海外駐在ママ 育児のピンチでしたことは?!

香港、ニューヨーク、ロンドンと世界の大都市で20近い年月を過ごし、長女は米国でも屈指の名門ボーディングスクールからアイビーリーグの1つ、ブラウン大へ進学。絵に描いたようなエリート家族を前にしたら、一体どんなイメージを持つだろうか?

銀縁メガネの教育ママ? 

娘の尻を叩く押しが強いママ? 

いやいや、青木家の場合はどちらも違う。時間を見つけてはおいしい料理に舌鼓を打ち、ワイン片手に人生について語り合う、ほんわか優しい雰囲気が漂うステキ親子なのだ。

どうしたら、成績優秀で素敵な親子になるの? 生まれ持ったモノが違うんじゃ・・・。「いや、うちはいっつもどん尻から努力して、努力して這い上がってきたの」と理恵さんは笑う。

母・理恵さんは国際コーチ連盟(International Coach Federation)のプロフェッショナルコーチとして多くのクライアントを抱え、娘のハルカさんは12歳で米国東部の名門ボーディングスクール(寄宿舎学校)「グロートン・スクール」に入学。その後リベラルアーツの代表格、ハミルトン・カレッジから「仮面受験」での編入で名門ブラウン大に進み美術史を専攻したが、その後大学院でアートを一から学び直し、現在はマンハッタンのとある癌のリサーチセンターで資金調達部門のデザイナーとして働いている。

誰もが羨望の眼差しを向けるパーフェクト親子・・・。だが、そんな青木家にも、ピンチはあった。

突然の娘からのSOS

理恵さんが夫の仕事の都合でロンドンに駐在している時だった。長女・ハルカさんは20歳。名門大学で大いに青春を謳歌し、学んでいるはずだった。理恵さんはプロフェッショナルコーチとして、クライアントが最短で目標達成するための指南をしている。順風満帆。端から見れば、そうだった。

「お母さんちょっとそこに座ってくれない?」

アメリカから両親が住んでいるロンドンへ帰省している時、ふと娘からそう言われた。

「何かいい報告かしら?」。心の中でそう思ったが、違った。

「最近ヘンなの。すごく食べたくなっちゃう」

娘からのSOSだった。

最初は「訳が分からなかった。意味分かんない」。すぐお腹が空くなら、腹持ちのいいものを食べさせよう。ダイエットしたいのなら、豆腐やこんにゃくを使った料理にしよう。いい母親として、精一杯頑張った。でも、食べ物を隠しても、娘はなぜかすぐに見つけて食べてしまう。冷蔵庫の中の食べ物も、気づけばどんどん減っていった。

過食症の本を読んだりもした。「本の中には、原因は母親にあると書いてあるものもあったけど、まさか原因が自分にあるとは思ってなかった」。何か得体の知れないモンスターを見るような目で娘を見てしまう自分。プロフェッショナルコーチとして、クライアントの目標達成をサポートしているのに、愛娘の異変を現実として受け入れられなかった。

そんな時、「娘が過食になったみたいなの」と軽く友人に打ち明けたつもりが、予想外の友人の返答が胸に突き刺さった。

「過食症は命にも関わる大変な病気なのよ! それが自分に原因があるってわからないの?なんでそんな笑っていられるの?」

今まで20年間、必死であの子のサポートをしてきた。「この子ができる最高の環境を」と思って・・・。なぜ・・・。頭をハンマーで殴られたような、鈍い頭痛がした。

もしや、原因は自分?!

もともとピアノ教師として、多くの生徒を抱えていたが、子育てにも役立つだろうとコーチングを学び始めた。国際コーチ連盟のプロフェッショナルコーチの資格を取得し、ピアノ指導だけでなくビジネスマンや道に迷える人を導く仕事にもやりがいを感じていた時だった。

「コーチなのに、娘がこんなになっちゃって恥ずかしい。コーチ失格だ!って思ちゃったんですよね。コーチングも勉強して、これ以上何ができる?って」

ちょうどその後、コーチングの仕事のため1週間滞在した日本で、自問自答を繰り返した。

「しばらく(自分の)心を観察してみたら、その原因は彼女を受け入れていなかった自分なのでは?と。言葉を話し始めた頃だから、2歳ごろでしょうか? 『クリスマスプレゼントに何が欲しい?』って聞いたら、『お母さんの欲しいものが欲しい』と言ったんです。私は、自分で選んで欲しかった。悲しかったんですよ。自分をもっと全面に出して欲しい、自発性がない、なんて思ちゃったんだよね。そんな娘を受け入れてなかったツケが後から来た。自分の殻がパッと割れた瞬間だった」

「そう思った時には、1週間、泣き続けました。全身で受け入れようとすると、痛みも全身にくる。頭が痛いし、胃が痛いし、涙も出るし。自分は正しいと思って一生懸命やってきたのに、子供が幸せじゃない原因の1つは、私にあったんだ。寂しいから食べるのかなって。救ってあげるのは、私だけ」

娘のためなら、自分が変わる努力もいとわない。母の強さだ。

「2人で乗り越えようと言いました。こんにゃくを食べさせたり、とんちんかんだったけど、そうじゃない。もっと奥深い所だったんですね。一緒に泣いて、苦しんで、何が寂しいのかを見つけていこうと」

娘に寄り添いつつ、理恵さんは「心の問題を勉強していこう」と決意を新たにする。当時住んでいたロンドンでカウンセリングの資格を取得し、プロフェッショナルコーチの上の資格であるマスターコーチの資格取得にも挑戦。ハルカさんにも20歳の時からコーチをつけ、自分探しの手助けをしてもらった。自分だけで奮闘せず、周りのサポートを得てもいいのだ。

娘のなかにある焦燥感は何なのか、振り返れば伏線はたくさんあった。

海外生活の始まり

日本で「自然に、ありのままに」とこだわった理恵さんは助産院で長女のハルカさんを出産。1990年2月、寒さ厳しく、まだ梅のつぼみも硬く閉じていた頃だったが、80歳のおばあちゃん助産師さんののんびりとした優しさに包まれた命の誕生だった。

その後、夫の仕事の都合で長女が3歳の時に第一赴任地の香港に渡り、インターナショナルスクールに入学した。日本人はほとんどいなかった。日本人の多くは日本語で学ぶ学校に通わせていたが、その時は夫がなぜだかインターナショナルスクールを推したからだ。

3歳で最初の『お受験』も体験した。どんな問題が出るか調べて、3歳の娘と一緒に予習復習する日々。「小さな熊の人形を並べて、何番目は何色の熊?と聞かれてレッド(赤)とか答えるんですね。そこで英語力も試されるんです。ちゃんと家で熊の人形も並べて、何番目の熊は何色か答えられるようになったのに、実際の試験で、一言もしゃべらなかったんです!」。

それでも合格。後から聞いたら、「一言もしゃべらなかったけど、(2人1組の試験で)できる子の事をよく観察していた。1人ならパズルもできた」。無口だが、洞察力に優れ、1人で黙々とパズルと完成させる集中力を見いだされ、見事狭き門をくぐり抜けたのだ。

その香港で3年間を過ごし、6歳からニューヨーク州へ。閑静な住宅街の郊外に住み、現地の私立小学校に通ったが、12歳の時、再び転機が訪れる。マサチューセッツ州ボストン郊外にあるボーディングスクールと呼ばれる名門寄宿舎学校「グロートンスクール」を「受けてみたい」と泣きながら言い出したのだ。ボーディングスクールのほとんどは13歳での受験だったため、12歳でも受験できるのは米国東部にグロートンスクールしかなかったという。

娘は大の恥ずかしがり屋。母のスカートの裾を掴み、指をしゃぶりながらじっと周りを見ている子だった。

だからこそ、「協調性を身につけなきゃ!」とピアノ教師でもあった母は、必死に娘の“社交の場”を作った。自宅に友達を呼び、「ゴリラだよ~」と娘の友達を追いかけ回し笑わせても、気づけば当の娘は部屋の隅で、じーっとこちらを見ている。「くっつき虫で、ずーっと抱っこ、抱っこだった」。

そんな娘が、泣きながら「受けてみたい!」と言うのだから、両親は「だったらチャンスをあげましょう」と受験に賛成した。しかし、それと同時に、日本への帰国に備え、日本での受験対策も同時に進めていたのだ。だって、そんな名門校にまさか合格するとは微塵も思わなかったから。

「グロートンスクール」は全米で300近くあるというボーディングスクールのなかでもトップクラス。1884年創立の伝統を誇り、第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトのほか、アメリカの5大財閥の1つモルガン家の子弟も通った名門中の名門だ。ルーズベルト家やモルガン一族など泣く子も黙る名家の卒業生を「レガシー」と呼び、その子弟が通い脈々と伝統が受け継がれている。

8年生から12年生が在籍し、5学年合わせても全校生徒は370人ほど。少人数生で切磋琢磨していく学校では、卒業生の3分の1はアイビーリーグに進学すると言われており、いわば『エリート養成所』だ。

そんな学校にサラリーマン家庭の娘が通うのか? そんな思いもあったが、両親も同席した面接では、娘は堂々と面接官に向かって自分がやりたい事、学びたい事を語っている。部屋の隅で指をしゃぶっている面影はなかった。

「受かるとは思わなかったが、受かってしまった」と予想外の合格だったが、「娘が持てる力を出し切ってやりたい事を言っていた」姿を目にしたら、応援しない親がいるだろうか?

受験当日、明け方ボストン空港を降り立った青木一家は、丸くて大きな月に照らされていた。「娘をこの月に返すんだという思いでいっぱいでした」。日本で生まれ、香港、ニューヨークで育った娘がボーディングスクールに入学するというのは、これからの人生を英語で勝負していくという事を意味する。しかも、たった12歳で親元を離れて寮生活が始まる。

超名門寄宿舎学校へ

9月に入学すると、学校のパソコンでは日本語が入力できたいためローマ字のメールが届いた。今のように簡単にスカイプで顔を見る事は出来ない。時差だってある。理恵さんも夫も日本で教育を受けて育っため、アメリカの教育システムが分からず、「余計な口出しせず、先生にお任せします」というスタンスだった。

「毛布が重いとか、針が刺さってるみたいとか鬱っぽくなったんです。おかしいなと思ったけど、娘も助けてって言っちゃいけないと思ってたと思う」

理恵さんは、肝っ玉母さんを地でいくような母に育てられた。あえてきつい事を言い、そこから這い上がってくる娘を待つような。だが、ハルカさんは小さい頃から「和を尊ぶ子」だった。自然と、自分が母から言われたような叱咤激励は、そこに愛情があっても「娘をつぶすかもしれない」と分かっていた。だから、谷底に突き落とすような事は言わなかった。

最初のクリスマス休暇。最後の最後で里帰りを決めた娘を久々に見たら、たった3か月で「大人の顔になっていた」。背伸びして、一生懸命頑張ったんだと思うと、胸が張り裂けそうだった。

頭がいいだけではなく、家柄も名門という恵まれた生徒に囲まれる寮生活。「サラリーマン家庭は娘1人でした。一生懸命周りに合わせていたんですね。香港の学校でも日本人はほとんどいなかったので、同じ事をしていたんですね。友達はいるのに、いない、みたいな。グループに入っているんだけど、自分はどこにも受け入れられていない。自分の居場所が無いと感じていたんだと思います」

6年の寮生活を終え、最初はリベラルアーツ代表格のハミルトン・カレッジへ入学も、一念発起して8つの大学からなるアイビーリーグの1つ、ブラウン大へ「夜なべで勉強して」編入した。

いつでも、周りに合わせてきた長女。そして、いい母親として一生懸命に頑張ってきた自分。でも、頑張る方向が、いつの間にか少しズレていたのかもしれない。土台がしっかりしていなければ、足下をさらえばすぐに崩れてしまう砂の城のようなものだ。まずは母として、もう1度足下を見つめる時だった。

無意識に刷り込まれた意識

娘が後になって思い出した事がある。以前、家族旅行に行った機内で、座席の目の前のポケットに挟まってあった機内誌を、食い入るように何時間も見続けていたという。

それは、「肌を白くするための広告」だった。

同級生のように、ブロンドの白人のようになりたいと、無意識に思い込んでいたのだろう。後になってから思い出すほど、意識のなかに刷り込まれていたのだ。

今では過食の症状はなく、「食べたい時は食べればいいんじゃないって言えるようになった」という。社会人となったハルカさんからは、「お母さんはありのままでいいんだよ」と言われる。

「何かあったら、アメリカなんてドラッグやアルコールにいくかもしれない。お母さん、助けて!と言ってくれる子になるためには、私が変わらないと。ピアノの先生だったから教えるのは得意。おごりの気持ちもあったと思う。いつも自分ができる事以上の事をやっていたから、自分が正しいと思ってたのかも」

歩き始めるのも、話し始めるのも、何でも遅かった娘が、小さい頃から時間を熱中したのは1人でコツコツできる絵だった。

4歳の時、ハルカさんが書いた絵が、ニューヨークの自宅キッチンに飾られている。

「消しゴムで消して、何度でもやり直して自分が納得するまででいるのがいいんでしょうね。3、4歳でのびのびやってるなと思ったら、それから目をそらしちゃいけない。ゲームだって虫取りだってそう。親が見たらくだらないと思うような事でも、10歳で夢中にやっていたら、それは価値観につながる強みになるし、一生の友達になるかもしれないし、仕事になるかもしれない」

コーチングの仕事と平行し、理恵さんは自宅を開放し、ニューヨーク在住の女性の学びの場となる「式部会」を開催し、料理教室から写経、リンパマッサージなど様々はクラスを行っている。産後、なかなか定期的に出かけるのは難しいが、都合のいい日に参加できる単発クラスには多くのママさんが通う。

そんな理恵ママからのメッセージ。

「抜け出せない人いっぱいいるけど、自分の体験も含め、暗い所から出られるから! 自分を責めて苦しんでるお母さんもいっぱいいる。成績が下がったとかじゃなくてね、本当に寂しい時、世の中で1人じゃない、『よし、わかった!お母さんが飛んでいくね!』と出来るようになるためには、お母さん自身も変わらないといけない」

勢力的に活動する理恵さんは、3月28日には都内で、29日は大阪でマザーズコーチジャパンのセミナーを開催する(http://info.motherscoach.jp/?eid=36

〈青木家の教訓〉

一、親も痛みを知るべし!

二、本当に子供が助けてと言えるため、自分が変わる事を怖がるな!

三、10歳で夢中になってる事は、決して小馬鹿にせず大事に育てよ!!