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井上尚弥と辰吉丈一郎の共通点とは。原始の目を持つふたりの天才【WBSSバンタム級決勝戦】

宮崎正博ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者
井上尚弥を強くしたのはまっすぐな目の光りにある(写真:ロイター/アフロスポーツ)

 近ごろ、天才という言葉が氾濫し、あまりに安っぽく聞こえてこないか。本来、この世にふたつと存在しない特別の才能など、そうそうあるものではない。もし、日本のボクサーでそれがあったとすれば、私が知る限り、辰吉丈一郎(大阪帝拳ジム)ただひとりしかいない。暫定を含めれば3度、WBC(世界ボクシング評議会)世界バンタム級王座に輝いた1990年代のヒーローは、ときとして雷神のごとき破壊者となり、あるいは疾風のようにくまなく熱情を届けた。どこまでもドラマチックな脚色つきで。

 では、井上尚弥(大橋ジム)はどうか。かつて大橋ジムの大橋秀行会長がこう言っていたのを思い出す。「秀才がどこまでも努力を重ねて、本物の天才を抜き去ることがあるんです」。私は力強くうなずいた。井上には人間力というものがある。いつか、神の意志を力ずくで捻じ曲げ、なおかつ納得させる存在になるかもしれない。淡い期待感は、それからいくつかの季節を過ぎ、本物になった。もはや、想像をはるかに超え、井上はまさしくモンスターそのものになりつつある。神の政所の扉を激しくノックするほどに。

16歳で世界ランカーをめった打ち

 辰吉に関しては、幼少期からの数々のエピソードがある。「子供のころから父親にボクシングを教えられた」。「中学時代には岡山県下にその名がとどろくワルだった」。それらを含んで辰吉物語は、稀なるサクセスストーリーとして完成する。だが、あえてここではそれらすべてを割愛する。辰吉の才能だけを見つめたい。幸運なことに、辰吉物語・大阪編の序章、そのアマチュア時代を私は多少ながら取材している。

 最初に辰吉の名前が話題になったのは1987年春。大阪帝拳ジムの先輩、六車卓也が同年3月、WBA世界バンタム級王座決定戦に出場する1週間前、対戦者として来日したアサエル・モラン(パナマ)の公開スパーリングの相手をつとめた。モラン側の要望は「アマチュア選手を」。大阪帝拳ジムが用意したのが辰吉だった。記者たちを前にして始まったそのスパーリングでは、主役のモランが打ちまくられる。スパーリングは1ラウンドで中止になった。モラン側は「約束が違う」と激怒したようだが、そのとき16歳の辰吉はほんとうに数戦のキャリアしかないアマチュアだった。

 この“事件”は関係者の間ではちょっとした話題になった。そして、その後の数ヵ月、辰吉のうわさは、たびたび大阪から東京へと伝わってきた。在阪のアマチュア関係者からは堂々と『将来の世界チャンピオン』と書き添えて府大会の記録が送られてきた。秋口に行われた社会人選手権では国際大会出場経験を持つベテラン選手をRSC(レフェリーストップコンテスト=プロのTKO)で破り優勝した。10月には沖縄で開催された国体に大阪ジュニアの部代表として参加し、当時、団体戦で争われた大会で、チームを3位入賞にけん引した。

『ボクシング・マガジン』の記者だった私は、この国体で初めてうわさの少年の試合を見ている。東京からボクシング留学してきた沖縄チームの高校生が相手だった。対戦者の右をボディワークでかわすやいなや、しなやかな角度で打ち込まれた左ボディブローが一閃。これで勝負は決まった。ひとことで感想を述べるなら、『かつて知らないおそるべき才能』を目撃した気分だった。凡庸な一記者には、天才を言葉にできない。ただ、そのときどきに感じた『とてつもないすごいこと』だけを書き連ねることになる。それは、この短い連作の最後まで同じ。あらかじめ断っておきたい。

原始の目を持つ少年

 帰阪した辰吉を追いかけるように、大阪帝拳ジムに出かけて取材した。時間を設けての取材は初めてという少年はやや緊張した面持ちながらも、発散してくるオーラは圧倒的だった。言葉の一つ一つもそうだったが、撮影用にと軽くたたいたサンドバッグ打ちも凄味があった。ボクサーのパンチにKOの威力が宿るかどうか。それはカメラでも1000分の1のシャッタースピードでも捉えるのは難しい。だが、辰吉の軽いコンビネーションが打ち込まれるたびに巨大なヘビーバッグが右に左にと大きく揺れる。そんなボクサーのジャストミートが、すべてのパンチにあった。すでに10年近い取材経験があったが、こんな選手は、まして17歳は見たことがなかった。

 そのとき、また別のことを思い出していた。辰吉の取材を前にして、大阪でアマチュアのレフェリーをしていた女性を取材している。辰吉の試合もさばいたという。女性らしい深い感性が受け取めた彼女の辰吉評を思い出していた。

「試合のとき、のぞきこんだ彼の目には何も映っていなかったんです。深い、深い、どこまでも透きとおった瞳。なんて言えばいいんでしょうか。原始の目。そう、欲も得もない。世の中のルールもない。ただ、戦うために、そこにいる。正直、ドキッとしたんです」

 もしかすると、彼女の言葉にはもっと具体性があったのかもしれない。ただ、30年以上も昔から、私の記憶の中には同じ言語だけが踊っている。辰吉の凄味の原点は、無垢なる野性にあるのだ。本能のおもむくまま、自らの感性のみを手綱にとって戦い抜ける。そんなボクサーはそうそういない。

 ひとつ断わっておくが、ひところ辰吉は、天才と評されるのをひどく嫌った。「きちんと努力した結果が、今の僕だから」というわけだ。だが、きちんと正しい方向を選んで努力できるのも天才でこそなせるわざだ。

 辰吉は信じがたい早さで成長を続ける。2年後にプロになってからも、まるで鯨飲するように新たな戦闘技術をものにしていく。1991年早春、アブラハム・トーレス(ベネズエラ)のジャブに苦しみ抜き、引き分けの裁定は地元判定とも言われた。それから3ヵ月後、スーパーフライ級の世界ランカー、レイ・パショネス(フィリピン)を今度は自らのジャブで圧倒する。さらにフットワークとワンツーを駆使し、圧勝した。さらに4ヵ月後には、手練れの技巧派だったWBCチャンピオン、グレグ・リチャードソン(アメリカ)を難なく攻略してみせるのだ。

 ひとつの苦しい経験を元手に、新たな分野を切り開き、さらに自分のものにした。その間、わずか7ヵ月。常人が簡単にたどり着ける境地ではない。

途切れぬ集中力こそ、井上の最大の武器だ(写真:西村尚己/アフロスポーツ)
途切れぬ集中力こそ、井上の最大の武器だ(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

バンタム級になって、さらに増した爆発力

 井上尚弥を初めて取材したのは2012年の夏だった。プロ転向の記者会見の帰り道、水道橋のファミレスで会った19歳の『カイブツ』はとてもシャイだった。なかなか答えが返ってこないと、すっかり古強者気取りの記者は、言を弄して執拗にゆさぶりをかけた。こうじゃないか、ああじゃないか、なんでそんなことが好きなの、と。あとで聞いた話だが、井上本人、同席した父親でトレーナーの真吾氏の心証は随分悪かったのだそうだ。

 笑い話になって久しいが、つまり、このとき、言語にならない『特別なもの』を井上から感じていなかった。浅はかなものだ。ボクサー、さらに人間に応対する感性に鈍りがあったのだろう。

 その後もずっと、爆発力を持つ逸材であっても、天才という表現に結びついていかない。ようやく尊敬のまなざしで井上を見つめるようになったのは、2年後のことだ。アドリアン・エルナンデス(メキシコ)からの初の世界王座(WBC世界ライトフライ級)獲得を経て、オマール・ナルバエス(アルゼンチン)を粉砕してWBO(世界ボクシング機構)世界スーパーフライ級タイトルを奪い取り、史上2番目に早い2階級制覇を達成した戦いだ。どうしたら、ここまで強くなれるのかと率直に感じていた。

 さらにバンタム級に上げてからは、一戦ごとにただ驚くばかり。展開、結末の分析はすべて後追いでしかできなくなった。3階級制覇を成し遂げたジェイミー・マクドネル(イギリス=WBA世界バンタム級チャンピオン)戦。長身のチャンピオンのこめかみにたたきつけた左のワイルドスイング。ぐらついたマクドネルを追い、左のボディブローでダウンを奪うと、猛攻を加えてなぎ倒した。

 WBSS(ワールドボクシング・スーパーシリーズ)に参戦しての第1戦、タフネスで知られたファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)を一撃で切り倒したワンツーストレート。サウスポーの対戦者相手では、正対すると急所の見える空間はきわめて小さくなる。なのに、一気に飛び込んで最強のパンチをアゴにたたき込んだ。突き抜けるように弾けた直後、即座にステップを切り返し、追撃の体勢まで作っている。

 もっと圧巻だったIBF(国際ボクシング連盟)王者との統一戦。エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)を最初に倒したのは、左フックの構えから瞬時に軌道を変えたストレートだった。それまでのステップの使い方までも含め、奇跡の攻撃力に見えた。

途切れぬ集中力が、戦いのスパコンに育て上げた

 これらの奇跡的な勝ちっぷりを実現できたのは、井上というボクサーがもはや神域にまで到達したからに違いない。ただし、辰吉とはいささか手法が違って見える。辰吉は感性の中にひとつの経験を落とし込み、攻防の間口をぐいと押し広げる。井上の場合には絶対的な経験数から割り出したインテリジェンスがその根元にある。

 父・真吾氏のもと、小さいころから鍛錬を重ねた。スパーリングはおよそ無数に近いほどこなしてきた。最近はときどきのテーマによって、攻撃を手控えることもあるようだが、それ以前はスパーリングでも「基本はすべてに勝つこと」(真吾氏)こそが唯一の目的だった。だから、あらゆる勝つための手段を準備してから、仮想対決に臨んできた。

 勝利の方程式のお手本には、対決を間近に控えるノニト・ドネア(フィリピン)もいたし、6階級制覇チャンピオン、マニー・パッキャオ(フィリピン)も、最強のテクニシャンとも言われるワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)もいた。

 よいものと思ったら、何でも研究し尽した。まねもした。そうやって、自分のボクシングとの整合性とすり合わせながら、たくみに井上式に織り込んできた。だから、どんな状況も想定内。必要なツールを巨大なデータベースの中から瞬時に選び取り、井上尚弥独自の仕様で立ち向かえる。26歳のスーパーチャンピオンは、そのものがスパコンのようなものだ。

 努力型の秀才が、その枠を自ら打ち破ろうとしている。それができたのは、圧倒的な集中力にある。練習になると、なんびとたりとも寄せつけない。相手の攻めをどうかわし、どんなパターンで切り崩そうか。シャドーボクシングでも、拳の一打一打、ステップの一歩一歩、確認と新たな発見を、自らの体の中から音を聞いている。そしてデータは蓄積される。取り出す回路のトリセツをもきちんと整理して。その間はたぶん、目の前に浮かぶ仮想の敵しか見えていない。

 井上尚弥。この男も『原始の目』の持ち主なのである。

ボクシングライター/スポーツコラムニスト/編集者

山口県出身。少年期からの熱烈なボクシングファン。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。編集長を経て17年、再びフリーに。

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