ライターが“読モ”化している件について

業界話をするのはあまり好きではないんだけど、ずっと抱えていたモヤモヤが一つの言葉によって解消されることがたまにある。今回もそうだ。その言葉とは、「ライターの“読モ”化」である。

「ライター」を名乗り、それを生業にしている筆者は、ライターを取り巻く現状について考えることが多い。といっても、現在では「ライター」の定義自体が揺らいでいて、同業者と話していても共通認識が得られず、議論が空転することもしばしばだ。しかしそこに、「ネットやSNSの出現によって、ライターの仕事が『読モ』みたいなものに近づいている」という補助線を引くと、現状がクリアになる気がする。なにを言っているのかわからないかもしれないので、順を追って説明させてもらいたい。

まず、「読モ」としてのライターには、なによりもタレント性が求められる。顔出しはもちろんのこと、プライベートな情報も重要な「商品」になる。

さらに、「読モ」としてのライターにとっては、交友関係も「商品」になる。それらは主にSNSによって可視化され、お互いがお互いに言及し合うことによって、自分たちの価値を高める。

「読モ」としてのライターにとって、 ライティングは自身のタレント性を表現する一つの手段に過ぎず、必ずしもそれにこだわる必要はない。動画や音声配信、イベントなど、どんな形であれ自身を露出させることが重要になる。もちろん、書籍や放送メディアなどに進出することもある。その場合、コンテンツの中身は「知」ではなく、おそらく「共感」が大切になるはずだ。

なかには「情報商材」のようにビジネススキルを売る者も出てくるが、その場合も重要なのは「知」ではなく「共感」である。なぜなら、彼らが読者に売っているのは、「自分自身」だからだ。彼らのターゲット層は、「自分のようになりたい人」であり、読者は彼らのようになりたくて、コンテンツを享受する。彼らの考えに共感することによって、彼らに近づけると読者は期待する。

そして、実際に優秀な読者は、彼らによってフックアップされることもある。彼らの「商品」の一つである交友関係に組み込まれ、また新たな「彼ら」を再生産するシステムの一員に格上げされる。まさに、「読者モデル」である。この書き手と読者の近接、共犯関係を「ライターの“読モ”化」と表現すると、現状におけるモヤモヤが晴れ、少しは見通しが良くなる気がする。

Web上で活躍するライターや編集者、ディレクターなどといった人たちの区別がつきにくい問題も、これで解決できる。ようは、みんな自分自身を商品として売る「読モ」なのである。

筆者が思うのは、おそらく現在、多くの人が「ライター」としてイメージするのは「読モ」としてのライターなんだけど、彼らが物書きとしての「本流」になることはないということだ。

彼らの存在が、後世に振り返られることがあるとしたら、大きな意味での「芸能」のジャンルとして位置付けられると思う。たぶん1人か2人、もしくは3人くらいの名前が固有名として残ることになるだろう。そこでは、物書きとしてではなく、芸能における新興ジャンルの一員として既存の文脈に及ぼした影響が評価の軸になるはずであり、固有名として名前を残したいならば、芸能史の本流を意識した上で、どのような新しい価値が提示できるか、どのように既存の価値を塗り替えることができるかが重要になる。

ならば、「読モ」ではなく、物書きとしての「ライター」がどうなるのかというと、自ずと評論家などの専門家、ジャーナリスト、または職人に近づいていくと予想する。もともとの意味での「ライター」になりたければ、専門的な知識や批評眼、取材・企画・構成スキルを鍛える必要がある。当たり前のことだが、これが物書きとしての本流であり、「読モ」としてのライターと同様に、固有名として残るためには熾烈な競争に勝利しなければならない。

この記事で筆者が言いたいのは、どちらの方向性が正しいかを裁定することでも、「読モ」としてのライターや、本来の意味での「読モ」という職業を批判することでもない。「ライター」という言葉を巡って、今、分断が生じているということだ。「ライター」を名乗る筆者としては、どちらを選ぶにしても険しい道が待ち構えているが、少なくとも自分がどちらの道を歩んでいるのかには自覚的でありたいと思う。

当然、筆者がイメージできなかった未来として、「読モ」としてのライターが、物書きの本流になることもあり得る。未来学者ではないので、予想が外れることもあるだろう。違った未来がイメージできている方は、ぜひ教えていただきだい。

今回の記事とは直接関係ないが、昨年は著作権を無視したり、不正確な情報を流したりするメディアとライター(と、それを取り巻く構造)が問題になった。メディアやライターの定義が揺らぎ、分断が深まっている。活発な議論が求められる時期に差し掛かっているのではないか。

(宮崎智之)