私個人はソーシャルメディアやSNSをあまり活用していません。インスタグラム、Twitter、Facebookはやっていますけど、積極的に使ってはいない。自分から何かを発信するとか苦手で。じゃあ、なんでなにかを表現して人に届ける俳優なんかやっているんだと言われそうなんですけどね(苦笑)。

 だから、今回は私自身も突きつけられたというか。改めてネット世界について考える機会になりました。

 ひとつ思ったのは、ネット世界はもうひとつの争いの場を生んでしまったのかなと。今も世界のどこかで争いが起きていて、人が殺し合っている。それと同じようなことがネットでも起きているのではないかネットでの誹謗中傷などが一気に広まって炎上したりするのをみると、言葉による暴力で人が人を殺しにいく戦争のように映るしかも国家単位ではなく個人単位というとんでもない事態だと思います。実際、追い込まれて、命を断つ人がいる。恐ろしいことだなと思いました。これはどうしたらいいのか、今も私の中では答えが出ていません」

 俳優は顔が表にでる仕事。その点でも考えたこともあったという。

「いわゆるパブリック・イメージでみなさんに見られる。もちろん、パブリック・イメージとふだんが合致していらっしゃる方もいる。一方で、実は大きくかけ離れていて、勝手なイメージが独り歩きしている方もいらっしゃると思う。

 私は完全な後者で(笑)。知人とかから、ネット上でのあなたは『クールでミステリアスなイメージがある』と言われて、びっくりしたんですよ。今日お会いしておわかりになったと思うのですが、クールとかかけ離れていて、大口をあけてゲラゲラ笑うようながさつな人間なんですけど(苦笑)。そのイメージと今も折り合いをつけられていない。

 ただ、それはそれでいいかなと最近は思い始めて。俳優としてはそういうある種の別人格があるのは悪くないのかなと。そういうギャップがあって成立する役もあったりしますから。それも悪くない。

 ただ、ひとりの人間として考えると心が荒むといいますか。意識はしていないですけど、自分を捏造してミステリアスにみられるように知らず知らずにしているんじゃないかとか、こうみられたいという深層心理があって、そこに近づけようと自分で自分を偽っていないかと、考えるところがあります

映画「VIDEOPHOBIA」より
映画「VIDEOPHOBIA」より

いろいろな意見があると思っていますが、私は希望を見い出しています

 とどまらないネットの恐怖からどうやっても逃れられない愛はひとつの決断を下す。この決断は大きな衝撃。「もはやそういう時代に入ってしまったのか」という感想すら抱く。ラストに関わることなので明かせないが、この選択を廣田自身はどう受け止めたのだろう。

「ラスト10分ですよね。私個人としては愛が生き抜くためには、この選択しかなかったのかなと。それぐらい、より不安定な時代に私たちは生きているのかもしれない

 ただ、このラストに関しては見ていただいた方によって、まったく違う解釈になるんじゃないかなと。はじめの話に戻りますけど、愛は鏡のような存在で、見る角度で表情が変わってくる。

 このラスト10分に幸せを見い出す人もいれば、恐怖を感じる人もいるかもしれない。

 ただ、私と宮崎さんの共通認識としては、このラストに関しては希望を見い出しています。どんなことがあっても見い出せる希望がある。

 こういう事態に直面したとき、泣き寝入りしたり、自分を傷つけて責めてしまって最後は…という負の連鎖に入ってしまったりするケースが多いと思うんです。でも、断ち切って生き抜く術はある。そうあってほしいという思いをのせているところがあります」

私はなぜ否定されるのか。わたし自身も自分を否定しないといけないのか悩んでいた

 話は変わるが俳優デビュー作は鈴木清順監督が2005年に発表した『オペレッタ狸御殿』。それから15年を数えるがこの道に入ったきっかけをこう振り返る。

「愛と同様に流されていつの間にかといった具合なんですけど(苦笑)。

 まず、幼少期にさかのぼるんですけど、私はそれほどアクティブな人間ではなく、部屋の隅で静かに本を読んでるのが好きなタイプの子だったんです。おとなしくて、体も小さかった。だから、いじめられたというか。すごく最近思い出したのですが小学生のときに、高学年の男子に追い回されたり、今考えると完全にセクハラに当たったりすることもされて、『世界はこんなに恐ろしいところなのか』と恐れ慄いた

 それがけっこうトラウマになって、そこからしばらく男の子っぽい服装をするようになった時期があったんです。ただ、その間も、なんで私は男の子っぽい服装をしなくてはいけないのかと思い悩むわけです。子どもは子どもなりに。

 で、中学に入った時に、制服で女子は強制的にスカートをはかなくてはいけなくなった。そうしたら、身長がいきなり10センチぐらい伸びて、自然とスカートの丈が短くなってしまった。自分ではまったく意図してなかった出来事なのに今度は女子の先輩に目をつけられて叱られるようになった。『なにそんなに丈短くしてんだ』と

 それで思うわけです。どうして私は何もしていないのに、自分自身を否定されるのだろうと。そして私自身も自分を否定して生きないといけないのかと。

 自分がこうありたいというのはないのに、勝手に周りに評価される恐怖を小学生の段階から味わっていた。

 中学生のときに母が芸能事務所に入ってみたらどうかと。スカウトされたりして母がその気になってしまってたまたま面接した事務所に入れてしまったんです。最初はモデルとしてスタートしたのですが。でも、そんなことで仕事が務まるはずもない。愛想よく人に感じよくも接せれない。見かねた当時のマネジャーさんの『だったら芝居やったらいいのではないか』というひと言で、気づけばこの道に入っていたんですね。

 そこでラッキーなことに(鈴木)清順さんの映画に出れることになったんですけど、そこが運命だったというか。

 当時まだ10代でしたけど、現場に立ったとき、言い方は悪いですが、いい大人たちが、いってみればくだらないことに本気になって目をキラキラ輝かせながら取り組んでいる。それにすごく感動したんです。

 簡単に言うと、『オペレッタ狸御殿』は、タヌキが歌って踊るお話(笑)。はしょりすぎですけど。でも、それに向け、3カ月ぐらいずっと稽古を積むわけです。しかも、ものすごい熱量をもって。こんな大人たちがいるんだと今までこんな人たちに会ったことないとびっくりしたわけです。

 それで、その後、清順監督に師事されていた渡辺謙作監督の『フレフレ少女』に出演させていただいたんですけど、なんだろう、そのときに変わったというか。いままで主体性なく流されてきていたんですけど、はじめてこの人たちに認められたいというか、この人たちの輪に入りたいと思ったんですよね。

廣田朋菜 筆者撮影
廣田朋菜 筆者撮影

 そこから意識が変わったというか。事務所に与えられたことをやるだけじゃダメ。自分の興味のあることに積極的に関わってっていくべきではないかと思い始めた。

 じゃあ自分は何を望んでいるのかを考えたとき、やはり清順監督の現場で感じたことが忘れられない。あの感覚を味わえるのは現場だなととにかく現場に行きたいと。

 しかも、商業の規模よりもインディーズ映画のほうがよりミニマムで、みんなで一緒に作っているという感覚が強く感じられるような気がして好ましいなと思いました。

 インディーズ映画中心にかかわっていきたいと思ったんですよね。当時の安直な考えで恥ずかしいですが。

 また、さっきの幼少期の話のように、わりと社会に対して、なぜという疑問を抱きながらずっと生きてきた。そういうことを表現できるのも、インディーズだけに関わらず映画なのではないかなというところもありました

2020年という年が何か自分の人生の大きなポイントになった予感

 今回の『VIDEOPHOBIA』の愛、今年公開されたもう1本の主演作『クシナ』のカグウ、この二つの役は、自分が映画で俳優として表現したかったことが体現できたのではないかと言う。

「愛は周りに流されているところから最後は自分で抜け出して、社会で生きていく覚悟を決める。一方、『クシナ』のカグウは母から束縛されることを嫌がりながらも、娘のクシナに対しても同じことをしてしまう。しかしこの連鎖をやめようと行動を起こす。

 どちらも、主体性のないところから、立ち上がった人たちなんですよね。それはどちらも私自身に重なるところがある。そもそも主体性ってなんだ?自己ってなんですか?それは必要なものなのか?他人と自分自身の違いはなんなのか?

 そういう意味で、自分が普段生きている中で感じてきたこと、私と映画との関わり方、映画で表現されていることがこの2作は合致した感覚があって。なにか俳優として自分がいろんなことをやってきたことを結実させた感覚があります。

 私自身としては、2020年という年が何か自分の人生の大きなポイントになった予感がいますごくしています。もし機会を与えてもらえるのなら映画のみならず今後はいろんな場所に自分を置いてみたいです」

映画「VIDEOPHOBIA」より
映画「VIDEOPHOBIA」より

「VIDEOPHOBIA」

池袋シネマ・ロサ、第七藝術劇場、ほか全国順次公開中。

キービジュアル及び場面写真はすべて(C)「VIDEOPHOBIA」製作委員会

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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