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二つの国の段位を持つ柔道家 ー粟津正蔵九段へのオマージュー

溝口紀子スポーツ社会学者、教育評論家
日仏柔道の名伯楽、粟津正蔵九段 写真/l'Esprit du judo

3月17日、フランス柔道連盟の関係者から、フランス在住の粟津正蔵氏(享年92歳)の訃報が入った。戦後の柔道を支えた偉大な柔道家が旅立った。

粟津氏は日本とフランスからそれぞれ9段を与えられた稀有な柔道家である。

二つの国の段位を持つ柔道家の生き様は、戦後の柔道史と重なる。

戦前、日本の柔道界は東京にある講道館と京都にある大日本武徳会(武徳会)の二大組織から段位を授与していた。

粟津氏は1923年京都に生まれ、後者の武徳会で昇段していた。腕前も相当で現在の全国高校選手権に当たる当時の明治神宮国民体育大会を2大会連続優勝する強者であった。当時、強者であった粟津氏は高等専門学校を受けたが残念ながら全て不合格だった。がしかし大東亜戦争の学徒出陣として徴兵されずにすんだ。

とりわけ、当時の武徳会は、皇族が総裁であり各府県の知事が支部長を務める一大組織だった。中でも同組織の武道専門学校(武専)は「武士道精神」を掲げ、軍国主義に傾倒し皇道教育、武道教育の頂点となっていた。その武専の柔道教授がのちに粟津氏の恩師になる栗原民雄氏であった。

敗戦後、足場を失った柔道家

とはいえ、敗戦により日本の柔道の環境は一変した。武専の体制は、軍国主義を担ったとして、連合国総司令部(GHQ)により解散を命じられた。さらに栗原氏ら教授陣は、公職追放となり学校でも柔道や剣道は禁止となった。

このように武徳会が解散し足場を失われた武徳会の柔道家は戦後、欧州へ指導に渡った。

代表的な柔道家としては、道上伯氏である。道上氏は武専のキャプテンであり、1964年の東京五輪無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンクの指導者であった。 

また「フランス柔道の父」と呼ばれる川石酒造助氏は戦前から既にイギリスやフランスで独自の柔道教授法、連盟作りを推進していた。

彼らは、当時の日本がサンフランシスコ講和条約調印以前の占領下にあって、パスポート申請が困難の中でも渡仏することができた。

なぜなら当時、フランスでは日本人柔道指導者を切望していたからである。

当時のフランス国内も、武徳会系の有段者会(College des Ceintures Noires de France) 、現在のフランス柔道連盟の母体であったFFJ(federation Francais du Judo)、講道館フランス有段者会などの柔道団体が乱立し、とりわけ本家日本の武徳会が解散したことで混迷していた。だからこそフランス柔道界を一本化する必要があった。

新しい体制づくりのためには、高い技術と指導力をもつカリスマ性のある日本人指導者を必要としていたのである。

フランスで柔道復興を誓う

このような中で、栗原氏の推薦を受け、川石氏のアシスタントとして招聘された粟津氏は、1950年7月5日にマルセイユに船で到着した。生前、当時のことを「フランスに行くたびに、もう日本には戻れないのではないかとおもい、「八十八夜」や、初めて渡仏した当時を思い出し「アロハの港」などの歌をよく歌っていました。」と私に語った。

敗戦後、失意の中で「日本とはどうあるべきか」を柔道を通して実践した柔道家だった。その粟津氏の柔道発展の熱意は、渡仏後、誓約書とも言えるフランス柔術柔道連盟、有段者会に送った書簡から伝わってくる。

画像

1950年9月16日、粟津氏が渡仏した際にフランス柔術柔道連盟に宛てた書簡右→

出典:Bulletin Officiel de La Federation De Judo et DeJiujitsu College des Ceintures Noires de France septembre 1950, No.7

佛國柔道が日本柔道を根幹とし

更に川石師範の多年のご研究が

加味され広範に指導されている事は

現代の日本とは異なり之れをよく研究し

皆様方と共に佛國柔道界の発展に

尽くしたいと念願して居ります

一九五〇年九月十六日 六段 粟津正蔵

異国の地で日仏柔道選手を激励

粟津氏の功績は、近代のフランス柔道の礎を築きあげただけではない。日本チームが大会でパリに来る時には自宅に招待してくださったり大会中には日本食の差し入れをしてくださったりした。当時、日本料理店などあまりなかった時代に異国の地でのおにぎりの差し入れは日本チームにとっては何よりの激励になった。

また私はパリ留学時代に、粟津氏の家に一時期、下宿していた。夕飯の際は毎回、日仏の名伯楽から柔道の講義を受けた。「フランスで人生大半を過ごされたことをどう思いますか」という質問に「フランスでの生活は、自分にとっていろいろなチャンスに恵まれていたと思います。特に柔道が国際化するなかで自分の存在が、必要とされていたことです。一貫して不言実行、有言実行に努めてきました。」と鋭い視線で語っていた。

五輪直前になるとフランスチームの合宿に必ず出向き「Francaise,Nous allons!(フランス人よ、我々はやるぞ!)」と激励するのが恒例だった。サムライのような日本人師範の粟津氏が、フランス選手に向かって「我々/Nous」という第一人称を使い、檄を飛ばすとフランスチームの士気を鼓舞した。

今夏、行われるリオデジャネイロ五輪。直前合宿に恒例の粟津氏の激励がないのはフランスチームにとっては寂しいだろうが、永遠の柔道家になった粟津氏は日本人柔道選手とフランス人柔道選手の活躍を微笑ましく天国から観戦していることだろう。

<参考サイト>

1)フランスニュースダイジェスト

http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/4412-shozo-awazu-interview.html

2)フランス柔道連盟

http://www.ffjudo.com/actualite/deces-de-shozo-awazu-maitre-historique-du-judo-francais

<参考文献>

細川伸二,穴井隆将「フランス柔道発展史と粟津正蔵の存在」,天理大学学報236: 1―16,2014

溝口紀子「性と柔ー女子柔道史から問うー」河出書房新社,2013

溝口紀子「日本の柔道/フランスのJUDO」高文研,2015

スポーツ社会学者、教育評論家

1971年生まれ。スポーツ社会学者(学術博士)日本女子体育大学教授。公社袋井市スポーツ協会会長。学校法人二階堂学園理事、評議員。前静岡県教育委員長。柔道五段。上級スポーツ施設管理士。日本スポーツ協会指導員(柔道コーチ3)。バルセロナ五輪(1992)女子柔道52級銀メダリスト。史上最年少の16歳でグランドスラムのパリ大会で優勝。フランス柔道ナショナルコーチの経験をもとに、スポーツ社会学者として社会科学の視点で柔道やスポーツはもちろん、教育、ジェンダー問題にも斬り込んでいきます。著書『性と柔』河出ブックス、河出書房新社、『日本の柔道 フランスのJUDO』高文研。

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