「答え」と「応え」-問いの中で生きてみるということ-

批評家の若松英輔さんが、姜尚中さんのラジオ番組の中で、2つの「こたえ」-「答え(answer)」と「応え(response)」-について語られていた。「答え(answer)」は基本的にはひとつしかない。その唯一無比の答えを、それぞれの人々が導きだせるはずだという信念のもとで、現代社会はしきりに個々人に問いに対する回答を出すことを求める。確かに、時事問題にしても、報道番組は街頭インタビューと称して、何らかの問題に対して、賛成なのか反対なのか、シールを用いて賛否を表明した人々にその意見をもとめるのが通例となっている。しかし、若松さんは、すぐには「答え」を出せない問いに対して、すぐには解決できないような深刻な問題に対して、安易に「答え」を求めるのではなくて、まずはその問いの中で「生きてみる」という形で「応え」ることが大切ではないかという。まさにその通りではないかと思う。

先日、関西学院大学の災害復興制度研究所が主催した集会に参加した。毎年、災害で被災した地域、人々の現在を共有しながら、災害復興を巡る問題を根本的に議論している集会である。本年の集会では、その冒頭に、福島大学の大学生が、話題提供を行った。彼、彼女らは、「いるだけ支援」という言葉を掲げながら、福島県内の仮設住宅の空き部屋に住み込んで、仮設住宅の住民の皆さんと交流を続けている。当初は、自分たちが何か支援をしないとと気負っていたのだが、いざ住んでみると、「あんた、ちゃんとたべてるか」と心配され、冷蔵庫の中がカレーやなにやらでいっぱいになったという。「支援するー支援される」という関係が反転し始める。しかし、生活を続けると、「おめえにおれたちの気持ちがわかるか!」というような、厳しい声も浴びるようになる。自分に何が出来るのか、自分が卒業したらここにどのように関わることが出来るのか、悩みながら生活を続ける中で、また暖かい言葉をもらいながら、彼、彼女らは仮設住宅と向き合い続ける。

「いるだけ支援」で気づいたこと、それを彼、彼女らは、「人と人のつきあい」なのだという。阪神・淡路大震災で生まれた言葉に「最後の一人まで」という言葉がある。「最後の一人まで」向き合おうとするならば、徹底的に人々の多様性に向き合う感性が必要となる。その感性はやはり、人の数だけ多様であるはずだ。だから、「最後の一人まで」向き合おうとうするならば、ひとりひとりが目の前のひとりひとりに自分の感性で向き合うことが必要となる。「被災者」と「ボランティア」ではない、「○○さん」と「○○さん」という固有名のつきあいがここに生まれる。これこそが「人と人のつきあい」だ。

被災地でみられる課題は、しばしば、それがあまりに大きな課題であるために、個々人の働きかけではどうにもならないような問題に思われる場合が多い。そのために、政治や制度をもって、よりマクロに問題を解決しようという志向が生まれることになる。それが、全くもって無力であるという訳ではない。しかし、それが充分であるわけでもない。それに勝るとも劣らない形で、細く長く、それでいて粘り強く、そして本当の意味で、人間存在としての生の豊かさを満たすものとして存在する関わりがある。それが、「○○さん」と「○○さん」という固有名でつながりあい、広がっていくような「人と人とのつきあい」だ。

「人と人とのつきあい」で始まり、展開していくような取り組みは、一見、眼前に広がる課題に対して大変無力であるように見える。共感は出来ても、それでは根本的な解決は出来ないのではないか、というような苦言が容易に想像される。しかし、長期的な被災地の様相を顧みたときに、結局のところ残ったものが、「人と人とのつきあい」の広がり・延長でしかなかったような例を私は多く知っている。現代社会の抱える課題、そしてそれが災害によってより深刻な形で顕在化した課題、これらは社会が長年にわたってため込んできた矛盾の発露である。それゆえに、簡単に解決可能なものではない。その問いを前にして、安易に、一時的な精神の平安のために「答え」を求めるのではなく、そこに一人の人間として、広い意味での当事者として、その問いの中で「生きてみる」こと、「生きてみる」という形で「応え」ることが、実は確かな手触りを持って私たちがこの現在に向き合える方法なのではないだろうか。「答え」がないことに悲観するのではなく、「応え」によって可能性に賭けること。

災害からの復興、あるいは何らかの地域、社会が成熟していくプロセスは、実に非連続的なプロセスである。それは決して目的論的な、一次元的な発展論の中ではとらえきれない様相をもっている。「答え」がないプロセスに「応え」るには、その中で生ききるしかない。福島大学の学生の皆さんの報告から、現代日本社会の課題に正面から向き合いながら、それぞれの生き方で応じている様に考えさせられた。