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辰吉丈一郎と井上尚弥を結ぶ「夢」。見果てぬ夢と終わりなき夢

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
辰吉が若いシリモンコンにTKO勝ち。日本中のファンを歓喜させた(写真:アフロ)

 井上尚弥(大橋ジム)とノニト・ドネア(フィリピン)の戦いは、まさしく名勝負として語り継がれるに違いない。稀なる強打とハイレベルな技術が12ラウンドの全編を猛火で包み、さらに試合後になって初めて井上の知略の奥行きを知ることになる。これほどの戦いは、大正年間に日本のプロボクシングが芽吹いてから100年。その長い歴史のなかでも、最高傑作のひとつとも断言できる。

 では、この連作のテーマである。井上は辰吉丈一郎(大阪帝拳ジム)を超えたのか。答えはない。いまさらになって、否、いまだからこそ、こういう結論を仮の宿にした。

 辰吉主役の数々の舞台をアンタッチャブルな神話に昇華させているつもりはない。でも、辰吉丈一郎はただひとり辰吉丈一郎である。むろん、巨大な戦力にあ然とするばかりの井上尚弥はただひとり井上尚弥。実質はまるで違う。同じなのはともにリングのスーパースターであること。

 まずはすでに20年前に過ぎ去った辰吉物語の詳細を振り返る。

辰吉は日本がやっと手に入れた真実のスーパーボクサー

 1991年9月19日、辰吉丈一郎が初めてWBC(世界ボクシング評議会)世界バンタム級チャンピオンになったとき、だれもが『日本ボクシングの新世紀』を予感した。それ以前の日本のボクサーと言えば、熱心なファンからはある意味、『国内限定』に見ていた。

 有力選手の多くが、世界的に見ると人気の薄い軽量級だったのが一番の理由であり、ほんとうは実力評価の上ではいくつもの例外もある、

 ただ、世界に挑む多くのボクサーは『世界』と比べると技術的に劣り、パワーも劣り、どこまでもへこたれない敢闘精神のみが、伍して戦える美点というのが、日本拳闘の実情だと思えていた。だから、世界挑戦21連敗という不名誉な記録も作ったし、技術的には「日本のボクサーは第三のパンチ(頭=バッティング)を持っている」とひどい言われ方をされたりもした。もしかすると、これは海外関係者の実際の声ではなく、ビデオの普及によって、ようやく海外のトップファイトを手軽に見ることができるようになったファンの、独り合点の自虐だったのかもしれない。

 そうであったにしろ、辰吉の戦いにはファーストクラスの芳香が匂い立った。対戦者に倍するハイテンポ、しなやかなコンビネーションブロー。選ばれた者だけに許されるナチュラルタイミングの秘術で鮮やかなKOシーンを生み出していく。さらに、具体的な理由は決してない、カリスマ性という言葉に示される、圧倒的なプラスアルファがあった。

 倒れた相手に向けて、右手を水車のようにクルクル回すパフォーマンスも受けた。当時、さしてボクシングに詳しくない人々から、「辰吉というボクサーは何かおもしろい」という声をいくつも聞いた覚えもある。

 19歳でプロになってわずか2年、7試合、その間に莫大な期待をかき集めて辰吉は世界チャンピオンになった。

失望が重なっても、だれも辰吉を見捨てなかった

 無限の未来しか見えなかった二十歳の戴冠。しかし、実際上では勝利を手にした時点で、辰吉の可能性は大幅に削られていた。1991年9月19日、初めて対した世界チャンピオン、グレグ・リチャードソン(アメリカ)との第7ラウンドに異変が起こっていた。

「バッティングの直後だったと思うが、急に左目が見えなくなった」

 ずっと後になって辰吉は明かした。その後は翼から大量の羽を失ったままの戦いを余儀なくされる。非情のキャリアが始まった。

 翌1992年2月に初防衛戦が決まるが、目の不調を訴えて入院。診断は網膜裂孔。当時、ボクサーの死病とされた網膜剥離の前段階だった。手術を受け、快癒したとされるも、実質は不明のまま。1年ものブランクを強いられた。閏年の1日をプラスして364日目、辰吉の留守中に暫定チャンピオンとなっていたビクトル・ラバナレス(メキシコ)との初防衛戦にこぎつける。だが、辰吉の攻防には精彩がまるでない。タフネスにまかせてラフなアタックを仕掛けてくるメキシカンの前にいいところなく、TKO負けに退いた。さらに10ヵ月後のラバナレスとの再戦に競り勝って暫定ながらもチャンピオンに返り咲いたものの、その後に左目の不調を再び訴える。今度こそは網膜剥離と診断された。

 当時の日本ボクシングコミッションは網膜剥離と診断されると同時に、そのボクサーは引退を勧告された(現在のルールでは完治が認められれば現役続行は可能)。辰吉にもライセンスを認めない旨、通告された。辰吉はこれに激しく抗う。世界には網膜剥離を克服して世界王座を争うボクサーがいることを理由に、自身も海外での活動の道を選んだ。

 世間にはいばらの道をあえて切り開こうとする辰吉を救済せよとの声が沸きあがる。やがて、WBC世界チャンピオンになっていた薬師寺保栄(松田ジム)との対戦が持ち上がり、JBCは「世界タイトルマッチ、もしくはそれに準じる試合に限って」辰吉に特例として試合出場を許可した。ただし、ファイトマネーそれぞれ1億7000万円とも言われた薬師寺との戦いは判定で敗れる。さらにスーパーバンタム級に体重を上げて、やはりWBCのチャンピオン、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に2度挑むも、これも連敗となる。

 しかし、辰吉の人気は落ちなかった。父ひとり子ひとりの薄幸の少年時代から、まっしぐらに栄光を追い求めた。さらに、網膜剥離というボクサー生命の危機に直面しながら、どこまでも自分の可能性を信じ続けた。ボクシングは『打たせないで打つ』から『打たせてから切り返す』に変わっていたが、それが極北に立つ戦闘者であるのを強調する。またはその戦いそのものも魅力的だった。打ちつ打たれつの展開のなかに、ここぞでは美しいコンビネーションブローを繰り出して、常人の域を大きく踏み出した“閃き”を観る者に植えつけた。加えて、特例は特例でしかなく、いつ決定的な引退勧告を言い渡されるかもしれない。常に引退との背中合わせ。崖っぷちの戦いが、ファンの共感を呼び寄せた。

 だから、だれもが見限ることができない。何度も敗北の悲嘆にくれたとしても、やがて試合が決まると「辰吉は今度こそ何かやってくれる」と多くのファンは信じた。

そして奇跡が起こる。シリモンコン戦で王座復帰

 痛ましい英雄伝に、信じられないクライマックスがプレゼントされる。1997年11月22日、大阪城ホール。辰吉は20歳のWBC世界バンタム級チャンピオン、シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑戦する。

 あまりに勝ち目の乏しい戦いに思えた。プロ13戦で世界王座にたどり着いたシリモンコンは若さと勢いにあふれていた。一方、27歳になっていた辰吉は世界戦に限れば2勝4敗、3連敗のさなかにある。その戦力は往時の半減と言ってもいささかもオーバーではない。

 もし、この勝負に望みが一縷でもあるとしたら、シリモンコンの厳しい減量苦があったことか。118ポンド(約53.5キロ)のバンタム級リミットを作るために、直前まで相当の無理をしていた。

 ボクシングの勝負にきれいごとはない。弱点を攻め抜くのが鉄則である。ボディを徹底的に打ちまくり、減量で疲弊した体から、スタミナをえぐり取る。「敗者には何もやるな」。善戦すれば、そのときだけの賛辞だけで十分。敗者にくれてやる名誉など、それで全部でいい。ボクシングという格闘世界のもっとも残酷で、さらに妥協なき美学である。

 あの日、あのリング。辰吉はやはりシリモンコンのボディを執拗に攻め続けた。リチャードソン戦のときのような、美しい攻防一致はそこにはない。泥くさくても、武骨でも、とにかく食い下がる。そんな闘志だけしかなかった。

 辰吉の白熱の闘志はやがてひとつのヤマ場を作る、4ラウンドだった。左フックのボディブローが効いた。腹を抱えるシリモンコンに右ストレートを決めて、派手にひっくり返した。

 しかし、5ラウンド以降、シリモンコンが甦る。たちまち辰吉の勢いは断ち切られた。タイ人に強引な攻めを仕掛けられ、守りの甘い辰吉の苦しいラウンドが続く。

 そして運命の第7ラウンドも同じだった。いよいよピンチは拡大していた。長いジャブをうかつに浴びて、何度もアゴが上がった。そこに右クロスが飛来する。首を刈るような左フックも。よけきれない。辰吉が背負い込んだダメージはどこまでも濃かった。足もとが何度もばたついた。打たれれば打つ。憑かれたように反撃する辰吉だが、悲しいフィニッシュはもうまぢかに迫っているようにも見えた。

 そのときだ。これこそが起死回生だった。厳しく打ち込まれながらも、辰吉が狙っていた左ボディブロー。その3発目が一瞬のスキをついて、レバーを刺し抜いたのだ。バランスを欠き、倒せるパンチを見失っていたはずなのに、辰吉のこの一発だけは角度といい、タイミングといい、これ以上にない一撃となっていた。

 前にのめりながらも、ひととき激痛に耐えたシリモンコンだったが、やがて耐えきれずにうつぶせに倒れ込んだ。タイ人はどうにか立ったが、もはや戦える状態にはなかった。辰吉の嵐の連打に右往左往し、決定打が入る直前、いくつもの名勝負をさばいてきたラスベガスの名レフェリー、リチャード・スティールが割って入る。TKOタイムは7ラウンド1分54秒だった。

 大阪城ホールは熱狂した。感激のあまり、その場に崩れ落ち、声を上げて泣くファンも続出した。運命に抗った男が引っつかんだ奇跡にだれもかれもが酔った。

井上尚弥に終わりなき夢を見たい

 歓喜のままピリオドを打てるボクサーは、ほんのひとにぎりに過ぎない。厳しい敗北に我に返って、そのままグローブを壁に吊るし、リングの栄光を清算できたとしたらまだ幸せ。自分の戦いに終生、納得できずに、繰り返し、見果てぬ夢を描く。辰吉は49歳の今もプロボクサーであると主張する。

「何か勘違いしたやつがおってね。それで負けてしもうた。そんなんで、なんで諦められると思う?」

 そのやつとはだれか、勘違いしたとは何のことかは明言しないまま、辰吉が語ったのはもう15年近くも前だ。

 シリモンコン戦の勝利から2年、辰吉はウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)にKOで敗れてタイトルを失う。再戦でも敗れた。2002年、さらに日本ボクシングコミッション非公認ながら2008年とカムバックを試みたが、そこには昔日の面影がほのかに残っていただけだった。

 辰吉がその辰吉たる魅力を提供できたのはウィラポン戦までだ。若くして負った負傷のために、ボクシングという過酷なスポーツの中で、その才能がくまなく発揮しきれたとは言えない。けれど、この男が築いた圧倒的な存在感は、とくに20年前を知る者なら、生涯、忘れえぬ記憶になるはずだ。

 井上尚弥は、そういう意味ではまだ序章がようやく終わり、本編も半ば前に到達したに過ぎない。いまだに能力の果ては見えていない。そして、今、実現しているボクシング自体は、すでに辰吉の上を行く。技術も、実績も。それも圧倒的に。足らないのはボクサー人生の全景を総括した評価だけと言っても過言ではない。

 峠を過ぎたと思われたノニト・ドネアを倒しきれなかった事実は、一時的に世界の評価を停滞させるかもしれない。深い裂傷と眼窩底骨折によって試合中、破損したままだった右目の視力を、どんな形でカバーし、さらにそのハンディを老練に気づかせなかったか。その事実の詳細が伝われば、世界の人々の反応は再び驚嘆に変わるに違いない。

 観戦者としての経験は随分と重ねてきたつもりだが、リングの上で井上がやっているさまざまは、そのすべてが私の想像をはるかに超える。ドネアとの厳しい12ラウンドを経て、そのスケールはさらに2倍3倍になっているかもしれない。そして思うのは、この男こそ、傷つかないままボクサー生活を全うしてほしいということだ。

 2020年、海外に本格的に主戦場を移す井上は、底の見えないプールのまま。その新たな戦いに、胸の鼓動は勢いを増すばかりだ。

ハンディを乗り越え、ドネアとの激闘に勝ち抜いた井上は、もっと強くなるはず(写真:山口裕朗)
ハンディを乗り越え、ドネアとの激闘に勝ち抜いた井上は、もっと強くなるはず(写真:山口裕朗)
世界に飛翔する井上はワールドワイドの評価を勝ち取っていくはず(写真:山口裕朗)
世界に飛翔する井上はワールドワイドの評価を勝ち取っていくはず(写真:山口裕朗)
ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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