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体罰容認の意識が根強い日本を問う。「子どもたちを脅かす現実を知ってほしい」

水上賢治映画ライター
『ひとくず』 監督・主演の上西雄大 筆者撮影

 いったい、ここ数年で、わたしたちはどれだけ子どもの虐待事件をメディアで目にしただろうか? 厚生労働省の発表によると、2016年度における児童虐待相談の件数は12万2578件。26年連続で増加しているという。

 映画『ひとくず』は、こうした見過ごせない現実を切実に受け止めた俳優で監督の上西雄大が強い意志をもって描き、世の中に問う1作だ。

聞き流すことはできなかった、医師から打ち明けられた児童虐待の実態

 こうした社会問題をひとつの脚本に書き上げた経緯を上西監督はこう明かす。

「精神科医の楠部知子先生から虐待の実態を耳にしたことが始まりでした。実は、仕上げの最終段階に入っている作品があるんですけど、発達障がいについて触れているところがあって、リサーチをするために精神科医の先生をご紹介いただいたんです。それが楠部先生でした。当然、そのときは、発達障がいについてお伺いしたんですけど、ひと通りのお話が済んだところで、話がかわって。『実は私、児童相談所で嘱託医をしています。虐待についてご存じですか?』とお話が始まって、言われたんです。『目を向けてあげてください、救われる命があります』と。

 まさか虐待の話をお伺いするとは思ってなかったので、もう不意を突かれたというか。ほんとうにむごい話をきいて、もうショックで打ちひしがれた。話をきいた直後から、もう怒り、悲しみ、むなしさとかいろいろな感情が自分の中で渦巻いて、収拾がつかない。その日は寝ようとしても寝れなかった。

 あと、楠部先生がそういう話を表情をほとんど変えずに淡々と話されていたことが心に強く残ったんです。それは自分たちにはどうにも踏み込むことができないように、僕の目には映りました。楠部先生曰く、アメリカなら警察の判断で虐待問題に踏み込める。でも日本では、子どもが『助けてください、虐待にあってます』と訴えない限り介入できないと。どうしようもできない一線が明確にあることが楠部先生を通じて見えたんです」

 その話は無視できなかった。

「聞き流すことはできなかった。『はい、そうなんですか』で済ますことはできなかったですね。聞いていたら、いろいろな子どもの顔が浮かんできたし、その状況も浮かんできた。

 あと、僕、焼き肉屋を経営しているんですけど、1回、店の個室で子どもが『やめて!ごめんなさい!ごめんなさい!』って悲鳴のような声を上げたことがあったんですよ。それで、何事かと思って行ったら、どうも暴れたような形跡がある。僕が『大丈夫ですか』というと、父親らしき男は無言。お母さんは『大丈夫です』と。ただ、近くのお客さんが警察を呼んだんですよ。で、警察が来て話を聞くわけですけど、そこまでで。あとはふつうに帰っていった。ものすごく子どものことを心配になったんですけど、どうすることもできない。楠部先生の話をきいたときに、そのときのあの子の顔が思い浮かんだんですね。

 それから、僕の父親がやっぱり暴力を振るう人だった。毎晩のように母親は殴られたり、蹴られたりしていた。僕自身は一度もないんですけど、暴力をどこか肌で感じていた。だから、大人に暴力を向けられた子どもの恐怖がどんだけ怖いか想像できるところがあったんですね。そういうこともあったので見過ごせなかったですね」

 いてもたってもいられず、その晩一気に脚本を書き上げたという。

「もう、ああだこうだと考えても仕方がない。とりあえず、自分がいま感じたことを思いつくまま書いてみようと。書くことでしか気持ちを整理することができなかったというか、憤りを収めることができなかったというのが正確な心境だったかもしれない。殴り書きのように一晩で書きあげたんです。

 その後、楠部先生に書き上げた脚本をみていただいて、児童相談所職員はこういう対応やものの言い方をするとかアドバイスをいただいて、修正している部分はあるんですけど、おおまかなストーリーは最初に書いたものからほとんど変わっていません」

 こんな監督が心の震えるまま書き上げた物語は、空き巣を生業とする金田が主人公。ある日、いつものようにあるアパートに侵入した彼は、そこで外側から施錠され家に閉じ込められた少女、鞠に遭遇する。食べる物は底をつき、電気もガスもとめられ鞠は風呂にも入っていない。いつ親が帰ってくるかもわからないこの少女に、無軌道に犯罪を重ねる破綻者の金田は手を差しのべる。実は彼自身、虐待を受けた過去を持つ。

「行政も警察も介入できないこの事態を打破できる人物を考えたとき、もう法律とかルールとか関係ない。つかまろうが何されようがとにかく自分の感情だけで動いてしまうような人物じゃないと、少女を救い出すことはできないんじゃないかと思ったんですよね。それこそ家族とか、仕事とか、子どもとかを背負っている人間がそう動けるとは思えない。子どもに暴力を振るうような男を、常識的な人間が言葉で説得できるとも思えなかった。もう食うか食われるか、なりふりかまわずいける人間じゃないとと。

 ただ、そういう人間が正義感だけで子どもを助けようと動くとは思えない。そのとき、楠部先生がおっしゃっていた『負の連鎖』という言葉を思い起こしたんです。『虐待を受けた人は虐待してしまうことが多い』と。ただ、僕は逆に虐待を受けた人間は、その痛みを誰よりも分かっている可能性もあるから、かつての自分を救うように、同じ目にあっている子どもを助けようとすることは不思議ではないんじゃないかと思ったんです。こうした思いから生まれたのが金田という男になります」

映画『ひとくず』より
映画『ひとくず』より

 鞠にかつての自分を重ね合わせた金田は、世間の常識とはかけ離れた自分なりの武骨なやり方で、彼女と母親の負の連鎖を断ち切ろうとする。

「金田のやることは正しいことではない。でも、さっきも言いましたけど、それぐらいのことをもってしないと、子どもをその環境から救うのは難しいと思えたんですね」

裏を返せば、それぐらいいまの日本の子どもをめぐる状況に危機感を抱いた。その表れを金田という無法者に託したのかもしれない。

「鞠は体にアイロンで焼かれた痕がありますけど、これは大げさなことじゃないんですよ。楠部先生に言われたんです。『アイロンを押し付けられた痕のある子どもがたくさんいるんですよ』と。

 実は性的虐待の話もすごくお聞きしたんです。ただ、もうこのことまで入れてしまうと、僕の心がもたないなと思って最初は外しました。でも、それはそれでなかったことにしてしまうのは問題だと思って、少し触れることにしたんです。ああいう性的な虐待がすぐ近くの子どもに脅威としてあるということをイメージしてほしくて。ほんとうに恐ろしいことが自分のすぐそばで起きているかもしれないんですよ」

暴力を振るうことの根底には「怯え」があるのではないか

 この金田を演じたのは、上西監督自身。演じていく中で、こんなことを感じていたという。

「脚本を書いたときは、ひとりの人間として怒りをもって夢中で書き上げましたけど、金田を演じるとなって、役者としての自分の中に入れようとしたとき、まず根底に生まれた感情は『怯え』だったんですね。

 金田は虐待を受けたときの『怯え』が大人になったいまも消えていない。その怯えがあるから、うまく人間関係が構築できない。他人をひどく罵りますけど、あれは自分が軽蔑されたり、バカにされたりすることに対しての怯えの裏返しなんですよね。で、その怯え=恐怖があるから、最後はそれを打ち消すように暴力に走ってしまう

 さきほど、『負の連鎖』という話がありましたけど、暴力の連鎖は、恐怖の連鎖なのではないかと感じました。怯えて暴力を振るって、その暴力を振るわれた子どもがまた怯えて暴力を振るってしまう。

 それを断ち切るにはどうしたらいいかというと、やはりそこは社会の関心だと思うんですよね。『大丈夫?』と手を差し伸べてくれる誰かがいたら、なにかが変わる。それは金田もそうだし、鞠の母親の凛もそう。

 本気で心配されたり、温かい言葉をかけられたら、そのときたとえ、『ほっといてくれ!関係ない!』と腹を立てたとしても、その人がくれた温かいものはどこかに絶対残るとおもうんですよ。それがどこか自分の暴力性を抑止させることにつながっていくんじゃないかなと。こういったことを金田を演じながら考えていましたね」

 ただ、物語は単にシビアで現実を辛辣に描いているだけではない。目を凝らせばきっとみえて、手に入れることができる穏やかな日常やちょっとした幸せにも目を向ける。

「人間生きていればいろいろなことがある。足を踏み外すこともあれば、大きな傷を負うこともある。でも、再び自分の大切なものを取り戻すチャンスはあると思うんですよね。だから、教育映画や啓蒙映画のように作って、こんな虐待の現実があって、こういう世界があります、と言うだけ言って終了みたいなスタンスで終わらせたくなかった。それである意味、各人に救いの場があることを示すものに結果的になりました」

相手を赦すことが自分にとって最大の救いになることもある

 その言葉を象徴するように、詳細は明かせないが、ラストシーンは、上西監督の人に対する優しい眼差しが感じられる場面になっている。

「人間、恨んだり、憎んだりばかりでは心は救われないというか。相手を赦すことが自分にとって最大の救いになることもあると思うんですよね。それで、ああいうラストにしました」

映画『ひとくず』より
映画『ひとくず』より

 このシーンは、母の存在の大きさも物語る。

「また楠部先生の話になるんですけど、子どもは絶対にお母さんだけは見捨てないと言うんですね。男の子も女の子も。母の愛というのはほんとうに大きい。そういう思いもどこか反映されたところはありますね」

 また、物語全体を見渡すと、どこか不平等や格差の怒りの矛先が、権力者に向かうのではなく、弱い者、より弱い者へとむかっていく、いまの日本社会も垣間見えてくる気がする。

 

「そういうところはあると思います。弱く傷ついていたものを見つけると、そこに群れを成して押し寄せて、狙って攻撃する。そのいき着く先が、子どもなのではないかと思ったところはありますね」

 作品は、ミラノ国際映画祭でベストフィルム賞と主演男優賞をW受賞するなど、国内外の映画祭で数々の賞を受賞。世界の人々の心に届いている。

「変な話なんですけど、たぶん児童虐待の問題は日本において最近ようやく表に出始めたことだと思うんですよ。海外ではずいぶん前から、社会問題として認識されていて、映画でも描かれてきた。だからか、国内だと『児童虐待』の映画としてある種のセンセーショナルな扱われ方をされるんですけど、海外ではちょっと違いました。なんというか、ひとつのヒューマン・ドラマとしてみてくれることがほとんどで、描かれている世界は悲惨だけど、よくこう言葉を寄せられました。『ビューティフルフィルムだ』と。つまり、もう世界では虐待は特別なものではなく、共通のテーマになっている。だから、ひとつの映画としてすばらしい物語と受け止めてもらえた。このことは、児童虐待を扱った題材ではなくて、映画自体を評価していただいた感覚があってうれしかったです」

 また、こんなことも感じたという。

「この物語を書き終えたときは、ほんとうにいまの日本ってどうなってんだろう、なんで大人は子どもに対してこんなことができるんだと、憤りが収まらなかった。でも、この作品を作って世に出そうとなったとき、協力してくださる人が次々と現れて、みなさんそれぞれ社会をよい方向へ進めようとされている。そのとき、まだまだ世の中捨てたもんじゃないな、というか、まだまだ社会にはこうした良心をもった人がいるんだなと思ったんです。こうした方々の良心が結集していけば、社会が変わっていくんじゃないかといまは思っています」

 この作品は自分にとって特別な作品になったという。

「楠部先生に言われたんです。『児童虐待の最大の抑止は社会の関心なんです、みんなが目を向けてあげることが抑止につながるんです』と。

 たしかに僕もこういうことがあることを知ってはいましたけど、心のどこかで悲惨なことだから『見ないでおこう』と目を背けてきたところがあったと思うんです。たぶん、同じような人は多いと思うんです。『そんなむごい話はききたくない』と。でも、なにかきっかけがあれば目を背けてばかりもいられなくなると思うんです。

 なので、この作品がひとつきっかけになってくれればなと。この作品を一人でも多くの人に見てもらえれば、子どもの見方が変わるかもしれない。そこから社会がかわっていくんじゃないかなと。

 あと、ひとりの役者としてこれだけ社会と向き合って、考え抜いたことは今回が初めてかもしれない。至らないところは多々あると思いますけど、社会に対して、ひとつなにか投げかけることができたと思っています。この作品を通して、子どもをめぐる環境について関心をもってもらえたら幸いです」

映画『ひとくず』より
映画『ひとくず』より

渋谷ユーロスペースにて4月3日(金)まで、名古屋シネマスコーレにて4月10日(金)まで公開中。4月10日(金)よりシネ・リーブル池袋にてほか全国順次公開

場面写真はすべて(c) YUDAI UENISHI

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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