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長谷川穂積の王朝が崩れたモンティエル戦。「あれは何?」試合前日に浮かんだ疑念

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
モンティエル戦。長谷川(左)の出来はまさしく最高に見えた(写真:アフロスポーツ)

 単騎、荒れ野を駆ける。長谷川穂積(真正ジム)はWBC(世界ボクシング評議会)世界バンタム級チャンピオンとして、絶対的な王朝を築いた。2006年、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)との再戦に痛快TKO勝ちを収めると、南北アメリカ、ヨーロッパ、アジアと世界中から挑戦者を招き、次々に打ちのめしていった。だが、思わぬ一撃で、長谷川の黄金に輝く時代はいったんは終わりを告げる。

 ボクシングの恐ろしさが、骨の髄まで教えられたその一戦。きっかり10年前の2010年4月30日の日本武道館。WBO(世界ボクシング機構)チャンピオン、フェルナンド・モンティエル(メキシコ)との実質的な世界王座統一戦でのこと。長谷川のバンタム級での総仕上げになるはずの戦いだった。

■誰もが待ちわびた実質世界統一戦

 あの日、やり残しの仕事を何とか片づけ、九段の急坂を走って飛び込んだ日本武道館。アリーナに入ったとたん、ワッと大きな歓声が沸き上がった。リングの方向に目をやると、西岡利晃(帝拳)の対戦相手バルウェグ・バンゴヤン(フィリピン)がキャンバスに転がっていた。西岡は立ち上がってきた対戦相手を無駄なく追い詰め、レフェリーストップに仕留めてみせる。4度目の防衛を果たしたWBC世界スーパーバンタム級チャンピオン、西岡の見事なフィニッシュに場内は歓声に包まれた。

 が、たぎるような感動とまではいかなかった。両足アキレス腱断裂のブランクから這い上がり、際立つ安定感を証明した西岡には失礼ながら、これはうれしい前触れでしかなかった。この日の観客1万1000人、ただの一枚も残りのチケットはない。彼らが待ちわびていたのは、いよいよその次にと迫った戦いである。

 建前上は長谷川穂積の11度目の防衛戦とだけなっているが、相手は現役の対立王者である。当時、JBC(日本ボクシングコミッション)がWBA(世界ボクシング協会)、WBC以外、メジャータイトルでもIBF(国際ボクシング連盟)とWBOの世界王座を認めていなかった。そのために統一戦の名札はつかなかったが、実質的な統一戦に違いなかった。4団体とも、ランキング表に他団体のチャンピオンの名前は別枠で連ねており、そのまま挑戦有資格者とみなしている。互いの団体王者として防衛戦とすることに何らの問題もなかった。

 だが、多くのファンにとっては、そんな肩書きなど、ほんとうはどうでもよかったのかもしれない。ここ5年間、WBCチャンピオンとして、無敵の強さを誇ってきた長谷川がいよいよ名実ともに世界最強へと大きな一歩を踏み出す。その雄姿をどうしても確認したい。日本のボクシングが久々に味わう空前の盛り上がりだったのだ。

 長谷川がこの戦いにかける思いはむろん、観戦する側も半ばいきり立っていた。私も同じく。長谷川の勝利を信じていた。この後に書く3点の不安を除くならという条件付きではあったものの、いざ試合が始まり、2回までの展開を見て、すべての疑いは消えた。

 ただ、希望のときめき、インターバルを交えて、たった7分後には粉々に打ち砕かれる。それも、突然に、だ。

■とことんまで強い足の強さが、長谷川をKOアーティストに変貌させた

 長谷川は強かった。歴代有数の名チャンピオン、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を破ってチャンピオンシップを握ると、楽々と防衛を重ねていった。2007年、山下正人トレーナーの独立に伴い、真正ジムへと移籍するが、そのボクシングの精度は一戦ごとにバージョンアップしていた。

 2008年6月の6度目の防衛戦(クリスチャン・ファッシオ=ウルグアイ)以降は、すべてのチャレンジャーをTKOで退けた。しかも、要したラウンドは5戦計10ラウンド。平均2ラウンドと、圧倒的な強みを見せる。かつて、スピードに長けたサウスポーとして売り出し、指導陣は「倒さないボクシングだけを教え込んできた」とまで言い切っていたサウスポーは、このころにはKOアーティストと呼んでいいほどのパンチャーに変身していた。

 抜群の目の良さをフルに活かして、パンチをかわしざまに打ち込むカウンターが素晴らしい。ことに、上体を下げるダッキングという防御技術から、すぐさま打ち込む左のパンチ。上から打ち下ろすオーバーハンド、拳をねじりこむクロスとも、いずれも奇跡的なタイミングでぶち当てる。すかさずフォローする右フックは南部鉄の重さである。

 それら一切合切、長谷川の強さを作りだしてきたのは、その下半身にある。どんなシチュエーションでも、抜かりなく、自分自身が一番打ちやすく、また最も打たれにくいポジションへと自在に、迅速に移動できる。角度のあるコンビネーションを連発しても決してバランスを崩すことはない。わずかに体が流れても、すぐに体の中心線にと重心を呼び戻し、対戦者の動きを追って強いパンチが打てる。それらは、スムーズなパンチングフォームと、ボクシングの全景を支える下肢の力があってこそ初めてできることだ。

 長谷川の体をマッサージしていた人物に尋ねたことがある。「彼はよほど柔軟な下半身を持っているんですね」。その人物はちょっと首をかしげてから言うのだ。

「柔軟さとは違いますね。強いんですよ。ひたすら足の力が強い」

 長谷川のふくらはぎを思い出して納得した。鶏卵のひとつやふたつが入っているように盛り上がっている。

 技術面で不安があるとしたら、ひとつだけ。カウンターを狙うあまりか、ときおり対戦者のパンチを不用意にもらうことがあった。長谷川自身は答える。

「あくまでも打たせないで打つのが、オレの基本ですけど、たまに打たれたって大丈夫。オレ、打たれ強いから。ほんとうに効いたのは鳥海純戦(ワタナベ=2004年に世界挑戦者決定戦で判定勝ち)くらいかな。でも、倒れんかったでしょ」

 この点についてだけはいささかの過信があったのは、その後に明らかになる。

■限界に迫っていた減量の影響

 盤石な強さを発揮する一方、長谷川は常に不安を抱えていた。減量である。KOを量産するあたりになって、いよいよ深刻になっていた。戦うたびに足がけいれんするのだ。幸い、多くの戦いは序盤で決着をつけていたからなにごともなかったが、けいれんは過度の減量がもたらしたものに違いなかった。

 長谷川は毎試合、10キロ前後もの減量を強いられていたのだ。バンタム級リミット約53.5キロまでの余剰の肉をそぎ落とす手段は、実に古典的だった。絶食、水断ちあるのみ。

「体から水分がなくなっていくのが分かります。足の裏がカチカチに固まって、深いひび割れができるんです。ちょっと走っただけで血がにじむんですよ」

 減量の苦しさを、そのまま試合にぶつける。これも、決められたウェイトで戦うボクサーの宿命といえばそれまでだが、科学的、医学的に見れば、危険な賭けでもある。

「試合当日の朝。牛丼のチェーン店に行って2000円分食べるんです。牛丼屋で2000円食べるって大したものでしょ」

 大食いを自任していた長谷川は、笑って語っていた。

「体重はもちろんリバウンドさせます。それができるのは、オレの胃腸の強さがあるから。それもボクサーの強さです」

 毎試合、リングには60キロ前後の体重で上がっていた。ただし、水断ちによる脱水症状は、一昼夜では回復しない。だから、けいれんも起こる。すべて本人も承知の上だった。

 取材者の領分を越えて、何度もスーパーバンタム級、フェザー級への転向を勧めたものだ。手にしたタイトルがいかに大事なものであって、おいそれと手放すことができないものと知りつつも、言わざるをえなかった。

「自分の体が黄色信号を発信しているのはわかっています。(階級転向を)考えるときも近づいているのでしょう。でも、それは今じゃありません」

 モンティエルとの対戦が正式に決まったのは、それから間もないときだった。王座統一が区切りだった。もしかすると、間近に見えてきた具志堅用高(元WBA世界ライトフライ級チャンピオン)の持つV13の日本記録も視野に入っていたのかもしれない。それらをクリアしたときが、新しい旅の始まりと長谷川は考えていたのだろう。

 果たして、モンティエル戦のときはどうだったか。調整、減量は万全と伝えられた。ウェイトコントロールの開始をこれまでより2週間早めた。水分を絶やすことなく、体重計のめもりが下がっていくのを見つめていたという。確かなことは、リングに上がってみるまでわからない。調印式、計量。長谷川の自信にあふれた表情を見ながら、私もこの男をもっと後押ししたくなった。

■「何があっても打たせなければいいんです」。自信に満ちた長谷川の陣営

 リングサイドの記者席に座って試合を待つ間はほとんど何も考えない。それが私の流儀だが、長谷川の試合だけは違っていた。減量苦の実際を聞いてから、いつも心配でならなかった。今回は違った。彼にとって、そして日本のボクシング界にとって大一番である。それに向けて万全なコンディションを作ってきたという本人の言葉を信じていた。だが、やがてふたつの不安が脳裏を行き過ぎる。ひとつはモンティエルの戦力そのものだ。

 プロ14年で41勝31KO2敗2分。2000年に獲得したWBOフライ級を手始めに3階級制覇に成功している。そんな戦歴はもちろん要警戒だが、このボクサーの戦法を読み解くのは楽ではない。両腕を左右に大きく開いたオープンガードから、タイミングの微妙な差異を演出しつつ、大胆に左フック、アッパーを打ち込んでくる。上体を後ろにそらすスウェーバックの技術が巧みで、なかなかクリーンヒットを許さない。そこまで31歳のメキシカンの戦力を並べて、考えるのをやめた。長谷川のハンドスピードとコンビネーションの回転力、迅速に実行できる正確な距離、ポジショニング感覚の鋭敏さがあれば大丈夫。どんなパンチを相手が打ってきても、うまくすかして切り返しのパンチは決められる。

 さらに不安はひとつ。試合の1日前になって浮かんだ疑念だった。計量会場の片隅に置かれていたグローブが気になった。関係者に訊いた。「あれは何?」。答えは意外なものだった。

「モンティエル側から使い慣れたグローブにしていいかという要望がありました。長谷川側から了承されたので、それを使います」

 机に置かれた白いグローブは、どう見ても新品には見えなかった。「パンヤが壊れていたら、どうするんだろう」と思った。パンヤとはグローブの中の詰め物で、通常はスポンジを使う。グローブに細工をするのはたやすくはない。かつてアメリカで、自分の選手にパンヤを抜いたグローブを使わせて、傷害致傷の容疑で逮捕され、ボクシング界から永久追放になったトレーナーもいる。すでに実績も積んでいるモンティエルが、こんな大事な戦いに危険な細工をするだろうか。

 それでも、さらにその前日、調印式の席で、使用されるメキシコ製8オンスのグローブを両陣営が互いにチェックしてOKを出している。それをわざわざ取り換えるのは、不自然ではある。だが、長谷川の陣営は笑い飛ばして、モンティエル側の要請を受諾した。

「何があったって、パンチを当てさせなければ問題ないでしょう」

 すべてを長谷川に委ねる気になった。

 グローブに細工があったかどうか、いまさら疑ってみても仕方ない。というより、グローブ変更にあたってJBCは入念にチェックしたはずだ。どんな巧妙な手口でも、それを突破するのは難事だ。確かに言えるとしたら、試合でのモンティエルの破壊力は、予測をはるかに超えるものだったことか。

『たった一発で世界は変わる──長谷川穂積vs.モンティエル「衝撃の終幕」から10年』に続く

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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