ホーキング博士の生涯を支えた3つの奇跡

生前のホーキング博士。宇宙の前では、誰もが小さすぎる存在です。(写真:Shutterstock/アフロ)

 2018年3月14日、理論物理学者のホーキング博士が亡くなりました。この日は円周率の日であり、また現代物理学を生みだしたアインシュタインの誕生日でもあります。

 ホーキング博士は1963年、大学院生だった22歳の時にALSという神経疾患に罹患し、余命2年という宣告を受けました。

 ALSは、自分の意志で動かせる筋肉(随意筋)を動かすことが徐々に不可能になり、最後には呼吸に関連する筋肉も動かせなくなる疾患です。通常、診断から自力で呼吸できなくなるまでの時間は2年程度ですから、その余命宣告は妥当なものだったと思われます。

 しかし幸いにも、その後、「病気の進行スピードが緩慢になる」という奇跡が起こりました。それでも年々、運動能力は残酷に失われていき、1985年には自力での呼吸が困難になったことから呼吸器を装着することになりました。

 自らの意志で動かせない身体、呼吸を含めて24時間介助を必要とする身体を持ちながら研究・教育・社会への提言を続ける奇跡の科学者は、なぜ、存在できたのでしょうか?

 本記事では、ホーキング博士の障害とキャリアを振り返り、博士の活躍を可能にした奇跡を整理します。以下、ホーキング博士の生涯は、Wikipedia英語版によっています。

奇跡1・大学まで、健常児・健常学生として十分な教育を受けることができた

 ホーキング博士は、76年の生涯のうち50年以上を障害者として過ごすことになりましたが、ALSを発症するまでは健常児として育ち、健常学生として大学で学ぶことができました。初等教育・中等教育・高等教育のうち大学学部の教育においては、障害によるハンデがなかったわけです。このことは重要です。

 2018年現在も、多くの障害児・障害学生が、障害そのものがもたらす困難に加えて、「十分な教育・自分に適した教育を受けることができない」という問題に直面しています。背景は多様です。

 その障害を持つ人に対する科目教授法が十分に開発されていないのかもしれません。一定の補助具や支援によって健常者と同様に社会参加することができるにもかかわらず、費用・制度その他の「壁」が問題なのかもしれません。それ以前に、その障害を持つ人に対するコミュニケーションの方法が未開発なのかもしれません。「どうせ教育しても一人前の労働力にならないんだから無駄」という理由で、十分な教育予算が確保されていないのかもしれません。「障害があるかわいそうな子なんだから、無理に教育して社会人にして苦労させなくても、施設に入れて面倒を見てもらえばいいよ」という周囲の大人の判断があるのかもしれません。

 どの一つも、世界の多くの場所での現在の「あるある」です。

 ホーキング博士が生まれ育った時期の英国の障害児教育は、どうだったのでしょうか? 資料を探してみましたが、詳しい資料は探し出せませんでした。しかし1944年、Education Act という法律が制定され、障害児教育が法制度化されていたようです。

 この法律の該当部分を見ると、1940年代~50年代の英国の障害児教育は、障害種別ごとに「適した教育」を設定し、障害児のための独立した学校あるいは通常の学校内で提供するというスタイルだったようです。かつての日本に存在した盲学校・聾学校・養護学校と似ています。

 もしも幼少のホーキング博士がALSを発症して養護学校に通わざるを得なかったとしたら、物理学者になれるような教育を受けることは可能だったでしょうか? 親と本人の強い意志があれば可能だったかもしれません。しかし、大学生の年齢まで生き延びることはできなかったかも。

 大学生にもなっていない少年に対して、「どんなにコストがかかっても、生き延びてもらう価値がある」と周囲が認めることは、通常はないでしょう。

奇跡2・障害発生後も生き続けることができた

 ホーキング博士は、1965年に結婚した妻・ジェーンさんの理解とケアのもとで生き延び、研究を進めてきましたが、1985年、肺炎から呼吸器装着を余儀なくされました。

 呼吸器を装着して生きるということは、呼吸器に詰まる痰を誰かが吸引するということです。15分間放置されれば呼吸器に痰が詰まり、呼吸困難で死にます。自分で痰を吸引できない人が呼吸器を装着すると、24時間の途切れない介護が必要になります。

 このようなケアを公費で提供する国は多くないため、「呼吸器を装着しても生き延びる」という選択がなされることは少ないのです。しかし当時の妻だったジェーンさんは、夫を肺炎による呼吸困難で死なせることを拒否。このため、ホーキング博士は呼吸器とともに生きることになりました。

 この幸運がなければ、ホーキング博士の人生は、1985年に終わっていたはずです。

1985年、ホーキング博士が肺炎にかかったのは、スイス・フランス国境のCERNを訪問していた時でした。そのCERNのミュージアムには、来訪者のための多目的トイレが(2017年、筆者撮影)。
1985年、ホーキング博士が肺炎にかかったのは、スイス・フランス国境のCERNを訪問していた時でした。そのCERNのミュージアムには、来訪者のための多目的トイレが(2017年、筆者撮影)。

奇跡3・呼吸器装着後も、社会と切り離されなかった

 イギリスはホーキング博士に対し、呼吸器ケアが受けられる施設(老人ホームの類なのか専門病院なのかは不明)の費用を支払うつもりでした。しかしジェーンさんは応じず、ホーキング博士を自宅に連れ帰りました。

 その後、3交代勤務の看護師が雇われ、呼吸器ケアを行いました。費用は米国の財団が支払いました(そして1995年、ホーキング博士はジェーンさんと離婚し、看護師の一人と再婚します)。

 もしも、ジェーンさんが「夫を死なせたくない」と望まなかったら? 施設入所を「しかたない」と受け入れたら? 

 ホーキング博士が、その後も失われるばかりの身体能力と共存しながら研究を続けることは、ほとんど不可能だったでしょう。

 社会と切り離された施設ではなく地域社会の中の自分の家に戻ることができ、夫の望む人生と研究の実現を望む妻がいて、夫の生存にかかわるケアは看護師たちという専門家に任せることができて……という条件が重なったので、その後もホーキング博士は活躍できたわけです。

日本にホーキング博士はいないのか?

 日本にも、ホーキング博士と似た学術界のスターはいます。

 2018年1月に亡くなった東京大学准教授・阿部豊氏は、ALSとの闘病を続けながら、惑星と生命に関する研究を続けていました(東大教員紹介ページ)

 2016年に84歳で亡くなった仏文学者・篠沢秀夫氏は、2009年にALSと診断され、2010年に呼吸器を装着しました。

 篠沢氏は当初、65歳以上であり介護保険の対象であることを理由に、居住していた新宿区に障害者福祉の適用を断られました。しかし、障害者運動家らとともに交渉を重ねた結果、障害者福祉によるケアが適用され、その後も翻訳・著述・講演などの活動を続けることができました。

 余談ですが、2014年の私の共著『おしゃべりなコンピュータ 音声合成技術の現在と未来』(丸善出版)には、篠沢氏が帯文を寄せてくださいました。自分の身体から肉声を発することはできなくなっていた篠沢氏の、音声合成技術によって「自分の声」で話せることへの喜びが感じられました。

2014年、『おしゃべりなコンピュータ 音声合成技術の現在と未来』に篠沢秀夫氏が寄せた帯文。自分の肉体から声を出せなくなっても自分の声で講演できることが「夢のようだ」と語られています。
2014年、『おしゃべりなコンピュータ 音声合成技術の現在と未来』に篠沢秀夫氏が寄せた帯文。自分の肉体から声を出せなくなっても自分の声で講演できることが「夢のようだ」と語られています。

 また、元・FC岐阜社長の恩田聖敬氏も、ALSを罹患しています。まだ呼吸器は装着していませんが、自分の筋力によって痰を排出することが困難になっており、肺炎リスクの軽減が課題であるようです(以上、恩田氏のブログによる)。

 排出できない痰による肺炎は、ALSでは非常に多いパターンです。ホーキング博士の呼吸器装着のきっかけとなった肺炎も、そうだったのかもしれません。

障害者として科学者として、ジレンマとの闘いも

 英語版WikipediaのStephen Hawking ページには、以下の記述があります。

Hawking and his wife campaigned for improved access and support for those with disabilities in Cambridge, including adapted student housing at the university. In general, Hawking had ambivalent feelings about his role as a disability rights champion: while wanting to help others, he also sought to detach himself from his illness and its challenges. His lack of engagement in this area led to some criticism.

(拙訳:ホーキングと妻(ジェーンさん)は、学生寮を含むケンブリッジ大学内での障害者のアクセスとサポートの向上を求めて活動した。しかしたいてい、ホーキングは自分の「障害者の権利のチャンピオン」という役割に関して、相反する感情を抱いていた。「他の人を助けたい」と願いつつも、病気や病気がもたらす困難から自分を切り離したいとも考えていた。彼は「障害者の権利に十分に関与していない」という批判も、若干は受けた)

 私は「いやもう、わかる! メッチャわかる!」と叫んでしまいました。というのは、自分自身も元理工系研究者であり、なおかつ、中途障害者だからです。

障害者なら、たいてい同じことに悩むのかも

 現在の私は、自分の生存・生活のために障害者運動にコミットしつつも、「障害者になったからといって仕事や研究を捨てたくない」という思いを抱きつづけています。自分が障害者であることを考えていない時間も長いです。

 とはいえ、障害がもたらすハンデは確実に存在します。生存・生活のために役所や世間と闘う必要にも、心身をすり減らされています。

 障害があるからといって、研究や仕事に何らかの加点がされるわけではありません。障害があるからという理由で好ましく評価されたいとは、私自身も望みません。

 すると、ハンデがある状態で、ハンデがないかのように競争に参加しなくてはならなくなるわけです。今は「仕方ないよね、結果出さなきゃ」と自分に言い聞かせていますけれど。

 障害者運動の目的の一つは、重い障害を持ち社会の役に立たないとみなされる人々も、存分に生きられる状況です。私が職業や職業上の達成を捨てずにいること、人生のすべてを障害者運動に捧げるわけにはいかないことは、時に批判の対象となります。

「障害者になる前の自分の人生を否定されているみたいだ」と悲しくなりますし、「何の権限があって私にそんなことを押し付けるんだ」という怒りもあります。

 しかし、目の前で私に批判の声を上げている人は、教育や職業の機会を与えられてこなかったのです。それを思うと、悲しみや怒りをストレートに表明することもできません。

 さらに私自身が現在、活動できているのは、障害者運動が築き上げてきた「障害者が生存でき、生活できる」という基盤があるからです。その基盤の上で職業生活や研究を継続しているのが、私の現在です。自身の基盤を攻撃するわけにはいきません。まことに悩ましい状況です。

ありがとう、ホーキング博士

 私は今日、本記事を執筆するためにホーキング博士の過去について調べ、「なんだ、同じことで悩んでいたのか」と、少し嬉しくなりました。ホーキング博士ほど才能と環境に恵まれてきた人でも悩むんです。私が悩まないわけはありません。

 ともあれ、この76年間、ホーキング博士は生まれ育ち、学び研究し、闘病してきました。その76年間がこの世に存在した事実は、今後も多くの人々に数多くの気づきの機会をもたらし、勇気づけることでしょう。

 感謝し、ご冥福を祈ります。