学校再開のいま改めて考えたい「いまどきの子どものリアリティー」。元教員の映画監督に訊く
学校がようやく再開し始めた、このときを待っていたのではないだろうか?新型コロナウィルスの影響で、当初の公開から延期され、ようやく公開を迎えた『許された子どもたち』は、そんなふうに思える1作といっていいかもしれない。
忘れてはならないのは今回のコロナ禍で、真っ先に不自由な生活を余儀なくされたのは、学校が休校となった子どもたちだ。そして、この間、給食の休止、子ども食堂の営業停止などの影響による子どもたちの困窮、外出できないことによる親の虐待といったことへの懸念がメディアで伝えられた。本作は、こうした日本の子どもたちをめぐる決して恵まれているとはいいがたい環境に目を向けている。
いまの子どもたちは関係性を崩さないことにものすごく気を遣う
手掛けた内藤瑛亮監督は、2012年の初長編『先生を流産させる会』など、子どもをめぐる現実を描いた作品を早くから発表してきた。特別支援学校(旧養護学校)の教員をしていた異色の経歴を持つ彼は、いまの学校の子どもの現状をこう見据える。
「まずなにより、クラスのヒエラルキーの存在ですよね。異常なぐらいお互い空気を読む。友だち関係の大切さは僕が子どもの時代から変わっていない。ただ、いまはLINEをはじめとするSNSがあるので、四六時中、友だちであることを求められるというか。仲は確かにいいんですけど、たとえばすぐ既読にしないとまずいみたいな関係性を崩さないことにものすごく互いが気を遣う。そこに圧迫感を覚え、疲弊し、息苦しさを感じている子が多い気がしますね。
僕の子ども時代にも、ヒエラルキーはあって。昔はいい意味でも悪い意味でも不良がトップにいて、ヒエラルキーはパワーで決まっていた。でも、いまは不良のような突出した存在はいない。むしろ目立つとまずい空気がある。波風を立ててはいけない。だから、表からはなかなかパワーバランスが見えない。そして、ヒエラルキーはパワーではなく、コミュニケーションスキルで決まってくる。それが残酷な形で露出するのが、いまどきの陰湿ないじめだと思います」
いじめは恐ろしい行為なのに、どこか楽しんでしまうところがみんなにある
振り返ると、内藤監督の作品は、子どもの中にある残虐性に深く根差しているところがある。
「僕が小学生だったとき、いじめがあったんです。いじめられていた子がすごく短気な子で。なにか言うとすぐキレる。だから、どっかみんなでわざとキレさせてそれを楽しむような雰囲気がクラス全体にあった。それから、そうなるのはすぐキレてしまう彼に責任があるといった感覚みたいもまたクラスの中で共有されていました。
そのため、あまり当時としては僕もいじめだという認識がなくて、どちらかというとキレている彼を笑っているというか。いじって楽しんでいるところがあった。いま考えると、恐ろしいことだと思うんですけど、いじめは、子どもの側には一種のエンターテインメントとして楽しんでしまうところがある。
いじめ問題を議論すると、対処法として、いじめがいかに良くないことかをとうとうと言い聞かせることが大切といったことに収まりがち。でも、僕は、そうではなくて。恐ろしい行為なのに、どこか楽しんでしまうところがみんなにあることをそれぞれ自覚することが大事なんじゃないかと思うんですよね。
作品を作る上で、そのことを踏まえているところはあります。
たとえば、今回の作品は出演を希望する中学生を対象にワークショップをやったのですが、そこでロールプレイをやりました。どういうものかというと、抽象的な役名を付けて、その名にちなんだことを罵倒するといったもの。アイスクリームさんと名前を付けて、みんなで突っ込んでいく。『おまえ甘いんだよ』とか、『おまえのせいで太るんだ』とか、『すぐ溶けるなよ』とか。
すると、続けるうちにおもしろいフレーズをいかにいうかという心理が生まれてくるんですね。ちょっと気の利いたことをいうと、みんながどっと笑うので。その反応を得るとうれしいので、どんどんエスカレートしていく。その場としては大喜利みたいな感じで、ものすごく楽しい場になる。でも、一歩引いた目でみると、相手を傷つけるための言葉の先鋭化のようなことをやっている。
今回参加した子どもたちも、ものすごくいいようのない気分になっていた。『けっこう怖いことしちゃった』とか、『正直、その場ではすごく楽しかったけど、まずいことした気がする』と。
このような加害行為による高揚感というのが誰しもの中にある。ゆえに、誰もが加害者になり得る。加害者側にはある種の楽しさもあるから、より実は危うくて恐ろしいんだという考えのもと、これまでの作品も今回の作品も作っていますね」
こうした基本スタンスのもと挑んだ本作『許された子どもたち』は、実際に起きた複数のいじめによる死亡事件に着想を得ている。ポスターやチラシなどにうたれている「あなたの子どもが人を殺したらどうしますか?」という言葉に表されているように、同級生を殺めた中学一年生、絆星が主人公。「なぜ、彼は人を殺めてしまったのか?」ということがまったくわからないところから物語は始まる。
「前作の『ミスミソウ』も同じ『いじめ』が物語の核になっているんですけど、前作は、いじめられる側といじめる側の心情を明確な形でエモーショナルに描き、ある種のカタルシスを得るような作劇でした。ただ、今回はそういったカタルシスで収めてしまうような形にはしたくないなと。まずは、この問題を描こうと思ったら、そういった感情のカタルシスでは済ませない。
それから、ご指摘のとおり、絆星が人を殺めてしまったのは殺意があったのか、それとも事故だったのかを明確にしないで描こうと思いました。それは、少年審判が普通の刑事裁判と違い、少年たちの非行の更生を主目的で行われる。だから、事の真相を明らかにすることに必ずしも主眼を置いていない。そこに対する問題意識が僕にはありました。
もしあの少年審判の目的がもっと事実を明らかにすることであったら、この物語でいえば絆星に殺意があったのか、なかったのか、事故だったのかどうだったのかということをもっと細かく突き詰めていけば、彼自身もそれを振り返ることで、事実を明確にして受けとめることができたかもしれない。それがひとつ更生につながるかもしれない。
ただ、事実を明らかにするよりも、彼を守ることに周囲にいる大人たちは動いてしまう。大人たちが動いてしまい、結局、事実がぼやけてしまう。すると、絆星自身もほんとうはどうだったのかよく分からなくなってしまう。
罪を犯した本人が事実と向き合えない、そして、事実と向き合う機会を大人たちが奪ってはいまいか?そういう少年審判に対する問題を突きつけたいところがありました」
これは少年審判に限ったことではない。たとえばオウム真理教の事件など、本来、徹底的に事実を解明しなければいけないことが日本では、曖昧な形で閉じてしまうことが少なくない。
「やはり日本は自供に偏重しているというか。証拠がなくても自白があれば検挙できたり、有罪にできてしまう。なので結局、事実を明らかにすることよりも、本人がやったかどうか、自供させてしまえば終わりという意識がどこかにある。だからこそ自白の強要とか違法な取り調べが生まれてしまう。そういう土壌があるような気がします」
少年犯罪や贖罪の在り方など、問題意識を共有する
こうした問題意識を共有することも含め、先述したワークショップを実施した。
「低予算の自主制作映画になるので、俳優を拘束できる時間も限られる。その中でも、テーマである少年犯罪や贖罪の在り方についてじっくり俳優と意見交換をして、意識を深めていきたい思いがありました。
監督から見えている景色と、役者から見える景色はやはり違って、役者からの意見で発見があったり、テーマが深まることもある。今回は子どもたちの視点からこのテーマについてのアイデアが欲しいなと思ってやりました。
ある設定のもと、好きに演じてもらったり、ある事件の傍聴記録を全員で読んだりして、考えを深めていきました。即興によって子どもたち自身から出てきたアイデアを脚本や演出に反映しているところが多々あります」
いじめは被害者よりも加害者になる可能性の方が高い
出演者全員が問題意識を共有して作り上げていった作品は、現在の子どもをめぐるさまざまな問題を提示。まず「あなたの子どもが人を殺したらどうしますか?」という問いをわたしたちは突きつけられることになる。
「実は、これは大人役のオーディションのときに投げ掛けた問いなんですよ。そのままキャッチコピーにしてもらったのですが、いじめの事件、ほかの犯罪もそうですけど、ほとんどの場合、みなさんは被害者側の視点で受けとめると思うんですよね。自分だったり、自分の家族が加害者になる可能性をほとんど考えない。
ただ、たとえばいじめに関していうと、いじめは1人に対して大人数が行うことなので、実は加害者になる可能性のほうが高いんですよ。でも、いじめのニュースをみたとき、子を持つ親ならおおよそは、自分の子どもがいじめられたらどうしようと不安を抱く。被害者になることは想像できるけど、加害者になることを意識的に避けてしまう。
そういう人間の心理や、現実との矛盾を、ある意味、この作品で加害者側の視点を観客に届けて、世に問いたいところがあったんですよね」
加害者側になることを想像しない。たしかにそうかもしれない。それは裏を返すと、自分が加害側に回ったほうが実ははるかに恐怖が大きいのではないかということを表しているのかもしれない。
「自分が加害側になることはなかなか受け入れがたいことですよね。そちらのほうがはるかに恐ろしいことなので、どうしても避けてしまう。考えないで済ますところが人間の心理としてあるんだと思うんです。誰しも意図せず、誰かを傷つけてしまったことがあると思うんですね。そういうとき、相手に『ひどい』とか言われると、防衛本能で『誤解だ』とか『そういうつもりじゃないんだけど』とか自分を守りたくなってしまう。そういう心理が働くと思うんですね。
教員時代の経験でも、保護者の方で、やはり自分の子どもが問題行動を起こして加害者側だったというとき、自分の子どもを守りたい思いから、『何か誤解があるんじゃないですか』とか、『実はうちの子が被害者なんじゃないか』と口にする人がいる。それほど加害者であることは受け入れ難い。そのことにいま自分自身も含め向き合うことは大切なんじゃないかなと思ったんですよね」
世間のバッシングは加害者家族から贖罪を遠ざけていまいか
このできれば考えたくない現実に向き合うことを体現するのが、絆星の母親の真理だ。息子の無実を信じる彼女は、一度は犯行を自供した絆星を弁護士とともに説得。否認に転じた絆星は、無罪に相当する「不処分」の決定を受ける。これに対し、世間は猛バッシング。しかし、息子を信じて疑わない真理は、なぜ無罪の自分たちが責められるのか納得できない。世間から批判を浴びれば浴びるほど、モンスター化していく。
「2011年に滋賀県大津市で起きたいじめ事件のとき、加害者側の少年のお母さんがうちの子は悪くないみたいなビラを配ったことが話題になったんですね。劇中でも、それを反映した場面を作っていますけど、ニュースで見た段階では、僕も無茶苦茶なお母さんだなと正直思いました。
ただ、今回作品を作る中で、加害者であることをなかなか受け入れられないこと、子どもを守るのは自分しかいないんじゃないかという考え、そうしたある種の使命感や歪んだ愛情が絡み合うと、そういう行動を起こしても不思議ではないなと気づきました。
よくモンスター・ペアレンツとか、保護者の不条理な行動は、おもしろおかしくメディアで取り上げられますよね。ただ、単純にモンスターで済ましていると、それ以上、その保護者が抱えている問題の背景や状況に思いが及ばなくなってしまう。これは、僕も教員をやっていたときに先輩の先生からいわれたことなんですけど『仮に保護者から不条理なクレームがあったとしても色眼鏡でみるな』と、『あそこの家庭にはこういう状況があるからこういうことを言ってしまったのかもしれない』と思いを馳せるよう諭されたことがありました。
そういうことを想像しなければいけないのに、モンスターペアレンツという言葉で片付けてしまう。想像することを捨ててしまうと、よりその相手が孤立して、ある種、さらに不条理な方向へ進んでしまうことがある。
真理はかなり暴走しますけど、絆星とカラオケに一緒に行ったり、チェリーパイを作ったりとか、すごい普通のお母さんの側面もある。単なる怪物と片付けてほしくない思いがありました。
真理を演じた黒岩(よし)さんが話していたんですけど、話が進めば進むほど、周りからのバッシングが強まっていく。すると、真理を演じていて、『とにかく子どもを守らなきゃいけない』という思いが強まって、被害者の樹君とか被害者家族に対する思いが全く浮かばなくなってくる』とおっしゃっていて、『なるほどな』と思いました。
日本では加害者家族にほとんどのケースでバッシングが起きる。そのときに、ある種、加害者家族には被害者意識が芽生えるんじゃないかと。自分の子どもを贖罪の道に歩ませようとか、被害者に何かしら謝罪の意を示そうということより、まずそのバッシングから身を守ろうということの意識がはるかに傾けられて、逆に贖罪から遠ざけてしまうことがあるんじゃないかなと思ったんですよね。
日本には家父長制度の古い家族観にいまだにしばられているところがあって、犯罪が起きると本人はもとより家族にも責任がある考え方が強い。かつて鴻池祥肇という政治家が、誘拐の殺人事件が長崎で起きたときに、『加害者の親を市中引き回しにして打ち首にしたほうがいい』ということをいったんですけど、こういう発想はまだ日本に強く根差している気がする。
1998年にアメリカのアーカンソー州の中学校で銃乱射事件がありましけど、そのとき、加害者の親に手紙がたくさん届いた。そのほとんどが、親を支援するような内容だったそうです。『お子さんとの贖罪と向き合っていくために頑張ってください』といった。日本だとなかなか考えられない。すべては家族に責任があるという考え方でいいのかな?と思うんですね。それって、個人を認めていないことと同じなんですよ。そこにもいまわたしたちが共有すべき問題があると思ったんです」
たしかに個人と家族がいっしょくたにみられてしまう現実は否定できない。
「ネットバッシングも、川崎で起きた中1殺害事件あたりからすごく顕在化したと思って、作品に反映しているんですけど、ああいう正義感ゆえの処罰感情は誰しもあるとは思うんですね。悪いことをした人にはちゃんと罰が与えられてほしいという。そういう思いは僕の中にもある。
ただ、それがネットに誹謗中傷のようなコメントを書いたり、この作品の中みたいに実際に『天罰を与える』といった行動に走ったりするのは違う。それは被害者の救済にもならないし、加害者の贖罪をむしろ遠ざけてしまう。加害者をより凶悪なモンスターにしてしまっているかもしれない。それが果たして、社会のためにいいことなのか、正義と呼べるのか、そのことを考える機会にもなればと考えました」
一見すると普通の子が恐ろしいことをしてしまう。それがいまの子のリアリティー
真理に守られ、無罪となった絆星は、その犯罪を知る者にとってはある種の怪物。ただ、それを知らない者にとってはごく普通の少年に映る。こうした理由をこう明かす。
「川崎の殺害事件の加害者少年たちのリーダー格といわれる少年Aをモデルにしています。彼と両親の関係は悪くなくて、親と一緒にカラオケに行っていたりするんですよ。それをモデルにしていることに加え、先ほども少し触れましたけど、いま昔でいうところの不良がほとんど存在しない。こういった凶悪な事件を起こすのが、決して不良、いわゆる分かりやすい親や大人に反抗するような人間ではない。
周囲から『普通の子』といわれるようなタイプの子どもが残虐なことを起こしてしまう。なので、ここに登場する加害者少年たちも、めちゃくちゃ悪いやつというか、分かりやすい不良ではない。一見すると普通の子、そのくらいの子たちが居場所がなかったり、友達関係の緊張感に常にさらされ、ふとしたことから恐ろしいことをしてしまう可能性がある。それがいまの子どもたちのある種のリアリティーなんじゃないかということで、そういう形にしました」
ある意味、許されてしまった彼は自ら罪に向き合う機会をことごとく逃してしまう。
「みた方に、『全然救いがなかった』と言われるんですけど、僕としては何度か示しているつもり。救われる道はあった。それは転校先で知り合い、いじめの被害に遭う同級生の桃子と、殺めた現場に居合わせて罪と向き合う緑夢の存在。
社会学者の内藤朝雄さんがおっしゃっているんですけど、いじめの被害者から加害者に転じるときに、それは一種の癒やしの行為になると。弱い自分を壊して、強い自分をつくり、塗り替えていく。それはすごく間違った形の治癒行為なんですけど、そうなるパターンが多い。絆星はまさにそうやって強い自分を手に入れたんだけど、桃子を目にすることで弱かった自分と改めて向き合う。それが彼を贖罪への道とか、お母さんからの自立を促す唯一の存在になる可能性があった。でも、彼はそこに踏み出せなかった。
緑夢は被害者の家族に受け入れられようが、いまいが関係なく、とにかく謝罪の気持ちを示し続ける。本来であれば、絆星が示すべき行動に当たる。でも、それはものすごく辛い道であって、絆星は受け入れられない」
自分たちだけの世界に閉じこもってしまういまの家族像
こうして絆星は母とともに自分たちだけの閉ざされた世界へたどり着く。
「ある種の自立を失敗した男の物語にもなっている。母を選ぶか、愛する女性を選ぶかとなったとき、通常の物語であれば、好きな女性を選んで疑似的な親殺しをして成長していく。これが定石だと思うんです。
でも、この作品は親殺しに失敗して、自立することを自ら捨ててしまう。母と子がお互い自閉するというか内閉して、世界に対してすべてを閉じてしまう。これはいまの家族像によくあるパターンで、危ういところではないと僕は思うんですよね」
このようなできれば正視したくないいまの日本社会の実情を暴き、痛いところを本作は突いてくる。
「少年事件に関わらない、日本社会が抱える問題点が浮き彫りにできたかなと思っています」
タイトルは「許された子どもたち」だが、「許されない人間たち」のようにも感じられる。
「そうですね。逆説的な意味合いもありますね」
女性蔑視との批判を受けて考えたこと
内藤監督自身は、作品を作り終えて、こんなことが新たにみえてきたと語る。
「『先生を流産させる会』を作って公開したときに、けっこうご批判を受けたんです。それは、実際の事件は犯人が男の子だったのに、女の子に替えたことで、『男の罪を女に押し付けている』とか、『男の暴力性に目をつぶってしまっている』ということで、女性嫌悪、女性蔑視だとご批判を受けた。それからミソジニー(女性蔑視)に関する本は読むようになって、いまも勉強しているんです。
その問題の奥にあるのが、今回の主人公・絆星の人物像にもつながっているんじゃないかなとは少し感じていて。読んだ本の中に、男の子はどうして男らしく育つのかというものがあったんですけど、男性優位主義的な思想から社会が形成され、その中で育っていくと、自然と男らしさとか、男はこうあるべきものだという思想が身に付いてしまうと。非常に無意識的なレベルで。その中には、男は弱音を吐かないとか、弱音を吐かないで強くいるべきだっていう考えがあり、それによって男が自分を縛り付けてしまっている。男らしさに自らとらわれてしまっていることがあるのではないかといわれていて。
イギリスで行われた小さな子どもの感情を表すボキャブラリーの調査で、女の子のほうが断然ボキャブラリーが豊富だった。ただ、唯一、男の子が女の子を上回るボキャブラリーがあった。それは『怒りについて』。怒りを発散することに関してはすごいボキャブラリーが豊富だったとのこと。
男らしさとか男性はこういうものだということに男自身もとらわれていて苦しんでいて、悲しみとか弱さを吐き出せず、怒りばかりを発散するようになってしまうというんですね。絆星に照らし合わせると、彼はまさに自分の弱さを、お母さんに対してでも誰にも見せることができない。怒りを表出することでしかなにか発散できない。いまの男性を象徴しているのかなと思いましたね」
内藤監督作品は『先生を流産させる会』から常に「問題作」と称される。今回の作品もおそらくさまざまな波紋を呼ぶに違いない。ただ、個人的には内藤監督作品は「問題作」としたくない。内藤監督作品は、常にみんなが見て見ぬふりをしてしまう社会にある現実を描いているだけなのだ。
「問題作を作ろうという意識はないです。宣伝の流れでどうしても使いたいフレーズなのかなと思いますけど(笑)、僕としては単純に自分が興味のあるものを選んで描いているだけ。波風を立てようと思ってテーマを選んではいません」
僕が子どもたちを描き続ける理由
今回も内藤監督ならではの子ども映画が生まれた。子どもたちを描き続ける理由をこう明かす。
「僕自身が10代のころ、根暗でほとんど友だちがいなかった。不謹慎かもしれないですけど、『もうみんな死ねばいいのに』と毎日思いながら、過ごしていた。酒鬼薔薇聖斗は学年的には同じ年代で、ああいう事件が起きたとき、もしかしてあれは自分だったかもしれないという思いや不安を抱いたんです。そのことがまず大きいです。
だから、作品を作るとき、とくに初期は少年の目線から、かつていた自分の暗い面や、どろどろした感情を投影しながら描いているところがあります。
それから、大人になって教員をやっていた経験も大きい。教員時代は、かつての自分のように鬱屈を抱えた子どもたちと大人として向き合うことになった。そこで『じゃあ、大人や社会は子どもとどう向き合っているのか』という新たな視点が生まれた。今回の作品は、まさに子どもを通して、社会や大人側を描いている。
それでまだまだ描き切ったとは思っていない。それが理由かもしれません」
内藤監督作品を前にすると、日本の社会においての子どもの存在について真っ向から向き合わざるをえない。今回のコロナ禍においても、最初に被害をこうむったのは学校休校で学習機会を奪われた子どもたち。個人的にはますます子どもに冷たい社会になっている気がしてならない。内藤監督の目にはどう映っているのだろうか?
「今回の作品で描いていることでもあるんですけど、事件を起こした子どもの問題を家庭に押し付け終わらせようとする。それでいいのだろうか?と思うんですよね。本来であれば、もっと社会全体として受けとめるべきではないかと。家庭に問題があったということだけで片付けてしまっては何の解決にもならない。もっといえば、そうやって切り捨ててあとはないことにする冷淡さが日本の社会にはあるのではないか。
あと、単純に教育および子どもにかけられてる国のお金が諸外国に比べて少なすぎる。たとえば、よく児童虐待があったときに、児童相談所の動きが甘いとか、遅いとか、そのせいで死んだんだとバッシングが起きますよね。もちろん、誤った対応をしていることもある。でも、一方で、児童相談所にいる職員自体が少なくて手が回らないという現状もあるんですよね。なんで少ないのかというと、児童相談所にそれほど予算を割いていない現実がある。こういう子どものセーフティネットにはやはりそれなりの手厚い支援をしないと、子どもを守れない。家庭にすべてを押し付けるのではなくて、社会全体で子どもをもっと見守っていく形が必要だと思います」
「許された子どもたち」
ユーロスペース、テアトル梅田にて公開中。6月12日(金)より京都・出町座、6月20日(土)より神戸・元町映画館、広島・横川シネマ、7月4日(土)より宮崎キネマ館、7月10日(金)より別府ブルーバード劇場にて公開、名古屋シネマスコーレ、横浜シネマ・ジャック&ベティで上映決定。
写真はすべて(C)2020「許された子どもたち」製作委員会 (PG12)