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イスラエルとUAEの国交正常化が「歴史的合意」である理由とは!? 対イラン包囲網の強化と中東戦争

宮路秀作地理講師&コラムニスト
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

8月13日夜、衝撃的なニュースが飛び込んで来ました!

なんと、イスラエルとアラブ首長国連邦の国交が正常化したというニュースでした。

▼イスラエル、UAE国交正常化 トランプ氏「歴史的合意」 対イランで協力重視

https://news.yahoo.co.jp/articles/8b89205e711299739f956cb453354c22f2608fc5

このニュースを見た瞬間、半分寝ぼけていたのですが一気に目が覚めました。アメリカ合衆国のトランプ大統領が「歴史的合意である」と強調するだけのことはあります。

1979年のイラン革命によってアメリカ合衆国とイランは国交を断絶、その後30余年もの間両国の交流は閉ざされていました。しかし2013年に電撃的にイランのロウハニ大統領とオバマ大統領(当時)が電話会談、さらには2014年にイギリスのキャメロン首相(当時)の会談が設けられ、経済的交流の復活が期待されました。

トランプ大統領は、大統領に就任する以前の2012年に「ひょっとしてオバマ大統領は再選したいがために、イランを攻撃するかもしれないぞ!」とツイッターでつぶやいていました。つまり、彼の頭の中にはそういう「作戦」があるということではないでしょうか。そして自身が大統領に就任し、再選を見据えて取る選択肢を考えれば、今回のニュースはすごく合点がいきます。

イランはペルシア人の国であり、イスラームの中でもシーア派を国教とする国です。一方のサウジアラビアは、アラブ人の国であり、イスラームの中でもスンニー派に属する教義を大切にする国です。またイスラム革命以前のイラン(パフラヴィー朝)と友好関係を築いており、またイラン・イラク戦争ではイラクを支援していました。2016年1月には、サウジアラビアがシーア派の指導者を処刑したことへの報復として、イランは首都テヘランにあるサウジアラビア大使館を襲撃すると、両国は国交断絶状態となりました。

アメリカ合衆国とイランとの関係は、なかなか改善の兆しを見せません。「敵の敵は味方」という言葉があるように、中東地域においてイランを孤立させようと、アメリカ合衆国が取った手段として、「イスラエルとアラブ首長国連邦との国交正常化」ということではないでしょうか。まずはアラブ首長国連邦、そしてアメリカ合衆国を仲介としてサウジアラビアがイスラエルを国家として認める日が来るのかもしれません。すべては「対イラン包囲網」を強化するためといえるのではないでしょうか。

しかし歴史的な経緯を考えると、今回の件でパレスチナ国(アラブ人によって建国。日本は未承認)は出し抜かれた感があり、アラブ人同士の反目を生む可能性がないとはいえません。今後は、パレスチナ国、そしてサウジアラビアの動向に注目したいと思います。

今回のニュースは「アラブ人とユダヤ人が協力体制を築いた」という歴史的合意(トランプ談)であるため、これまでのアラブ人とユダヤ人との関係をまとめてみたいと思います。中東戦争を早読みしていきます。

以下にまとめた「中東戦争の歴史」について、私のYouTubeチャンネルに動画でまとめたものもございますので、よろしければこちらもご覧ください。

▼【5分くらいでわかる地理】#020 中東戦争の歴史!「4度にわたる中東戦争はなぜ起きたのか!?」

1.第一次世界大戦と中東戦争前夜について

中東戦争とはイスラエルと周辺のアラブ国家との間に発生した戦争のことです。一般的に日本では中東戦争と呼ばれますが、英語表記では「Arab=Israeli conflict」といいます。

特に1948年、1956年、1967年、1973年の4回の戦争が中東戦争と称されます。イスラエルを支援したのはアメリカ合衆国やイギリス、フランスなどでした。そしてアラブ国家を支援したのがソビエトでした。よって代理戦争のような意味合いもありましたが、これはあくまで石油などの利権や武器の供給といった経済的な側面による、いわば商売人による市場の取り合いといった意味もありました。

もちろん争いの核となっているのは、エルサレムやヘブロンなどユダヤ教やイスラームの聖地の帰属問題ですので、宗教戦争という側面が最も強いといえます。

第一次世界大戦以前、パレスチナと呼ばれるこの地域はオスマン帝国の支配下にありました。オスマン帝国はトルコ人が治める国であり、イスラームやキリスト教、ユダヤ教など、宗教の別を問わずオスマン帝国の治世下では共存関係を築いていました。

時は1914年、第一次世界大戦が勃発します。この戦争はイギリス・フランス・ロシアといった三国協商側とドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国の三国同盟による戦争でした。後にイタリア王国は三国協商側へと組みするため、ここにオスマン帝国とブルガリアが加わって4カ国による中欧同盟となりました。

イギリスはオスマン帝国と戦う際、オスマン帝国内の諸民族に対し、味方に入るよう様々な協定を結びました。1915年のフサイン=マクマホン協定によって、中東地域におけるアラブ人の独立を支持する約束をします。翌1916年にはイギリス・フランス・ロシアとの間でサイクスピコ協定が秘密裏に結ばれ、オスマン帝国の領土分割について決められていきました。

さらに1917年になると、バルフォア宣言によってパレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設を約束します。当時、ロシアでは「ポグロム」というユダヤ人虐殺を行っていたこともありましたので、ロシアと敵対するドイツを応援するユダヤ人が多かったといいます。そのためユダヤ人を味方につけるためにシオニズム運動を利用したといえるでしょう。いわゆるイギリスの「三枚舌外交」です。

そして第一次世界大戦が終わり、パレスチナは国際連盟に委任されたイギリスによる委任統治領となっていきます。これにより、多くのユダヤ人たちがパレスチナの土地に入植してきました。イギリスはバルフォア宣言を根拠に、当初はユダヤ人の入植を歓迎していました。しかしユダヤ人の増加にともなってアラブ人との間で民族衝突が起こるようになると、アラブ人たちはイギリスに対して、ユダヤ人の入植を制限するよう求めてきます。これに激怒したユダヤ人たちは、イギリス政府の建物を破壊し、列車や船を爆破するという行動をとります。

これに対して、イギリスは1973年にパレスチナの土地をアラブ人とユダヤ人に分割させる「パレスチナ分割案」を提案します。しかしこれはアラブ人が拒否したため、この分割案は立ち消えとなりました。そして第二次世界大戦が勃発します。

このときナチスがユダヤ人のホロコーストを進めていたこともあり、さらに多くのユダヤ人がパレスチナを目指して入植しました。アラブ人との民族衝突がさらに激しくなる中、イギリスは委任統治を放棄して事態の収束を国際連合に丸投げします。

2.イスラエル建国と第一次中東戦争(1948年5月15日〜1949年3月10日)

そこで国際連合は1947年、パレスチナ分割決議を採択します。この内容はパレスチナの地にアラブ人国家とユダヤ人国家の二つの国を建設するというものでしたが、10年前の分割案よりもさらに「ユダヤ人有利」の内容となっていたため、アラブ側はこの分割案を反対します。これで民族緩和の実現は完全に不可能となり、各地で武力衝突が頻発するようになりました。事実上のパレスチナ内戦が始まったといえるでしょう。

これにともないユダヤ機関のダヴィド・ベン=グリオンは、アメリカ合衆国にユダヤ人の国家建設の支援を要請します。これに対してアメリカ合衆国のマーシャル国務長官は要請を拒否しました。しかし時の大統領トルーマンは、「専門家が、『ユダヤ人国家が建設されれば中東の全ての国々とアメリカ合衆国も戦火に巻き込まれるだろう』と言っている。しかしユダヤ人虐殺の悪夢を私は未だに見る。ヒトラーの狂気の犠牲者たちが新たな人生を築けずにいるのをアメリカ合衆国政府は見過ごせない」といい、これに対しマーシャル国務長官は、国際問題に感情的に取り組むべきではないと返します。さらに、「もしイスラエルを支援するならば次の大統領選挙で私はあなたに投票しない」と続けました。

1948年5月14日、イギリスの統治が終了し、ユダヤ人はイスラエルを建国します。建国宣言を行ったのはアラブ機関の議長ダヴィド・ベン=グリオンでした。イスラエル建国は既成事実としてアメリカ合衆国に伝えられ、マーシャル国務長官はこれを認めざるを得ず、トルーマン大統領は即座にイスラエルの国家承認を行いました。

これに対して、周辺のアラブ諸国は即座にパレスチナへ侵攻し、これをもって第一次中東戦争が勃発しました。元をたどればパレスチナ内戦だったわけですが、周辺のアラブ諸国の信仰によって国家間の対立へと発展していきます。イスラエルの独立に反対の立場をとったのはエジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン(現在のヨルダン)、シリア、レバノンでした。当初はアラブ連合軍に有利な戦局となりましたが、イスラエルはこれを巻き返し、またアラブ連合軍の足並みが揃わなかったことも含めて、結局はイスラエル優位の戦局のまま、国連による停戦勧告を受け入れることで戦争は終結しました。1949年のことです。

イスラエルはこの戦争によって、パレスチナ分割決議案よりも広い領土を獲得します。しかしエルサレムは西部しか獲得できず、首都機能はテルアビブに置かざるを得ませんでした。そして「嘆きの壁」が存在するエルサレム旧市街地がトランスヨルダンの手に渡ったこと、ユダヤ教徒の聖地への出入りが不可能となったことは大きな痛手でした。またこの戦争によって多くのパレスチナ難民が発生し、周辺諸国へと流出していきました。

3.スエズ運河の国有化と第二次中東戦争(1956年10月29日〜1957年3月)

時は1952年、エジプトはアスワンダムだけではナイル川の治水能力の不足を理由にアスワンハイダムの建設に着手します。ちょうどこの頃のエジプトは、エジプト革命によって国王ブルート一行を追放して共和制へと移行していました。革命を指導したナーセルは1956年に大統領に就任します。後のナーセル大統領です。この革命によってイギリスが主導していたアスワンハイダムの建設は中止となりましたが、ナーセルはダム建設が富をもたらすこと、革命のシンボルとして利用できることを念頭に、アスワンハイダムの建設を再開させます。

この計画にアメリカ合衆国が資金援助を申し出ますが、アメリカ合衆国はイスラエルを支援する国であるため、ナーセルはアメリカ合衆国からの資金援助を破棄しました。このような経緯から、1956年にスエズ運河を国有化することとします。

このエジプトの行動に激怒したのがイギリスとフランスでした。スエズ運河はイギリスとフランスの既得権益だったわけです。そこで英仏はイスラエルを支援してエジプトと戦争を起こすよう扇動していきます。

1956年10月、イスラエルによるシナイ半島への侵攻が始まります。第二次中東戦争です。イスラエル軍の快進撃が続き、シナイ半島を占領することに成功しました。翌11月にはイギリス軍とフランス軍が介入していきます。これをさすがにやりすぎと思ったのか、アラブ諸国を支援してきたはずのソビエトだけではなく、アメリカ合衆国も批判的な態度を取ります。

そして国連の停戦決議によって戦争は終結、英仏はエジプトのスエズ運河国有化を承認しました。エジプトは第二次中東戦争には敗北しましたが、スエズ運河の国有化を達成したという点においては、エジプトの成功と考えて良い出来事でした。

エジプトの大統領ナーセルはアラブ諸国における盟主としての地位を獲得し、一方イギリスは世界のリーダーの座から滑り落ちていき、これを機に中東地域からの完全撤退を余儀なくされていきます。

4.PLOの結成と第三次中東戦争(1967年6月5〜10日)

1964年、PLO(パレスチナ解放機構)が結成されました。PLOとは、パレスチナに住むアラブ人の民族自決権、つまり自己決定権の獲得とパレスチナ難民の帰還を目的としていました。当初は武装闘争によってパレスチナをイスラエルから解放することを掲げていました。後にヤセル・アラファトがPLOの議長に就任すると、PLOは穏健路線へと変更します。PLOが結成された1964年頃から、イスラエル北部で武力衝突が起こるなど次第に緊張の度合いが高まっていきました。

1967年にはエジプト軍がシナイ半島に進出して、イスラエルに睨みを利かせるようになっていきます。一方のイスラエルも軍を動員して来るべき戦争に備え始めました。1967年6月5日早朝、イスラエル空軍が周辺アラブ諸国の空軍基地に空爆を行います。一方的に空軍基地を壊滅に追いやった後、イスラエルは地上戦の攻撃を始めます。この戦争はわずか6日間で集結し、これによってイスラエルはエジプトから「シナイ半島」と「ガザ地区」、ヨルダンから「ヨルダン川西岸」、シリアから「ゴラン高原」を占領しました。特にヨルダンから奪ったヨルダン川西岸は東エルサレムを含んでいたため、これはイスラエルにとって大変意義ある勝利でした。しかしこれによってヨルダン川西岸から難民となってヨルダンへ流出した人が増加したため、以前よりもパレスチナ難民が増加したといわれています。

この戦争の勝利は、イスラエルが現在においても「ガザ地区・ヨルダン川西岸・ゴラン高原は自国の領土である!」と主張している根拠となっています。実は当時、アラブ諸国を支援していたのはソビエトでした。時は冷戦時代であったため、世界における覇権争いでアメリカ合衆国を出し抜こうという意思があったソビエトは、エジプトとシリアに「イスラエルに動きあり」と扇動します。これでエジプトとシリアの軍が動いたといわれています。

これに対してイスラエルはアメリカ合衆国に仲裁を求めます。しかし当時のアメリカ合衆国はベトナム戦争中であったため、イスラエルを支援する余裕はありませんでした。中東地域におけるイスラエルは四面楚歌であるため、存亡の危機を感じて先制攻撃に走ったと考えられています。そしてシナイ半島がイスラエルの領土となったことは、スエズ運河東岸にイスラエル軍が駐留する根拠となっていきます。そのためスエズ運河を挟んでイスラエルとエジプトの小競り合いが続きました。これは消耗戦争と呼ばれています。

こうしたことを背景に、安全上の問題からスエズ運河の通行は不可能となり、世界経済へ与えた打撃は大変大きいものでした。またアラブ諸国の集まりであるアラブ連盟は、イスラエルに対する「和平せず・交渉せず・承認せず」という原則を打ち出していきます。

5.第四次中東戦争(1973年10月6〜24日)と第一次オイルショック

1973年10月6日、ユダヤ人にとって神聖な贖罪の日にあたるこの日、エジプトとシリア両軍がスエズ運河とゴラン高原にて、イスラエル軍に対する攻撃を加えました。贖罪の日であったことや、先の第三次中東戦争が圧勝に終わったこともあって、イスラエル側は無警戒でした。そのため先制攻撃によってスエズ運河の東岸を失います。

10月9日になるとイスラエルは反撃に転じ、まずゴラン高原を奪回、10月16日にはスエズ運河の東岸を奪回して西岸の一部を奪取しました。これに対抗してOPECに加盟する中東6カ国が、原油価格を70%引き上げることを決定し、さらにOAPEC(アラブ石油輸出国機構)がイスラエル支援国であるアメリカ合衆国とオランダに対して石油の禁輸措置を決定します。石油価格が高騰し、第一次オイルショックが起きました。石油の価格決定権はオイルメジャーからOPECへと移りました。これがOPEC 諸国の経済発展にもつながっていきます。

6.キャンプ・デービッド合意

中東戦争は4回にわたって起こりましたが、その後はイスラエルとアラブ諸国との大規模な軍事的衝突は起きていません。キャンプ・デービッド合意に調印したからです。エジプト大統領のサダトは中東情勢の緊張緩和を目指してアメリカ合衆国と連絡を取りました。そしてイスラエルを訪問するなど尽力していきます。時のアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの招待でサダトとイスラエル首相のベギンの会談が行われます。場所はアメリカ合衆国大統領の山荘、つまりキャンプ・デービッドでした。第四次中東戦争から5年、1978年のことです。

この合意に基づいて、翌年はエジプトとイスラエルとの間で和平条約が締結されます。シナイ半島はエジプトへと返還されました。サダトとベギン共にノーベル平和賞を受賞しますが、サダトは同じイスラーム教徒に暗殺されてしまいます。また同時期にイラン・イラク戦争(1980~1988年)が勃発していたこともあり、イスラエルとアラブ諸国の反目が一旦蚊帳の外に置かれたといっていいでしょう。同時期にレバノン内戦が起きていますが、これを第五次中東戦争とみなす考えもあるようです。

地理講師&コラムニスト

地理講師&コラムニスト。日本地理学会企画専門委員会委員。出講する代々木ゼミナールでは、開講されるすべての地理の講座を担当し、全国の校舎・サテライン予備校に配信される。現代世界の「なぜ?」を解き明かす授業が好評。さらに高校教員向け「代ゼミ教員研修セミナー」の講師も長年勤めるなど「代ゼミの地理の顔」。2017年発行の主著『経済は地理から学べ!』(ダイヤモンド社)の発行部数は6.5万部を数え、地理学の普及・啓発活動に貢献したと認められ、2017年度日本地理学会賞(社会貢献部門)を受賞。他方、各誌にコラムを寄稿中。新刊は『現代史は地理から学べ』(SB新書)、『地理がわかれば世界が見える』(大和書房)

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